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ナンバ−2。

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最近、あらためて気が付いたのだが、どうやら自分は「ナンバ−2」が好きらしい。正確に書くと、ナンバ−2の位置づけにあるものが好きだということに、気が付いた。 もっと、正確に言ってしまうと「ナンバー1」というだけで、それに興味を失ってしまう場合さえ、あると言うことに気が付いてしまったのだ。 なぜ、自分は「ナンバー2」が好きなのか? 特に「人と同じものが、嫌い」と、いうわけではないと思う。人と同じである、という安心感も否定するわけではないし、そのような理由で選ぶことないわけではない。 では、なぜなのか? 根本的な部分から考えてみれば、多くの場合「ナンバー1」と「ナンバー2」の間には、さほど大きな差がないことが多いように感じる。つまり、どちらを選んでもそんなに差がない訳だから、ただなんとなく選んだ場合は、「ナンバー1」を選ぶ時もあれば「ナンバー2」を選ぶ時も、あるはずだ。その日の気分で、両者を行ったりきたりすることも、あるはずだ。目の前で「ナンバー1」を選んでいる人を見れば、自然に、そちらを選んでしまうことも、あるはずだ。 それでも、頑なに「2」を選ぶということは、自分の強い意志で「2だけ」を選んでいるということになる。もしかしたら「1」を選んだ方が、色々な意味で有利になる場合があるかもしれないのに、わざわざ「2」を選んでいるという段階で、何らかの意思が働いているということだ。 それは何なのか? さらに考えてみるに「2」を選ぶ(選び続ける)ということは、しかるべき自分なりの理由を考えなければいけない、ということに気が付く。例え目の前に「1」があって、入手しやすかったり、価格が安かったり、「1」というブランドイメージや、よりたくさんの人が集まるというエネルギーを感じたとしても、あえてそれを無視して「2」を選ぶということは、自分の中で何かしらの「2を選ぶ理由」を考えていると、いうことだろう。 そう、だんだんわかってきた。自分が「2」を選ぶといことは「何かを選ぶ時は、理由を持って選びたい」という気持ちの表れではないかということだ。もちろん「1」を選ぶ時にも、理由は考える。しかし、あえて、「2」を選ぶという、この「あえて」の部分に、強い意志や理由が必要になってくるわけだ。みんなに「別に、1でいいじゃん」と、言われたとしても、あえてそこで「いや、自分は2を選ぶ。なぜなら・・・」と、逆

ノルウェイの森を、観に行く。

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映画「ノルウェイの森」を観た。 この作品の原作である「ノルウェイの森」を読んだのは、今から約20年ほど前のこと。 当時、付き合っていた彼女から、誕生日プレゼントにと、単行本をもらったことが、きっかけだった。 せっかくプレゼントにもらったものだし、少しずつ、ゆっくり読もうと思っていたのに、読み始めたら止まらなくて、途中で止めることができなくて、結局、その日のうちに、徹夜で上下巻を一気に読み終えてしまった。部屋の外で鳥が鳴いている声が聞こえて、もう、今さら寝ても仕方がないな、と思い、そのまま、ぼんやりとした頭で一日を過ごした記憶がある。 それから、20年後。 まさか、この作品が映画化されるとは、思ってもいなかった。うれしい、という気持ちと同時に、見たくない、という気持ちが強かったことも事実。結局のところ、自分の頭の中にある「思い込みの映像」と、映画の中の映像が、全く完全に一致する訳がないし、そのようなことは、100%ありえないから、がっかりする気持ちの方が強いのではないか、という不安の方が大きかったわけだ。 それでも、 トラン・アン・ユン監督 が、どのような作品に仕上げてくれるのかを確かめたい、という誘惑には勝てず(監督の「 青いパパイヤの香り」は、とても好きな作品のひとつだ)公開されてから、約10日ほど過ぎたあたりに、 いそいそと映画館へと向かうことにした。 結論からいうならば、これは自分にとって「すばらしい映画」となった。 自分の頭の中にあったイメージとリンクする映像を、スクリーンの中に見つけることができた。 トラン・アン・ユン監督の美意識が溢れる映像。リズム。トーン。使い古された言葉だけど「あっという間の2時間」だった。もっともっと、この世界を観ていたいと思った。 おそらく、のちほど完全版の「ノルウェイの森」がDVDでリリースされることだろう。と、いうより、ぜひリリースしてほしい。絶対にしてほしい。早く、観てみたい。3時間バージョン。いや、できれば4時間バージョン。5時間でもいい。長ければ長いほど、いい。そんなことを考えながら、12月の静かな夜を、ぼんやりと過ごしました。

組写真:「一日歩き回った、日(秋)」

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新しい写真をホームページにアップしてみた。 今回のタイトルは「一日歩き回った、日(秋)」で、その名の通り、近所を散歩しながら撮影したものの中から、8枚を選び組写真にしたものだ。 使用したカメラはiphoneで、アプリを使って手を加えてみた。撮影から編集まで、ちいさなiphoneひとつでできる、というのは、とても気軽で便利だ。そして、なによりも楽しい。 ほんの10年くらい前までは、Macを立ち上げて、デジカメを接続して、重たい画像編集ソフトでコツコツと作業をしていたのに、今では、ちいさなiphoneで、当時と同様のことができる。いや、こちらの方が(いろいろな意味で)優れていると言っても、言い過ぎではないかもしれない。 あとは、本人の感覚と技術を磨くだけ。こればかりは、ワンクリックでアップデートできないですからね。継続は力なり。 写真のページは、こちら >>>

facebookを、はじめてみる。

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11月になったので、facebookを始めてみた(←深い意味なし)。 始めてみた、というのは、実はちょっと正確ではなくて、以前に登録していたアカウントを、再開したというのが正しい表現になる。そう、つまり「一度、始めようと思ったけれど、なんとなく放置していた」ものを、やり直そうということだ。 手始めに、まずは、twitterと連動させてみる。簡単な手続きで、あっさりと連動に成功。試しに、twitterからツイートしてみると、すぐにfacebook上にも反映される。これは、いい。なんとなく活気が出てきた。 次に、iphone用のアプリをインストールして、iphoneからもアクセスできるようにしてみた。ついでに、一通りプロフィールなども書き直して表示させてみると、なぜか一番目立つところに「〜さんは独身です」と表記された(画像参照)。なぜだろう? 自分の一番のアピールポイントは「独身である」と、facebookに判断されたのだろうか(まさかね)。 まあ、確かに独身ではあるのだが。でも、そこは別に強調したい部分ではないのだが、などと、ちょっとセツナイ気分になりつつ「友達」のページを見てみると、今度は「友達がいません」と、表示されていた。 そうだよ。独身だし、友達もいないよ。でも、そんなにはっきりと言わなくてもさ、とさらにセツナイ気分になった。どうやらfacebookは、孤独な人間は冷遇される仕様らしい(笑)そしてすでに、今回もこのまま放置してしまいそうな予感がするわけです。

怖い、電話。

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ちょっと、怖い(?)話。先日、カード会社から「あなたのカードが不正利用されている可能性がある」と電話がきた。その時に頭に思い浮かんだのは「この電話自体が、怪しいのではないか?」と、いうことだった(←当然だ) そこで、冷静さを装いつつ、慎重に話を確認したところ、安全のために「新しいカードを、再発行する」ということになった。新しいカードは、10日ほどで届くという。 そこでもまだ、疑っていた自分は (結構、疑り深い性格なのだ) 、電話を切ってから、ネットでカードの登録内容を確認してみることにした。・・・うむ。確かに「使えなく」なっている。どうやら、正しく手続きが行われているらしい。こちらからは、カード番号などの情報は一切言わなかったし、先方の質問に答えただけだから、さきほどの電話は、カード会社からの電話だったと考えて、間違いないであろうと判断する。 とは言うものの「本当に、新しいカードがくるまでは用心だ」と、そしらぬふりをしながらも、ひやひやしていたところ、昨日になって、ようやく新しいカードが届いた。おもむろに封筒を開けて、実物を見て、ほっとひと安心する。カードのデザインが新しくなり、かっこよくなっていたので「カードが、カッコよくなって、よかった」と、よろこんでみる。トラブルに巻き込まれた後は、ささやかなことでも、心から喜ぶことである。ちいさな喜びが、大きな歓喜を呼び込むからだ(と、自分に言い聞かせてみる・笑) それにしても、どこからカード情報が流れたのか? そこが一番の不安要素だ。一度流れた、ということは、また同じ事が起きる可能性が、あるからだ。今や、カードがないと不便な世の中。毎月の支払いも、クレジットカード経由のものが多いから、切り替えの手続きも大変だ。色々な意味で、恐ろしい世の中ですよ。怖いね。

新しい、テレビ。

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「まもなく、エコポイント対象商品が、うんぬん・・」という情報を聞いたので、ようやくテレビを買い替えることにした。 普段、テレビをほとんど見ないので「このまま、テレビのない生活に移行してもいいかな」と思っていたのだけど、それはあまりにも意固地だろうか、と考え直し、買い替えることにしたわけだ。ないよりは、あった方がいいし「絶対にテレビは見ない」という信念がある訳でもないので、お得なエコポイントがあるうちに、という訳である。 最初は、20インチくらいのものでいいかな、と思っていたのだけど、実際に店舗で商品を見てみると、32インチでも5万円台のものがある。安い。実家のリビングに設置してあるテレビは、確か20万円くらいしたような気がする。こんなにも値段が下がったのか、と驚いてしまう。 店員さんに話を聞くと「一日、千円下がっていくような感じで・・・」と、値下がりの大きさを表現してくれた。ここまで値段が下がってしまうと、メーカー側としては寂しいだろうな、と思いつつも、ユーザー側としては安さにホクホクしながら、32インチのものに決めた。メーカーはTOSHIBAでREGZAという機種だ。 さっそく持ち帰って、セッティングを行う。電源を入れて、アンテナのコードをつないで、後は自動設定してしまえば、終了だ。簡単だ。一通り、操作してみて、ちゃんと映るのを確認して終了。これで、地デジへ移行しても大丈夫。ひとしきり、満足する。 翌日、古いテレビを同じ店舗へ持って行って、処分してもらった。カウンターまで運んでいく途中で、パーツの一部が取れてしまった。店員さんがそれを拾って、無造作にゴミ箱へ捨てた。もう使わないものなのだから、ゴミ箱行きは当然のことなのだけど、ずっと使っていたものが、あっさりと処分される様子を見るのは、寂しいような気がした。なにせ、学生の頃から10年以上も使ってきたテレビだ。あんな番組や、そんな映画もこの小さなテレビで観てきた。ゲームもしたし、当時の彼女と一緒に明日の天気予報も見た。 おそらく、あの時以上に、テレビを観ることはないだろうな、と考えてみたりする。大学生の4年間で、30代に見る分を一度に観てしまったのではないか、と思ったりする。子供の頃に、家に新しいテレビが届いた時は、一大イベントだったし、テレビの前で家族そろって写

痛み、について考えてみた。

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ようやく、痛み止めを飲まなくても、ぼちぼち作業ができるようになってきた。ほんの一週間前の状態から考えると、驚きの回復だ(と、言ってみたい)。数年前に、体調を崩して寝込んだ時から、それなりに食事を整えたり、山に登ったりしてきたけど、予兆を無視して走った結果が、このありさまだ。 痛みを感じている時は、意識がそこにばかり集中してしまうから、マイナスの方面へと思考が深まりがちになる。次第に、過去の記憶の中から(普段は思い出すこともなかった)、最も悲しい記憶を掘り出し、それを何度も繰り返し考えるようになる。さらに(マイナスな)情報を、かきあつめるようになる。 やはり「身体は痛んでいても、脳だけはポジティブに動く」と、いうわけにはいかない。痛みが気になるからなのか、脳が痛みに対応することに忙しいからなのか、それはわからない。わからないけれど身体と脳は、しっかりと連動している。痛い時は「それ」しか考えられない。脳も痛い方向へと傾いていく。 でも、痛みの原因が明確になれば、それを解消するには「何をするべきか」が、具体的にわかる。わかってしまえば(そこへ留まるか、先へ進むかは、個々人の選択にはなるわけだが)次は行動するだけだ。もちろん恐怖は残るが、同じくらいの希望も育ってくる。それは、とてもあたたかく、力強いものだ。 原因がわかれば、痛みは怖くない。 現在、午前2時。他のみなさんが、眠った時間を見計らって、思いついたことを連続でツイートしてみた。書いているうちに、いつの間にか「身体の痛み」から「心の痛み」へと内容がスライドしてしまっていた。自分で読み返してみて、なんだかおもしろかった。本日の仙台は「曇りのち晴れ」らしい。合掌。 ・・・以上、twitterに投稿したものを、ここにまとめてみた。 通常は、twitterの内容をまとめるようなことは、ないのだけど、体調不良で情緒的になっていたせいか、いつもの自分なら絶対に書かないだろう、という内容だったので、あえてここにも記してみることにした。 普段、痛みとか病気といったものと、全く無縁の生活をしてきたせいか、今回の体調不良は、思いのほか色々なことを考えるきっかけになった。病気は恐ろしく、絶望を感じるものだけど、立ち止まる(立ち止まざるを得ない)状況になることで、何かわかる

宮城県美術館「新しい美術の系譜」

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宮城県美術館の「新しい美術の系譜」へ行ってきた。 今回の目的は、ロレッタ・ラックスの作品を観ること。ある雑誌で、彼女の作品を目にしてから、ぜひ一度本物を観てみたいと思っていたので、今回は、とても楽しみにしていた。 展示されていたのは「ドロテア」と「アイルランドの少女たち」の2作品。ちらっと観ると、絵画のように見えるけれど、良く観ると写真。かわいらしい女の子が描かれているように見えるけど、しばらく見ていると、妙に不安を感じる作品。やわらかだけど、硬質なトーン。ずっと見ていたいような、すぐに目を逸らしたくなりそうな世界観。そんな、矛盾した雰囲気が同時に存在する、不思議な作品だった。 自分のレベルでは、この作品に、どのような画像処理がほどこされ、仕上げられているのかは、わからない。わからないけれども、とにかく、膨大な時間がかけられ、丹念に仕上げられているということが、ひしひしと伝わってくる。その、絶対的な作業量が、自分が感じた「不思議な感覚」の源泉となっているのかも、しれない。 平日の閉館まぎわの時間帯と、いうこともあり、観客がまばらだったので、作品を独り占めして、じっくりと楽しませてもらった。この2作品を観るだけでも、充分に足を運んだかいがあったと、思った。あまりにも、離れがたくて、閉館ギリギリまで粘ってしまい、あやうく次の予定に、遅れてしまうところだった。 美術館を出て、近くの高校の前を車で通ったところ、校門の近くで、ダンスの練習をしている女子高生の姿が目に飛びこんできた。体を左右にリズミカルに揺らし、飛び跳ね、ニコニコと笑いながら、そばに立って見ている友達と話をしていた。何かのイベントで発表でもするのだろうか。それとも、ただ踊っていただけなのだろうか。美術館と、女子高生のダンスの組み合わせは、自分の中にある、遠い遠い昔の記憶を、呼び起こしてくれるような、 ロレッタ・ラックスの作品を見た時に感じたものと、どこか つながるような、そんな不思議な感じがした。 ロレッタ・ラックスの写し出す子供たちは何を見つめているのかLORETTA LUX  ロレッタ・ラック...

ラシーン発進。

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夏がおわった。 涼しくなってきたので、ラシーンの調子が良くなってきた。オンボロ車(平成7年式)には、今年の猛暑はキツかったはず、おつかれラシーン。 僕は、車やバイクが好きで、16歳の誕生日の一週間後に原付の免許を習得してから、ずっと車やバイクを運転し続けてきた。レストランで皿洗いのバイトをして、コツコツ給料を貯めて(その当時の時給は、580円くらいだった/高校生)ヘルメットを買ったり、グローブを買ったりしながら、バイクを自分好みにアレンジしたりして、少しずつステップアップを、したものだった。 車は、自宅にあった(父親が所有していた)ニッサンのスカイラインが最初で、それから2台スカイラインを乗り継ぎ、今のラシーンに至っている。 どの車も初期登録から10〜12年ほど乗って廃車にしてきたけれど、ラシーンの場合は、今年で16年目。今まで乗ってきた車の中で、最年長となる。 実際のところ、年々パワーも落ち、燃費も悪くなってきているのを感じるのだが、それでもこのスタイル(レトロモダン風)が気に入って、まだしばらくは乗ろうと思っている。高速に乗ると、四角いボデイがものすごい空気抵抗となり、軽自動車にも楽々抜かれることも多いのだけど「これは、速く走る車ではない」と、割り切って、一番左側の車線をトロトロと走るようにしている。 自分が子供の頃には「車は10年で廃車」のような、雰囲気があったけれど、ラシーンに関しては、このままトラブルがなければ、17年目に突入するのも決して夢ではないと思っている。もう一度、車検を通すことができれば(メンテナンス費と、維持費との兼ね合いである)19年目を目指すことになる。はたして、どこまで乗れるものなのか、自分としても、とても興味があるところだ。 たとえば、今から70歳くらいまで車を運転するとすれば、これまでの自分のペースでいくと、生涯で8〜9台の車を乗り継ぐ、といったペースになるかと思う。せいぜい10台と、いったところだろう。どんなに多くても、11台目に乗るか乗らないか、といった範囲に収まると思う。 そう、わずかに10台である。生涯で乗れる(自分がオーナーになれる)車は、そんな程度しかないのだ。 この短い人生の中で、どうせなら、少しでも自分が好きな車に乗りたい。自分の好みに合って、大切にで

山を歩いた日。

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山歩きをしていると、様々な人とすれ違う。 その多くの方とは、「こんにちは」だけで、終わりになってしまうのだけど、水場などで休んでいる時に話しかけられたりすると、ついつい長話に、なることもある。 今日、とある山の水場で出会った方(70代・男性)にも、面白い話を聞かせていただいた。 その方は、単独で登っていたのだけど、70代で単独で登るくらいだから、そうとうの山男で、 若い頃に、会社を一週間休んで、日本アルプスに登った時の話や、当時の整備されていないルートを歩いた時の恐怖体験など、時代背景を感じさせる、興味深い話を聞く事ができた。なかなか話す機会のない年代の方と、共通のテーマでお話しさせていただくことは、とても楽しいし、元気がでる。なるほど、なるほど、と、すっかり聞き役に回って、じっくりと山の話を聞かせていただいた。 15分ほど話しているうちに、急に年齢の話題になっていった。どうやら、その方は、僕のことを、30歳くらいだと思っていたらしくて(いくらなんでも、若過ぎだ!)実年齢を教えると、そうですか、ずいぶん若く見えますね、失礼なことを言ってしまったなぁ、と頭をかくような仕草をされた。そして「でも、若く見られて、損ということはないですよ」と、にっこりとした。 その方によると、僕が若く見えるのは「自由に人生を楽しんでいて」「エネルギーが余って」いるから、なのだそうだ。逆に言えば「人生や仕事を楽しめない人は、すぐにエネルギー切れになり、老け込み、最悪の場合は寿命が短くなってしまうものだ」と、自分の友人を例にあげながら、あの人はこうだった、あいつはこうなった、と「どんなに鍛えていても、死ぬ時はあっさりと死ぬ」と、語ってくださった内容は、とてもリアルで生々しいものがあった。 なかでも、ちょうどこの同じ山に一緒に登っていた友人がいて「じゃあ、また今度!」と、元気に別れた数週間後に、その方が突然亡くなってしまったという話には、思わず息を飲んでしまった。「見た目は、あんなに元気だったのに、寿命が切れると、あっさりと亡くなる」とか「あなたが車を停めていた、ちょうどその横に、その人は車を停めてた」などと言われると、思わず姿勢を正してしまう。水場から聞こえる水が流れる音も、冷気も、ひやりと背中を通り抜けて行くような、気がする。 「それでは、エネルギーを保つには、どうすればいいでしょうか?」と

もしも、18歳に戻れたのなら。

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自分の唯一の自慢といえば「体が頑丈にできている」ということ。今までに、大きな病気もしたことはないし、入院するようなケガをしたことも、ない。せいぜい、部活動で足を痛めて、2〜3回通院したとか、その程度のものだ。 そんな自分でも、年に1度くらいのペースで、体調を崩すことがある。腹が痛いとか、偏頭痛が、ということではなく、「なんだか、体がズシーンと重い」感じになり「ベットに横になっていても、腕を上げるのさえ、おっくうだ」というような、状態になる。上から、重たい鉄の固まりのようなものに、ぎゅーっ、と押さえ込まれているような、体の周りを360度、冷たい鉄で囲まれたような、感じになる。その時は、全く身動きができなくなる。ただじっと、それが通り過ぎていくのを、横になって待つしかない。目を閉じて、眠り続けるしかない。 そして、今日が、ちょうど「それ」の日だった。最初は、夏バテかな、と軽く考えていたのだけど、どうにも体が動かなくなり、何も考えられなくなってしまったので、思い切って3時間ほど、横になって休むことにした。幸いなことに、今日は、夕方のミーティングまで、予定がない。休める時に休む。これも仕事のひとつだ、と考えることにして、よっこらせとベットの上に横になる。 特に眠かった訳ではないので、カーテンを開けて、窓から見える空を眺めていた。真っ青な空と、白い雲が流れていた。窓は閉め切っていたので、外の音は聞こえなかった。とても静かで、いい午後だと思った。じっと、そんな風景を眺めているうちに、ふと、高校生の頃に、学校を休んで(サボッて)空を眺めていた時のことを、思い出した。確か、あの時も、こんな感じの空だったなと思った。同じような季節の同じような時間に、こうやって空を見ていたよな、と思った。 もしも、18歳の頃に戻れたのなら、 と自分に問いかけてみる。自分は、何をするだろう? 答えはすぐに思い浮かんだ。戻ったとしても、同じことをやるだろうし、そもそも戻りたいとも思わない。18歳は一回でいいし、あの18歳が、自分にとってのベストだったような、気がする。 もちろん、18歳の頃の自分が、すばらしい人生だったとか、後悔のない人生だったという訳ではない。あれもすれば良かった、これはこのようにすれば良かった、ということは、たくさんある。思

iphone 発熱

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仕事中、なにげなく机の上に置いてあったiphoneの画面に手を触れてみた。おや。なんとも言えない違和感。あらためて、本体をにぎってみると、ものすごく熱くなっていた。使い捨てのカイロのようだ。冬ならば、ほのぼのとする温かさだが、夏(正確には初秋)にこの温度は、なにやら危険な感じがする。 冷房が聞いた室内だから、直射日光が当たることもない。誰かがお湯をかけたわけでもないし、ふところに入れて温めたわけでもない。当然、手も触れていないし、自然の状態のまま放置し、自然に発熱してしまったわけだ。 一体なにが? と思いつつ、よくよくチェックしてみると、充電が残り10%になっている。つい、30分くらい前に確認した時には、緑のバーになっていたから、最低でも30%くらいは残っていたはず。もしかして、故障か? またソフトバンクショップに持っていくのは、嫌だな、と思いつつ、一旦電源を切って、冷却を試みる。 15分ほどして、常温に戻ったのを確認してから、再起動。アップルマークが表示され、カーソルがグルグルと回っている様子を、じっと見る。じっと見る。じーっと見る。数十秒後、見慣れた画面が表示された。とりあえず、大丈夫そうだ。一通り操作をしてみる。普通に動く。どうやら故障はしていないようだな。データーなども消えた様子はない。ほっ、と文字通り胸をなでおろした。 いまや、iphoneは自分にとって必須のアイテムになっているけれど、定期的(?)にやってくる、この手のトラブルには(一度、交換修理という、痛い目にあっているだけに)本当にヒヤヒヤする。仕事の連絡用に、もう一台携帯電話を用意した方がいいのかなどと、本気で考えたりした、9月の午後でした。

カエルが、旅立った日。

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かれこれ数週間前。 庭に設置していたビニールプール(甥っ子用)に、オタマジャクシが大量に発生していたことが、あった。 いったい、どこから? 庭には池もないし、近場にもないし、鳥の足にでも卵がついていて、それが、うまいこと落下したのでは? とか、通りすがりの人がおもしろがって、投げ入れたのでは? などと考えたりしたのだが、どれもこれも現実味がない。 そんなことを考えながら、ゆらゆらと動いている、オタマジャクシを眺めているうちに、いや、まてよ、もしかすると、これはオタマジャクシに見えるけど、他の生き物なのではないか? 根本的に、別の「何か」なのではないか、という疑問がわいてきた。 そこで、ビニールプールの水を捨てる際に、以前、メダカを飼っていた水槽に「それ」を、入れておくことにした。数週間後、オタマジャクシに足が生えてきたのを確認。やはり、これは、そうだったのか。新種の生き物ではなかったんだな、まあ、それは当然だよな、と思いつつ、水を換えてやったり、時折、氷をいれて冷やしたり、していた。もはや、親心である。 本日、朝。何気なく水槽を見たところ、カエルが水槽の端に立っているのを発見(写真)いつの間に、こんなに大きく・・・しかも、ちゃんとミドリ色になっている。と、驚いていたところ、彼(彼女?)は、飼い主に勇姿を見せたあと、水槽から旅立って行ってしまった。娘を嫁にやる、父親の気持ちが、なんとなく、ものすごく遠回しに、理解できたような気がした。 そんな訳で、あの黒いのは、オタマジャクシであったことを、数週間かけて確認した夏だった。それにしても、彼らはどこからやってきたのだろう。そして、どこへ行くのだろう。なんとなくしんみりとしながら、残暑の朝を過ごしました。

EVERNOTEの使い方。

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iphoneを入手してから、頻繁に使うようになったEvernote。使用頻度が高くなればなるほど、このアプリが手放せなくなってきた。 最初のうちは、Macで編集(または保存)したデーターを、外出先のiphoneで確認&編集できるアプリ、という認識だった。もちろん、それだけでも十分に活用できる。時間をおいて、読み返そうと思っていた原稿などを、空き時間に確認できて、簡単な編集できるというだけでも、ありがたい。ちいさなノートパソコンが一台増えたような感覚で、かなり活用していた。 次に、Evernoteから発行される自分専用のメールアドレスに送信すると、そのまま保存できることを知った。もちろん、画像も添付できる。自分は、備忘録として、携帯のメールから、パソコン用のアドレスに内容を送信することが多かったのだが、今ではEvernoteに送信するようになった。自宅に帰ってから、確認する習慣をつけて、必要なものはタグ付けをして整理をしておくようにしたので、検索も楽になったし、見落としも減った。 さらに、最近また気がついたのが、「位置情報」をオンにした状態で、スナップショットで撮影し保存しておくと、あとから撮影場所のマップを確認することが、できるということだ。これは便利。知らない店に連れて行ってもらい、あとから「確か、この辺りだったよな・・」と、いうことはよくあるが、Evernoteで、その場所で目印となるものを撮影し、保存をしておけば、あとから画像とマップで場所を確認できるということだ。 これで、ますます便利になるな、と思いつつも、よくよく考えてみれば、自分の行動が詳細に記録されるということでもあり、ちょっと恐ろしい感じもしたりする。「ふーん、こんな所に行っているんだ」などということが、ものすごく詳しいマップで明らかになる。他の人が使う可能性があるパソコンを使う場合は、ログアウトしていることを、確認しなければならない。 それはともかく、まっとうな使い方をする分には、かなり「使える」アプリであることは、間違いない。連動できるアプリも増えてきたようなので、いくつか試してみたいと思っている。 EVERNOTE スターターパック

イランイラン

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先日、 フレグランスキャンドルをいただいてから、また「香り」に興味がわいてきた。そこで、久しぶりに、引き出しの奥底に眠っていた、お香を取り出してきて(なぜ、お香を持っているかということは、秘密である)色々と試してみている。 全部で4種類ほどストックしてあった、お香のなかで、今回、いちばん気に入ったのが「イランイラン」だった。以前、試した時には「イランイランは、あまり好きではない香りだな」と、感じた記憶がある。ところが、今あらためて試してみると「いちばん、いい香り」と感じている自分が、とても面白かった。香りの趣味、というのも、こうやって気がつかないうちに、変化していくのかもしれない。ただ、今日の体調や気分で、そうなっているのかもしれない。どちらにせよ、本日のベストは「イランイラン」である。 なんとなく気になったので、イランイランについて調べてみる。Wikipediaによると「インドネシア には新婚夫婦のベッドの上にイランイランの花を散らす風習がある。」とある。なるほど、そのように言われてみると、新婚夫婦にはぴったりの、甘酸っぱい香りのように思えてくる。 さらに調べてみると、どうやらイランイランには「 官能的な気分を高めるような、 催淫特性」が、あるらしい。 催淫特性? なんだか、ものすごくエロティックな響きの言葉である。なにせ、 催淫である。淫らな気分を、 催促するという、ことである。いわゆる 媚薬である。 このような情報を見てしまうと「イランイランでも、試してみる?」などと、女性の前で気軽に言えなくなってしまう。知らない時は「試してみる?」と、さわやかな笑顔で言えたが、知ってしまった今となっては「試してみる?」の言葉の裏に、ニヤリと光る怪しいものを感じてしまう。なるほど「新婚夫婦のベッドの上に花を散らす」というのは、そういう意味だったのか、とわかってしまう。これは、知らない方がロマンティックだったのに、という情報のひとつかもしれない。 そのような訳で「イランイランの香りが好き」と、先に書いてしまった自分が恥ずかしいような、気持ちになってしまうので、自己弁護のために書いておくと、イランイランには「リラックス効果」も、あるそうだ。 なので、もしも相手に問いつめられた時には「え? そうなの? オレはリラックス効果があると、思って

鳴子温泉の共同浴場「滝の湯」へ

鳴子温泉 滝の湯へ 先日、ちょっとした旅の帰りに、鳴子温泉に立ち寄ってみた。もしも自分が、県外から遊びにいらっしゃった方に「宮城県内で、おすすめの温泉は?」と聞かれたならば、 「鳴子がいいと思いますよ」 と答えるだろう。すこしピリッと感じる、熱くて白く濁ったお湯が、とても心地よい。鄙びた雰囲気の温泉街に漂っている、硫黄の臭いも温泉に来たのだという臨場感を、高めてくれる。まさに 自分の中での「温泉」というイメージに、ぴったり の場所だからだ。 駅前から少し離れたところにある、無料駐車場に車を 置く 。車から降りた途端に、あの独特のにおいが、鼻をついてくる。当日は霧雨が降っていたのだけど、それでもしっかりと臭いが漂ってくる。一気に温泉に来たぞ、という気分になる。 いそいそと、タオルを手に持って、目指すは、 共同浴場の「滝の湯」 。個人的に、鳴子に来たならばここは寄っていただきたい。服を脱ごうとすると、肩がぶつかるような狭い脱衣所に、10人も入ったら満員になりそうな、ちいさな湯船。 いやいや、これは批判しているのではない。いかにも「日本の温泉」という雰囲気を直に感じられる貴重な共同浴場という意味である(ホームページによると「 鳴子温泉神社の御神湯として千年の歴史をもつ古湯」とのこと )。木枠から「ザブザブ」と掛け流しになっている、お湯の様子を見るだけでも、気持ちが癒されてくる。これぞ、贅沢と言った感じがする。しかも 入浴料金は150円 だ。お得すぎる(2010年現在) せっけんなどはないので、ケロヨンの黄色い洗面器にお湯をためて、頭や身体を、ざぶざぶと洗う。タオルでごしごしと身体をこすっただけでも、日頃の垢が落ちていくような気分になる。おそるおそる(温泉に入る時は、慎重になるのは、なぜなのだろう?)湯船につかる。 記憶の中にある泉質よりも、心なしか穏やかになったような気がする。少し、湯の温度も下がったかな。 もちろんそれでも、ここの湯が心地よいことは、かわりない。湯の華が漂っている湯船の中に、ゆっくりとつかっていく。思わず、ふーっ、と息が深くなる。天井を見上げる。身体がふわっと、浮き上がるような感覚になる。 当日は、自分以外に7人ほどの、お客さんがいたのだけど、全員、かなりの長風呂で、何をするわ

ベガルタ仙台 ゴー! 行くぞ 仙台ー。

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8月7日のベガルタ仙台ー横浜F・マリノス戦に行ってきた。スタジアムに応援に行くのは、実に一年ぶり。つまりJ1に昇格してから、初めてのスタジアム応援と、いうことだ。 泉中央駅から、スタジアムに向かう道で、マリノスのユニフォームを着たサポーターと出会う。当日の自分は、体調が悪く、やや猫背気味になっていたのだけど、マリノスサポーターの集団が歩いてくる様子を見た瞬間に、テンションがあがり、背筋が伸びた。多少の体調不良は、精神力でカバーできるということを、体験から学ぶ。つい先ほどまでは、車内で横になって寝ていたのに、さあ、応援するぜ、という気分になる。 スタジアムの中は、いつもの熱気であふれていた。緑の芝生を、ベガルタゴールドのカラーが、ぐるりと囲む。ホームならではの雰囲気だ。夏休みのせいか、いつもよりも、子供の姿が多いように見える。母親が子供を連れて、観戦に来ている様子を見るのは、なかなかいいものだ。日本の夏という感じがする。試合が始まった途端に、子供は椅子に座って静かにしているのに、母親だけが立ちあがって、タオルを振り回している様子を見るのも、いい。みんな、サッカーが好きというよりも、ベガルタが好きなのかもしれないと、思ったりする。同じ空間で、同じ声援(応援歌)を共有できることが、楽しいのかもしれないなどと、思ったりする(もちろん、勝利を願う気持ちは大前提だ)。 当日の試合は、残念な結果になってしまったし、ゴールもなかったので、ゴールが決まった時の応援歌も聞くことができなかった。これは、また応援にくるように、ということだろう。またチケットを入手して、応援にこようと思う。

DIPTYQUE

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誕生日プレゼントに、 DIPTYQUEの フレグランスキャンドルを、いただいた。 フドブワという、種類のもので、香りは「ウッディ」。さっそく、火を灯してみると、ヒノキ(だと、思う)の香りが、ふゎーっと広がっていく。おかしないい方かもしれないけれど「すごく、考えられた香り」だな、と感じた。心地よい。 ろうそくの火が、灯っている様子を見ていると、脳の中がゆらゆらしていく感じがして、ぼんやりとしてくるけれど、それに、このような香りが漂ってくると、別の世界に連れていかれそうな感じにさえ、なってくる。 かなり気に入ったので、これをきっかけに、フレグランスキャンドルについて、少し情報収集をしてみようかなと、思っている。火と香りの組み合わせは、けっこう「おもしろい」ことに、なりそうな感じがする。

土屋鞄製造所の財布。

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自分は今、 土屋鞄製造所 の長財布を愛用している。 かれこれ、4年以上も前(いや、5年だったかもしれない。正確には忘れてしまった)に購入したものだ。 かなり使い込んだので、あちらこちらに傷がついてしまった。擦り切れたところもある。しかし、太陽の光に照らされて、いい感じの色合いになっている時などは「普通の人から見れば、古い財布と思われるだけだと思うけど、貫禄のあるいい財布になってきたな」と、一人でニヤニヤしたりしている。つまり、かなり気に入っていると、いうことだ。 今となっては、どこで、 土屋鞄製造所 のことを知り、なぜここを選んだのかは忘れてしまったけれど、もうしばらくは、この財布を使おうと考えている。 先日、知り合いへのプレゼントにと、土屋鞄の革小物を購入したのだが、見ているうちに、自分も欲しくなってきて「がんばっている、自分へのごほうび」などと、称して何かを買ってみようかなと、思っている。定番のキーケースが、いいだろうか? いや名刺入れを新しくした方がいいかもな、などと、真夏の夜に、物欲はますます深まっていくわけです。 関連: 土屋鞄製造所のキーケースを購入

photobackで、フォトブックを、作ってみる。

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フォトブックを、作ってみた。 前々から、興味はあったのだけど、なかなか作るきっかけをつかめなかったのだが、先日、旅に出かけた時の写真が、なんとなく「フォトブック向け」のような気がしていたので、思い切って挑戦してみることにした。 今回は、 【Photoback】一冊から作る写真集 というサイトで制作してみた。 手順としては、掲載予定の素材(写真)を、まとめてアップロードし、用意されたテンプレートに、一枚ずつ貼付けていく、という流れだった。 作業を開始してみると、非常に簡単で、サクサクと進行することができた。フォトブックのような冊子を制作する時は、レイアウトがポイントのひとつに、なるわけだけど、今回は用意されたテンプレート(数種類の中から選べる)の中に、自分がイメージしていたものがあったので、思いの他、一気に完成することが、できた。 もちろん「もう少し、この写真の位置が右に・・」と、いうような希望もあることはあるけれど、この値段で、スムーズに制作できることを考えれば、十分だと自分は思った。ただ(これは、自分が文章に関する仕事をしているから、そう思うのかも、しれないけれど)フォントの種類、サイズやカラーは、もう少し増やしていただければ、と思う。それだけで、もっと楽しみが増えると思うのだけど、どうでしょう? ちなみに、今回使用したphotobackのテンプレートには、テキストが入力できるものがある。最初は、普通の記念写真のように「夏山登山にて。左から、今回お世話になった、山下さん。その隣は〜」と、入力していこうかと思ったのだが、やはりここは、ちゃんと制作してみよう。最初の作品だしな、といつも通りに文章を考えてみることにした。 ところが、これが、ものすごく苦戦して、いや、苦戦というよりも「どうせなら、しっかり考えよう」から始まって「せっかくなので、もう少し作り込んで」となり「うーん、趣味の作品なのだから、実験的な作品の方がいいな」などと、メインの写真は1時間ほどで、設定が終わったというのに、テキストの方は、24時間ほどもかかってしまった。そう、つまり、空き時間をコツコツと利用しつつ、2日以上かけて考えたということだ。 書き始める前から、その予感はあったのだけど、やはり予想以上に考えてしまった。でも、その分、制作しているうちに、個人的には「これは、なかなかおもしろい」と思えるも

ぼくが、涙もろくなった理由。

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昨日は、誕生日だった。 と、いっても、目が覚めた瞬間に「ああ、そうか。今日からオレは世界平和のために生きよう」と、劇的に人生観が変わるわけでもなく、盛大な催しがあるわけでもなく、仙台の街で、ひとりの男(←独身)が、静かに年齢をカウントしただけのことなのだが、やはりそれでも、何かと考えることがある一日だった。 就寝まぎわに、ある女性からメールが届いた。 誕生日のお祝いのメールだ。いわゆるデコメールと、いうのだろうか?色々なアイコンが貼付けてあって、いかにも女性らしいメールだな、と思った。 わすれないうちに、とりいそぎ、お礼の返信をしようと思った瞬間に、ふと気がついた。「あれ? この人は、どうやって自分の誕生日を知ったのだろう?」教えた記憶はないんだけどな。 正確に言うならば「7月の末が誕生日なんだ」と、いうような話はした。でも具体的な日時は言わなかったし、聞かれなかったので、そこで話は終了となった。別に教える必要もないし、知ってもらうこともないし、ただ社交辞令というか「今年は真夏日が続くから、たいへんだよね」とか「じゃあ、今度食事でもしようよ」のように、話のつなぎとして話題になっただけのこと。よくあることだ。 でも、彼女は、どこかで調べて、メールを送ってくれたのだろう。もちろん、調べようと思えば、いくらだって調べることができる世の中だ。ちょっと検索すれば、かなりの個人情報を入手することだって、できる。知人に聞けば、数秒でわかる。 でも。と、思った。わざわざ、こうやって調べてくれて、誕生日に間に合わせて、メールを送ってくれたんだな、と思った時に、案外無頓着な感じの人に見えたけど、実は気が利く人だったんだな、とか、彼女の誕生日の時にも、忘れないでメールを送らないといけないな、でも女性に誕生日を聞くのは、なかなか大変だよな、などと一瞬にして様々なことを考えながら、メールを返信した。 メールを送信したあとで、また気がついた。よくよく考えてみれば、以前の自分なら、このようなことは考えなかっただろう、と思った。誕生日のメールが届いて、ありがとう、と返信して、それで終わり。今回のように、送ってくれた相手のことや、手間などに意識を向けることは、まずなかっただろう。 たぶんこれは、自分自身が年齢を重ねて、それなりの経験

いつか行ってみたい場所 マッターホルン

もはや、いつのことだったか、どこでだったのか、すっかり忘れてしまったけれど、子供の頃に写真で見て、強烈に印象に残っている山があった。 大人になってから、それがスイスのマッターホルンと、いう山だということを知った。 スイスとイタリアの国境に位置し、標高4.478m。 アイガー、グランド・ジョラスに並んで、 アルプス三大北壁のひとつ。知れば知るほど、自分にとって魅力的な山だということが、わかった。 そして、しかるべき準備と、それなりの費用を準備すれば、自分のようなアマチュア登山家でも、登れる山だということも、知った。 それ以来、いつか登ってみたい。登れないまでも、ツェルマットまで出掛けていき、その姿を実際に目でみたいと思っている。普通は、思うだけで終わってしまうことが多いかもしれないけれど、マッターホルンの場合は(何らかの形で)挑戦できる日がくるような気がしている。思うだけなら自由なので、そのように考えることにしている。 Googleマップの3D表示による、マッターホルンのマップ。 ドラッグすると、 マッターホルンの勇姿を、グリグリ回して見ることができます。 大きな地図で見る