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ナンバ−2。

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最近、あらためて気が付いたのだが、どうやら自分は「ナンバ−2」が好きらしい。正確に書くと、ナンバ−2の位置づけにあるものが好きだということに、気が付いた。 もっと、正確に言ってしまうと「ナンバー1」というだけで、それに興味を失ってしまう場合さえ、あると言うことに気が付いてしまったのだ。 なぜ、自分は「ナンバー2」が好きなのか? 特に「人と同じものが、嫌い」と、いうわけではないと思う。人と同じである、という安心感も否定するわけではないし、そのような理由で選ぶことないわけではない。 では、なぜなのか? 根本的な部分から考えてみれば、多くの場合「ナンバー1」と「ナンバー2」の間には、さほど大きな差がないことが多いように感じる。つまり、どちらを選んでもそんなに差がない訳だから、ただなんとなく選んだ場合は、「ナンバー1」を選ぶ時もあれば「ナンバー2」を選ぶ時も、あるはずだ。その日の気分で、両者を行ったりきたりすることも、あるはずだ。目の前で「ナンバー1」を選んでいる人を見れば、自然に、そちらを選んでしまうことも、あるはずだ。 それでも、頑なに「2」を選ぶということは、自分の強い意志で「2だけ」を選んでいるということになる。もしかしたら「1」を選んだ方が、色々な意味で有利になる場合があるかもしれないのに、わざわざ「2」を選んでいるという段階で、何らかの意思が働いているということだ。 それは何なのか? さらに考えてみるに「2」を選ぶ(選び続ける)ということは、しかるべき自分なりの理由を考えなければいけない、ということに気が付く。例え目の前に「1」があって、入手しやすかったり、価格が安かったり、「1」というブランドイメージや、よりたくさんの人が集まるというエネルギーを感じたとしても、あえてそれを無視して「2」を選ぶということは、自分の中で何かしらの「2を選ぶ理由」を考えていると、いうことだろう。 そう、だんだんわかってきた。自分が「2」を選ぶといことは「何かを選ぶ時は、理由を持って選びたい」という気持ちの表れではないかということだ。もちろん「1」を選ぶ時にも、理由は考える。しかし、あえて、「2」を選ぶという、この「あえて」の部分に、強い意志や理由が必要になってくるわけだ。みんなに「別に、1でいいじゃん」と、言われたとしても、あえてそこで「いや、自分は2を選ぶ。なぜなら・・・」と、逆

ノルウェイの森を、観に行く。

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映画「ノルウェイの森」を観た。 この作品の原作である「ノルウェイの森」を読んだのは、今から約20年ほど前のこと。 当時、付き合っていた彼女から、誕生日プレゼントにと、単行本をもらったことが、きっかけだった。 せっかくプレゼントにもらったものだし、少しずつ、ゆっくり読もうと思っていたのに、読み始めたら止まらなくて、途中で止めることができなくて、結局、その日のうちに、徹夜で上下巻を一気に読み終えてしまった。部屋の外で鳥が鳴いている声が聞こえて、もう、今さら寝ても仕方がないな、と思い、そのまま、ぼんやりとした頭で一日を過ごした記憶がある。 それから、20年後。 まさか、この作品が映画化されるとは、思ってもいなかった。うれしい、という気持ちと同時に、見たくない、という気持ちが強かったことも事実。結局のところ、自分の頭の中にある「思い込みの映像」と、映画の中の映像が、全く完全に一致する訳がないし、そのようなことは、100%ありえないから、がっかりする気持ちの方が強いのではないか、という不安の方が大きかったわけだ。 それでも、 トラン・アン・ユン監督 が、どのような作品に仕上げてくれるのかを確かめたい、という誘惑には勝てず(監督の「 青いパパイヤの香り」は、とても好きな作品のひとつだ)公開されてから、約10日ほど過ぎたあたりに、 いそいそと映画館へと向かうことにした。 結論からいうならば、これは自分にとって「すばらしい映画」となった。 自分の頭の中にあったイメージとリンクする映像を、スクリーンの中に見つけることができた。 トラン・アン・ユン監督の美意識が溢れる映像。リズム。トーン。使い古された言葉だけど「あっという間の2時間」だった。もっともっと、この世界を観ていたいと思った。 おそらく、のちほど完全版の「ノルウェイの森」がDVDでリリースされることだろう。と、いうより、ぜひリリースしてほしい。絶対にしてほしい。早く、観てみたい。3時間バージョン。いや、できれば4時間バージョン。5時間でもいい。長ければ長いほど、いい。そんなことを考えながら、12月の静かな夜を、ぼんやりと過ごしました。