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仕事納め2012

本日、仕事納め。今年は心身共に「10年に1度クラス」の大ダメージを受けた一年でした。その真っ最中は「もう無理かもしれん」と思いましたけれど、太宰の人間失格が胸に沁みましたけれども「エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?(人間失格より)」と、 デカダンを気取ってみたりもしたりしなかったりですけれど、今思い返してみると、その時に考えたこと、問いかけたことが、未来につながる希望(のようなもの)を育てていたことに気がつきました。まさに「ピンチはチャンス」今年一年かけて、自分はこれを体験から学びました。そして、 一緒に食事をしたりコーヒーを飲んで下さったみなさんに感謝します。また何か食わせてください。ここまでの文章を読み返すと、しんみりした気分になりましたが、そうではなく、(´▽`)/ という表情であることを最後に付け加えておきたいと思います。 「元気で行かう。絶望するな。では、失敬。(津軽 太宰治)」 みなさまの2013年が、こぼれそうなくらいの希望に満ちあふれた一年でありますように。 追記:現在は元気です。快活です。では、失敬。

太宰治 「富嶽百景」を読む。

昨晩、体調が悪くて眠れなかったので布団の中で太宰を読んだ。やはり病床には太宰である。作者本人は不本意かもしれないが漱石より太宰のような気がする。今回は「富嶽百景」を読んでいたのだが、この作品の中に「諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。」とあった。 これはつまり「人は完全に頼もしいと感じる相手に接すると笑ってしまう」ものだからだそうだ。なるほど。つまり「やあ」と挨拶した瞬間「やだー(笑)」などと笑われても「失礼だな!」と怒ってはいけない。彼女はバカにしているのではなく、君が頼もしくて笑っているからだ。うむ。さすが太宰氏。 さらにお見合いの相手に「どうです。もう少し交際してみますか?」と、言う場面がある。これは、自分も一度言ってみたい台詞かもしれない(笑)ちなみに、この後に続く娘の返事が奮っているので、気になる方は読んでみていただきたい。 青空文庫で読めます→  http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card270.html

ヴェポラッブ、だった。

薬を飲んだが、胸のあたりがどうにも苦しい。眠れない。なので、ヴェポラッブを塗った。個人的にヴェポラッブは最強だと思っているのだが、布団がヴェポラッブ臭くなるので、最後の手段としてのみ使用することにしている。そう、つまり最後の手段を使わなければならないほど、胸が苦しいのである。 この胸の苦しさが、恋の苦しさならば構わないのだが、とくだらない事を考えて気を逸らしてみたが、やはり胸は苦しいのである。しかし、こうやってツイートしている間にヴェポラッブが効いてきたようだ。やはり最強。信じられるのは君だけだ。…さて、今からちょっと、水を飲みに行ってくる。 ちなみに自分は、今の今まで「 ヴェポラッブ」を「 ヴェポラップ」だと思っていた。なんとなく気になったのでパッケージを手にとって、まじまじと確認したところ「ブ」であることが判明した。ついでに大正製薬のホームページでも確認した。やはり「ブ」だった。もしかすると、自分と同じように「 ヴェポラップ」だと思っている方もいらっしゃるかもしれないので、あえて強調して書いてみた。ちなみに正式名称は「ヴイックス ヴェポラッブ」のようなので、こちらも書いておきたい。

きっと、意味のあること。

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誤解されることも、理解されないことも、罵声を浴びせられて耳を塞ぎたくなることもある。精一杯の気持ちを込めてようやく口にした一言を、早口の人に一瞬でかき消されることだってある。そんなことは、今までに何度も何回もあった。 それでも声を出し続けることだけは、止めないでいこう。ちいさな声でも気持ちを込めて話そう。書こう。いつかその言葉は、必要としてくれる「誰か」のところに届くかもしれないからだ。なにしろ、声を出さなければ「誰か」にさえ届くことはないじゃないか。 耳を塞いでも、聞こえてくる声があるのなら、きっとその言葉には意味があるのだと思う。 ある人が書いた文章を読みながら、ふと、このような ことを考えました。

真冬の深夜3時。

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夏に夜道を歩くと色々な匂いがするけれど、冬の夜道は無臭に感じられて、それは寒くて背中を丸めるようにして歩くせいなのかとか、冷たい空気は下に降りて行くから周りの匂いも下がっていくからなのかとか、感覚が麻痺してるからかもしれないなとか、そんなことを考えている真冬の深夜3時。気温1度。 もう少しで今年も終わるけど、来年は吉川英治、室生犀星、柳田國男の著作権が切れるから青空文庫で読めるようになるかもね、と話したら「川端康成は?」と聞かれたので、川端はもう少し先だよ確か亡くなったのは昭和47年だから、と空覚えの知識で答えて先程調べたら当たっていたのでほっとしている。

カップ式コーヒーの思い出。

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予備校生だった頃の話。友人がドリップ式の自販機で珈琲を買っていた。突然、珈琲が注がれる段階で紙コップが倒れてしまった。あわてて直したものの、中身がほとんどこぼれてしまい、友人は泣きそうになっていた。その落胆ぶりに僕達も笑うに笑えなかった。なにせ当時の100円は貴重だったからね。 もしも今、その時に戻れるのなら、100円玉をジャラジャラ言わせて、全員に珈琲を一杯ずつ飲ませてあげられるのだが。ひとりで珈琲を飲みながら、そんなことを思い出しました。しかし最近なんだか、昔のことが思い浮かぶぞ。どうしてなのだろう? 追記:ドリップ式の自販機の正式名称は何だろう? と思って調べたのだけど、よくわからなかった。「カップ式自販機」と呼べばいいのだろうか? 

深夜の連続ツイート「Nさんのこと」

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今からもう、かれこれ10年くらい前の話。友人に徳島県に住んでいるNさんという女性がいた。たしか大学院で絵の勉強をしている方だったと、記憶している。もしかしたら違うかもしれない。でも絵と写真を見せてもらったことがあるから、おおむね当たっていると思う。 (つづき)春のことだった。Nさんから「そちらにも桜が咲きましたか?」というようなメールが届いた。僕は、自分が見えている風景をパタパタと返信した。どんなことを書いたかは覚えていない。ただ、静かに書いて普通に送信ボタンを押したことは覚えている。そして翌日、Nさんから返信が届いた。 (つづき)彼女は僕の文章を褒めてくれていた。それが、何というのだろうか「本当に心から褒めてくれて」いるのが伝わってきた。うれしいというより、おどろき。自分の文章が褒められるなんて、考えたこともなかった。なにしろ国語の成績が、主要五科目の中でいちばん低かったくらいだからね。 (つづき)昨日大きな地震があった。その時、ふとNさんのことを思い出した。彼女となぜ連絡を取らなくなったのかは、もう覚えていない。確かメールアドレスが変わって…いや、どうだったかな。これで深夜の連続ツイート終わり。今日の仙台の最低気温は0度。いつの間にか、すっかり冬の真っ盛りだ。

電子書籍「もうひとつの世界」改訂版

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本日『もうひとつの世界』改訂版をリリースしました。 またもう一度、眺めていただければ幸いです。 こちらから↓↓ 無料電子書籍:もうひとつの世界 [2011.3.11 - 2012.4.30]

深夜の連続ツイート「空中都市を見上げていたころ」

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子供のころ、小説だったか百科事典だったかは忘れてしまったけれど、何かの本で「空中都市」という言葉を見た。その時、自分の頭の中に浮かんだのはSFのような未来都市ではなくて、砂場の砂を高く積み上げたような、そして頂上の一部がふわりと空中に浮いているような、そんなイメージだった。 自分が何かを考えている時の感じは「空中都市」に似ているな、と先ほど気がついた。砂に足首まで埋まりながら、ズボズボとよじのぼってようやく辿り着いたと思ったら、そこは頂上ではなくて。その先にふわりと浮いた場所があって。どうやれば、あの場所に行けるのだろう?と、見上げている感じだ。 それでも、声だけは出してみよう。言葉を発すれば、誰かの耳に届くかもしれない。たとえ無視され、転がり消えてしまったとしても、1000人のうち1人くらいは気がついてくれるかもしれない。そして、もしかしたら「やさしい人」から、返事をもらえるかもしれないじゃないか。 今日は11日。あの日から僕は、できるだけ大きな声を出そうと試み続けてきた。今のところは、そのほとんどが目の前で墜落してしまっているかもしれない。それでもいつかは、超高速のロケットが雲海を突き抜けるみたいに勢いよく飛び出せるはずだ。ものすごくパワフルなイメージで。笑ってしまうくらいのスピードで。 ただいま午前2時22分。これで深夜の連続ツイートおわり。今日はパンを焼こうかと考えている。べつに比喩などではなくて、普通に食べるパンを普通にホームベーカリーで焼こうかと思っている。でもめんどうになったら寝ているかもしれない。すでにめんどうかもしれない。

立秋を過ぎたころ。

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友人に「その人は、あなたの何を見ていたのでしょう?」と言ってもらえた時、ずっと背中の上に乗っかっていた「何か」が、手を振って遠くへ飛んでいった。アイスクリームの冷たさと甘さが舌の上に広がっていくように、すべてがふわりと溶けて消えていった。 たとえば、唇がひとつしかないから、ひとりにしかキスができないように、きっと僕たちは「ひとつのこと」だけを見て、それだけを信じて、限られた鼓動を重ねていくのだろう。ひとつしか見えないのではなく、ひとつだけを選び見続けていくのだろう。 カーテンを押し上げて入ってきた外の風が、部屋の中を通り過ぎていった。それが想像していたよりも涼しかったのは、秋が近づいてきているからなのか、自分が裸でいるからなのか。たぶんきっと、その両方だと思う。そろそろシャツを着ようと思う。 ただいま、午前2時50分。これで深夜の連続ツイートおわり。今年の夏は、高い場所へ飛行機雲を見に行く。さっき見た天気予報は曇りだったけど、きっと晴れるんじゃないかと思っている。

7月に思ったこと。

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「7月に起業した」というお客さんからメールが届く。ふと、自分が起業したのも7月だった事を思い出す。「物件を見せてください」と不動産屋に飛び込んできた、スーツも着ていない20代後半の若造に、今思えば「良く貸してくれたよなあ」と思ったりもする。もし僕が不動産屋だったら…どうだろう? あれから色々あったけど、今僕はこうやって生きている。誤解されることも、酷い言葉を投げつける人もいたけれど、そんな人達はみんなすぐにどこかへいなくなってしまった。やさしい笑顔の人だけが残ってくれた。今、僕の近くにいてくれる人達は、みんなそうだ。おどろくほどそうだ。 つながる人はつながるし、離れる人は離れていく。中途半端な反論なんてしなくてもいい。ぐっ、とこらえて「ありがとう」と頭を下げて、それでも自分を信じて歩き続けると、必ず理解してくれる人があらわれる。すぐに来る。これは絶対にそうだ。実際に僕は何度もそれを体験した。 ある方から「病気の時にした判断は、たいてい間違っている。ほとんどの場合、悪い方を選ぶ」と教えられた。7月は体調を崩していたので、療養に集中していた。暑い日の犬のように眠っていた。でも今は回復している。食べ物もおいしく感じる。だからまた歩き出すことにした。8月だしね。 たぶん、きっと、今の自分が考えているよりも早く、あの場所へ辿り着けると思うんだ。

深夜の連続ツイート「同じことを」

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4年ほど前、僕がある印刷物に「(言葉は)それを必要として、喜んでくれる人のところへ届く」という文章を書いていたのを見つけた。自分で書いたというのに、すっかりと忘れていた。そして同時に、僕は数年前からずっと「同じこと」を考え続けていたのだな、と思った。 (つづく)この文章を書いた時の僕は「きっと届くはず」と考えていたと思う。確信というより希望。「届けば良いのだが」と願う気持ち。でも今の僕は「必ず届く」と考えている。届かないはずがない、とさえ考えている。なぜそんなことを言えるのかというと「届いた」という体験を積み重ねてきたからだ。 (つづく)それには時間がかかることもある。でも、いつの日か必ず届いて、ぐるりと巡って、また自分のところに戻ってくる。帰ってくる。だから、少しでも強い言葉を。自分自身が、誰かに言われたら嬉しいような言葉を。しっかり表現しなくちゃな、と今僕はそんな風に考えている。 (つづく)これで深夜の連続ツイート終わり。今日は料理をしている時に、手の甲を少しだけ火傷してしまった。ヒリヒリしている。本当はそのことを書こうと思ったのに、なぜかこれを書いてしまった。でも、書いたら少し肩のあたりが軽くなったような気がする。そろそろ寝ようと思う。

深夜の連続ツイート:不可思議な力

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言葉には「不可思議な力」のようなものがあって、心の底から「あの人に、伝わってほしい」と願って書いた言葉は、何らかの形で相手のところに届くような気がしています。時間とか空間とか、そのようなものを越えて、不思議と届く(どこかで読んでもらえる)ような気がします。 (つづき)だから、とにかく頭の中だけで考えて終わりにするのではなく、外に向かって表現してみる。どこかに何らかの形で書いておくことが、大切なのではないかと思うのです。そうすると、言葉が一人で歩いたり泳いだりして、相手のところへ向かっていく。かもしれない。 (つづき)なぜ、こんなセンチメンタル(?)なことを書いているかというと、今日はずっとロジカルな文章を読んだり書いたりしてきたから、その反動であるかと思われます。午前3時という時間帯も、多いに影響していると思われます。深夜にラブレターを書いてはいけない、ということです。 (つづき)これで深夜の連続ツイートおわり。結局、何が言いたかったかというと、とにかく何かを書いてみたのなら、いいことあるかもよ、ということです。もしかしたら、その言葉がきっかけで、少しだけ世界が平和になるかもしれない。誰かがニヤリとしてくれるかもしれない。と、いうことです。

深夜の連続ツイート:「忘れるように」できている。

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3月11日の震災の時、自宅に電気が通ったのは3月19日の午後4時だった。なぜ、そんなことを正確に言えるのかというと、手帳にメモをとっておいたからだ。今、あらためてその手帳を見返してみると、ほんの1年前のできごとだというのに、多くのことを忘れてしまっていることに気がつく。 人間の脳は「忘れるように」できている、と聞いたことがあるけれど、本当にそうだと思う。手帳に書き留めておいてよかったと思う。ちなみに停電の夜の間、本当の暗闇の中で、僕は黙々と本を読んでいる。ハンドルをぐるぐる回すと充電できる懐中電灯を使い、毛布にくるまり本を読んでいる。 1分くらい回して1分くらい読んで、それを10分くらい繰り返し、少し休んでまたグルグル。そんな事を生真面目に続けている。他の時間には、街の電気がついていなくて星が綺麗だったので、床に横になって空を見ている。これだけ星が見えれば、流れ星も見えるだろうと、わりと粘っている。 もしも今、1年前の自分にメッセージを伝えることができるのなら「色々あるけど、今でもなんとか元気だよ」と教えてやりたい。また同じ規模の地震がくるかもしれないからと不安で眠れない人たちに、大丈夫。パジャマに着替えて、あたたかくして、ぐっすり休んでくださいと言ってあげたい。 現在、3月1日(木)午前2時15分。これで、深夜の連続ツイートおわり。希望の光は探すのではなく、与えられるのでもなく、自分たちの手で灯すのだ。次の世代のために「この場所」で、灯し続けるのだ。今自分は、そんなことを考えています。

深夜の連続ツイート「思考のかたまり」

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只今深夜2時10分。このくらいの時間に、周りに誰もいない静まり返った部屋でヘッドフォンで音楽を聴きながら一人作業をしていると、ふっとした瞬間に「あちらの世界」に意識が飛んでいくような感覚になる。自分の頭の先から思考のかたまりのようなものが飛び出していくような感覚になる。 はっ、と気がついて、テーブルの上のコーヒーを飲んで「あぶない、あぶない」と誰に聞かせるわけでもなくつぶやいてから(別に、特に、あぶなくもなんともないのですけどね)妙に胸騒ぎというかドキドキしたりしたり、周りを見たり背伸びをしてみたりする。そして、時間だけが静かに過ぎていく訳です。

深夜の連続ツイート「逃げ水」。

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夏の暑い日に、アスファルトの上にできる蜃気楼。地面に水があるように見える「アレ」の名前はなんだったろう? と考えているうちに、そういえば昨年の夏にはアレを見なかったような気がすることに気がついた。いつも車で移動しているから、見逃してしまったのだろうか。 (つづき)小学校の頃は水泳記録会の選手に選ばれていたから、毎日プールに行って泳いで歩いて帰ってきたから、アレは毎日のように目にした。蜃気楼とわかっていても「もしかしたらアレは本物かも」と思いつつ、赤い自動販売機の前を曲がり、青い友人の家の前を通り、水を追いかけ家路を急いだものだ。 (つづき)子供の頃の365日は永遠だったし、夏休みは無限の可能性で「なんでもできる」気がした。「エジソンは図書館の本をすべて読破した」と知って、よし家にある全集を左から右まで全部読もうとか、町外れの川までアイツを誘って自転車で釣りにいこうとか、とにかくなんだってできる気がした。 (つづき)そんな風にして一緒に過ごしてきた仲間達が、今でもアレを見た時にソレを思い出してくれたのなら、と思ったりする。只今、午前1時54分。これで深夜の連続ツイートおわり。ちなみに、子供の頃に見たアレの名前は「逃げ水」。たしかに、ぴったりの名前だね。

深夜の連続ツイート:宇宙まで。

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強く批判する人の後には、同じくらい強く肯定してくれる人が表れる。自分を信じて、いちいち揺れない。まどわない。足を止めない。・・・と、いうことだと思うわけです。 自分が大切に思っている人が笑ってくれるのならば、それだけで宇宙まで飛べちゃうぜ、などと思うくらいで、いいのではないかと思うわけです。同じ場所で、ただ足踏みすることだけは止めといた方がいいぜ、と思うわけです。 どんなに美味しいものを食べても、次の日にはお腹が減る。また食べなくてはいけない。でも、あたたかい言葉、やさしい笑顔は、何回だって思い出せる。そして、思い出す度に強くなっていく。うれしくなってくる。それって、すごいことなのではないか、と思うわけです。

深夜の連続ツイート:自分の足跡。

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自分を信じることは、とてもむずかしい。だから、自分を信じられるまで努力するしかない。圧倒的な時間を、積み重ねていくしかない。 いつもと同じ努力では、いつもと同じ結果で終わる。新しい結果を生み出すには、自分なりの努力では辿り着けないと思ったわけです。周りも自分も納得できるような時間を、積み重ねていかなければいけないと思ったわけです。 褒められると鼻が伸びる。自分の足跡を確認しようとしなくなる。上ばかり見ていると肩が凝るし、下ばかり見ていると同じ事だけ考えてしまう。色々なところへ行って、色々なものを見よう。そして色々なことを考えよう。立春を迎えるにあたり、改めてそんなことを考えました。ピース。

深夜の連続ツイート:過去の言葉がはいった箱。

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まとまった文章などを考えていると、それを書き終えた後でも別の文章を書きたくなったりする。それはたぶん、覚えたての言葉や、忘れていた言葉や、確かめたいと思っていた言葉を実際に使ってみたくなるからなのかもしれない。 (つづき)言葉は過去の記憶とつながっているから、言葉と向き合うということは過去の記憶と向き合うということだ。たとえば「雪」という言葉を使えば、昨年の今頃、雪積もる中尊寺に行った時のことを思い出す。そして、一関で食べたソバがひどくぬるかったこととか(美味しかったけど) (つづき)帰り道にガス欠になりかけて、青くなったことなどを鮮やかに思い出していく。その時のうれしい気持ち、正しい気持ち、さくさくと雪の上を歩く気持ちを思い出しながらも、いかに自分がたくさんの言葉を忘れ、感覚を忘れ、笑顔や大きさや揉み返される痛さを忘れてしまっているかを実感する。 (つづき)新しい言葉が増えれば、過去の言葉が押し出されていく。うねりながら流されながら「過去の言葉の箱」に収まっていく。時々は、クローゼットの奥から箱を取り出して、外の光や空気にあててあげる必要があるのかもしれない。それが自分にとっての「書く」ということなのかもしれなくもない。 (つづき)只今、午前2時35分。これで真冬の深夜の連続ツイートおわり。大寒を過ぎたあたりから、ひどく寒い日が続いている。でも、来週末くらいには、あたたかくなるような気がしている。ただなんとなく、ですけれど。[おわり]

2012年1月1日

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優しい言葉に満ちた一年でありますように。たくさんの本や音楽や映画や新しい風景に出会えますように。色々な季節に色々な場所へ出かけ、おいしいものや、きれいなもの、心地よい空気に包まれますように。大切な人の手を離しませんように。たおやかな心と少しの勇気で、いつも笑顔でいられますように。 海よりも深く、山よりも高く、時間も空間も越えるような喜びの瞬間が、次々にやってきますように。そして一年が過ぎた時に「うん、まあ、なかなか自分らしい一年だったな」と自分で自分を誇ることができますように。あなたの一年が、そのような一年であることを願ってい ます。あけましておめでとうございます。2012.1.1