【夏目漱石 こころ】「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
今回は「夏目漱石 こころ」の一場面を紹介します。「私」と「先生」は二人で散歩にでかけます。あてもなく歩き回ったあと、日がくれたのでそろそろ帰ろうということになります。その時に二人で会話をする場面です。 門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。 「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」 「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」 「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」 先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。 「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。 「そら見たまえ」 「何をですか」 「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」 待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。 (夏目漱石 こころ)より 語り手の「私」は「先生」に「人間は誰でもいざという間際に悪人になる」という言葉の意味について質問します。ところが先生の返事は「私」が期待したものではなく「平凡すぎてつまらなく」感じられる内容でした。「私」は拍子抜けした態度を隠そうともせずに歩き出す。その様子を見た「先生」が 「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」 とこころというものは、今のあなたのようにすぐに変わるものなんだよ、指摘する場面です。 人間の「こころ」は、すぐに変わる。 それまでずっと貫いてきたこと、大切にしてきたことでも、すぐに変わってしまう。「金」や「ことば」など普段は「そんなもの」と考えているようなことがきっかけで変わってしまう。「私」の態度を指摘しながら「先生」は語りかけます。 「私」は、この日「先生」が口にした言葉の背後にある「意味」を理解することができません。 両者には「さびしいすれ違い」が起きています。 「私」は「先生」が亡くなってしまってか...