私の記憶は、どれほどの「勘違い」で構成されているのか?

勘違いで覚えてきたこと

「白井道也は文学者である」

こちらは、夏目漱石「野分」の冒頭である。私が初めてこの冒頭文を知ったのは、予備校生の時だった。現代文のテスト対策として、有名な文学作品の冒頭文を覚えていた時に、この一文を目にしたのだった。

大学生になった私は「野分」を読んでみることにした。予備校生の時に暗記した冒頭文を思い浮かべながら、ページをめくった。違和感をもった。

「あれ? 白井道也は文学者だったのか? 数学者だと思っていた!」

そう私は「白井道也は文学者である」を「白井道也は数学者である」と勘違いして覚えていたのだった。なぜ数学者だと思ったのか? それはわからない。「白井道也」という名前が、なんとなく数学者っぽいと感じて(個人のイメージです)そのように覚えてしまったのだと思う。そしてそれを全く疑わずに、数年間過ごしてきたわけである。

私の「記憶」が勘違いで、構成されているのなら

この件では、実際に「野分」を読むことで、自分の思い込みと勘違いに気がつけたため、記憶を修正することができた。しかし、このように確認することができないまま「勘違いしたまま」で今日まで過ごしてきた事柄は、おそらく私が想像しているよりも膨大な量になるのだろう。

人生は「記憶」で構成されている。つまりそれが思い込みでも勘違いでも、自分の中で「それが真実の記憶」としているのであれば、それが「私の人生」ということになる。いったい、私の人生の何%が勘違いで構成されてるのだろうか。文学者を数学者と勘違いするのもなかなかだが、それ以上のとんでもない間違いが多々存在するような気がする。確認した途端に、今までの自分を支えてきた何かが揺らいでしまうような、そんな根本部分に接触するものもあるかもしれない。

そんなことを考えると切ないような気分にもなる。黄昏時の風景が頭の中に広がるような気分にもなる。それと同時に、まぁでもそれが私の人生なのだからと考えたりもする。他者に迷惑を与えているのならば、申し訳ないが個人的な体験としては、まちがいさえも自分自身だと思ってみる。

それはともかく「白井道也は文学者である」。数学者でも芸術家でもない。この点においては明確な勘違いなので修正できてよかったと思う。

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