「究極の愛のかたち」とは? 春琴抄「谷崎潤一郎」を読む

春琴抄(谷崎潤一郎)を読む


「究極の愛」とは? 春琴抄「谷崎潤一郎」を読む


春琴抄を初めて読んだのは、高校生の時だったと思う。何かの書評に「これぞ究極の愛のかたち」というようなフレーズで紹介されていて、「究極の愛とは、どのようなものなのだろう?」と気になった私は、受験勉強の合間に読んでみることにしたのだった。

(春琴抄のあらすじ:春琴は顔にひどい火傷を負ってしまう。それを見ないようにするために、佐助は自分の目を針で刺して失明する)


お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござります(谷崎潤一郎 春琴抄より)

佐助の記憶の中には「なつかしいお顔」が永遠に存在する。これからどのようなことが起きたとしても、どんなに時間が過ぎたとしても「なつかしいお顔」のままである。それは佐助にとって「究極のよろこび」かもしれない。これが耽美派の世界なのか(耽美派:美を最上の価値とし、官能・享楽的な傾向を持つ作風)と。

そして「自分が同じ状況になったとしたならば、どうするだろう?」と考えてみた。視力を失う勇気はない。しかし、いざ、となれば……いや、やっぱりできない。では「視力を失いました」と嘘をつくのはどうだろう? 嘘をついたままで、今まで通りに世話をしていく。いや、もしも嘘がバレてしまった時は、さらに最悪の状況に追い込まれるだろう。しかし、どちらにしても佐助のような行動はできないな……。そんなことを考えたのだった。

自分には「できない」からこそ。


先日、春琴抄を読み返した。ここに書いたようなことをもう一度考えてみた。改めて、自分には佐助のような行動はできない、と思った。同時に、逆に自分が「春琴」の立場だったならば、「そんなことは、絶対やめるように」と言うだろう。春琴のように、

「よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ(春琴抄より)」

といえるようなメンタリティは、今の自分にはない。いや、嬉しいと思う気持ちは湧き上がるかもしれないが、それも一瞬で「なんてことを、させてしまったのだ」と後悔に押しつぶされるだろう。自分を責め続けてしまうだろう。そして佐助を遠ざけてしまうかもしれない。

かくて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三歳と云う高齢で死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮かにその姿を見ていたであろう(谷崎潤一郎 春琴抄より)

しかし佐助は実行し、春琴は喜んだ。そして佐助は春琴が亡くなってから21年もの間、独り身で通した。彼の頭の中には「なつかしいお顔」がずっと存在し、ますます輝きを増していった。それはきっと幸福に満ちた時間だったに違いない。まさに「究極の愛」が途切れることなく続いていたのだろう。それには少し、あこがれ(のようなもの)を感じているような自分もいた。

もちろん自分には、佐助のような行動はできない。しかしできないからこそ、どこか惹かれるものを感じるのかもしれない。ひさしぶりに「春琴抄」を読み返しながら、そのようなことを考えました。


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