投稿

ラベル(読書)が付いた投稿を表示しています

がんばることば。

「やっとるか。」 「やっとるぞ。」 「がんばれよ。」 「よし来た。」 パンドラの匣 太宰治より がんばらなくてはいけない時に「よしきた」と口にすると、あと少しだけ頑張れる気がする。よしきた。

読書ブログ「つまり、佐藤の本棚」はじめました。

今月から「つまり、佐藤の本棚」という新しいブログを始めました。 こちらのブログでは、私(佐藤)の記憶の中にある本棚の中から一冊ずつ選んで、その本にまつわるエピソードを書いていこうと考えています。 http://hondana.wordproject21.com 現在の目標は今年1年間休まずに更新すること。月1~2冊のペースで更新していけば、なんとか1年間は継続できるかな、と思っているのですが実際はどうなることでしょう(笑)ひとまず、来年のこの時期までに、最低12冊。目標24冊でがんばってみようかと思っているわけです。 http://hondana.wordproject21.com

千葉家曲がり家から続き石へ 遠野物語をめぐる旅(2)

イメージ
遠野物語をめぐる旅 千葉家曲がり家へ 今回の遠野めぐりは、市内観光共通券(1.050円)を購入して、市内の施設を回ってみることにした。漠然と「遠野を回る」と言ってもイメージがつかめないので、共通券が使える施設を回りつつ、その周辺の観光地にも立ち寄ってみようというわけだ。 そんな訳でまず最初に向かったのが「 千葉家曲がり家 」。遠野市のwebによると「 曲り家の最盛期に建てられ保存状態も良く、上層農民の最高級の曲り家として典型的なものといわれます。「日本十大民家」の一つに数えられます。」とある。「日本十大民家」ときたならば古民家好きの自分にとって、まず最初に押さえておきたい場所だ。 駐車場に到着して見上げた丘の上に、悠然と構えた千葉家の姿が目に飛び込んでくる。すでにこの段階で「見に来てよかった」と思ってしまうほどの存在感があった。「上層農民の最高級の曲り家として典型的なもの(遠野市HPより)」とあるように「資産家」の雰囲気が漂っている。きっと昔の人達も、この場所から丘を見上げるようにして「千葉さんのお宅は立派だねー」と話していたに違いない(←イメージ)。そんなことを想像しながら入口で共通券を購入して、家につづくやや急な坂を上がっていく。 それにしても、古民家を見るとふしぎと心が落ち着いてくるのはなぜなのだろう? 実際に古民家に住んだこともないし、近所に古民家があったわけでもないのに「なつかしい」という気分になってくる。子供のころ「このような場所で遊んだことがあるような気分」にさえなってくる。 そんな不可思議なノスタルジック気分に浸りながら、見事な茅葺きの屋根を眺め写真を撮り展示物に目を凝らし土の感触を楽しんだあとは、早々に次の場所へと移動をしなければいけないのが観光客のつらいところ。次に向かうのは「続石」だ。 遠野物語に登場した、続石に対面する 続石は遠野物語の中にも登場する石 。「さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山という山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢いたり。(遠野物語)」の「続石とて珍しき岩」

種山高原でキャンプ 遠野をめぐる旅(1)

イメージ
遠野をめぐる旅へ 出発の日 現在自分は宮城県仙台市に住んでいる。そして今回の目的地である遠野市は、お隣の岩手県にある。そう「お隣の県」なのである。仙台から遠野までは高速道路を使って片道約2時間30分。高速を使わなくても3時間ちょっとで行ける距離。少し無理をすれば日帰りでも帰ってくることができる距離なのだけど、この「ちょっと頑張れば行ける距離」というのが逆に踏ん切りがつかないものである。高校生の時に遠野物語を読んでから「いつか絶対に行く」と決めてはや幾年。ようやく今回遠野へ出発することになった。 思い入れが深い場所ということで、計画を立てている段階から張り切ってしまい、遠野物語を読み返したり図書館で資料を借りてきて調べてみたりと、出発前から無駄に情熱を燃やしてしまっていた。さらに、初めて遠野物語を読んだ高校生の時のことを思い出したりして、I君は良いお父さんになっていそうだけど、N君はどうだろう。学生のころはちょっとナーバスですぐに落ち込むところがあったけれど、案外大きな会社でバリバリ働いているかもしれないな。と当時の友人達のことを思い出して懐かしい気分に浸ってしまったりもした。もしもこの文章を当時の友人達が見ていたのなら、ぜひ声をかけてみていただきたい。久しぶりに会おうぜ。 星座の森でキャンプ さて、今回の遠野をめぐる旅の日程は、9月の連休を利用した一泊二日。一日目は遠野の近くにある「種山高原」周辺を散策して、そこにある「 星座の森 」でキャンプ。二日目は朝一番で遠野に向かうという内容だ。 なぜ「種山高原」でキャンプをするかというと「種山ヶ原は宮澤賢治作品のモチーフになった場所だからだよ」というのは表向きの理由で、ほんとうのところは、旅の日程を決めたのが10日ほど前だったのでめぼしい宿がほとんど埋まっていて、やけくそ(?)で遠野周辺のキャンプ場を探し偶然に見つけたのが、ここだったというのが真実である。 見つけてから改めて調べてみると、遠野までは車で40分程度のところだから地理的にもちょうどよい。そしてなによりもフリーサイトは「一人200円」という格安設定が魅力的だった。いや、実はこれが最大の決めてといえば決めてだったということは内緒である。なにせガソリン代と高速代だけで1万円札がひらひらっと吹っ飛んでいくので、燃費の悪いオンボ

太宰と三島の会話。

太宰治は三島由紀夫に「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」と言われた時に「そんなこといったって、ここに来ているんだからやっぱり好きなんだよなあ」と答えたという。自分はこの話がわりと好きで、ちょっとした人間関係などで心が折れそう(たまにそんな時がある)な時に思い出したりする。 するとわりと乗り切れるので、よければみなさんも試してみていただきたい。表情は神妙さを保ちつつ心の中で「そんなこといったって、ここに来ているんだから」とニヤニヤ(?)するのがコツである。本日も晴天なり。

佐々木マキ ぼくがとぶ

イメージ
先日知人と、子供の頃に読んで思い出に残っている絵本、の話をした。自分の思い出の絵本は「ささき まき ぼくがとぶ」なのですが、また復刊されないかな? と思い、ついさきほど調べてみたところ、なんと今年の2月に復刊されることがわかった。すごいタイミングだ!こんな偶然ってあるんだな。表紙もかっこいいぞ。ちなみに、この作品の中に、主人公の少年が家の中で飛行機のパーツを組み立てている場面があるのだけど、道具やゴミでごちゃごちゃした部屋の中の様子がかっこよくて、子供のころの僕は何度も繰り返し眺めていたものです。「いつか、こんな部屋で自分も飛行機を作ってみたい」と思っていたものです。 まだ読んだことがない方はオススメです。子供の頃を思い出したいあなたも、自分の子供に読んであげたいあなたも、ぜひどうぞ。 関連:佐藤の本棚「 ぼくがとぶ 佐々木マキ 」    

効果的な読書の方法とは?( その4)読んだ本の内容を手書きでメモせよ

イメージ
・前回のつづき 「読みたいと思った時に、できるだけ早く最後まで読む。読み終わったら、すぐに目次を活用して全体像を確認&補完。もう少し『読み込みたい本』の場合は、ノートに手書きでポイントを書き出してみる。そして、時間をあけずにメモを何度か読み返す。それを積み重ねていくと蓄積した情報がつながって『何かがわかる』瞬間がくる」 と、いうところまで解説してきました。このようにまとめてみると、我ながら非常にあっけない内容のように思えなくもないですが、4回に分けて書くような内容だったのかな、とも思いますが、まあ、つまりそういうことです。 さらに付け加えるならば、自分の場合は「これはすごく面白い。自分の中に新しい視点ができた」と感じた本は 「2年後」くらいに読み返してみる ようにしています。なぜそんなことをするかというと、年数を経てから読み返すと、 一度目は見逃していた(もしくは理解できずに素通りしていた)部分が理解できるようになったり、軽く読んでいた部分が実は深い内容だったことを発見する場合が多いから です。 「なんだ、ずっと探していた答えは、この本に書いてあるじゃないか」 ということも少なくありません。なぜそのようなことが起きるのかという理由は、なかなか面白いところなので、じっくり説明していきたいところですが、さらに4回分くらいの解説が必要になりそうなので、また機会があれば書いてみたいと思います。今回は「そういうことがある」と思っていただければ大丈夫です。 ちなみに、2年後に読み返す際に、当時まとめたノートなどを一緒に読むこともあるのですが、自分で書いた文章にも関わらず、予想以上にわかりにくいことが多いものです。「たしかに、ここは重要だ」と感じるところもありますが逆に「なぜ、ここが気になったんだろう」と疑問に思う部分もあります。 いかに人間の興味や関心というものは、その時の精神状態や環境に左右されるのだな 、と思いますけれど、当時の自分の状況などを思い返して、しんみりしてみたりもしますけれど、このように当時の自分の思考を分析してみるのも楽しみのひとつかと思います。 さて、最後に、ちょっと偉そうな言い方になりますが、いわゆる一般的な「読書法」の目的は 「いかに効率よく情報を収集&整理していくか」 という部分にあるのではないかと感じています。読んだ本の

効果的な読書の方法とは? (その3)読んだ内容を効率よく覚えるコツ

イメージ
・前回の続き さて、気がつくと「その3」まで続いてしまいましたが、さすがに今回でまとめていきたいと思います。思っているだけで、実際はどうなるかわかりませんが、今の段階ですでに「その4」への気配を感じておりますが、まずは3でまとめる方向で書き始めてみたいと思います。それから、ここの記事から目にされた方は「とりあえず、 その1 から読んだ方がいいかもしれませんよ」と、一応お伝えしておきます。 さて(←2回目)何か本を読もうとする時は 「読みたいと思った時に、できるだけ早く最後まで読み通す。読む前に目次に目を通して全体像を把握すると効果的」 という流れをお話ししました。ここで注意していただきたい点は、自分はいわゆる 速読を進めているわけではない ということです。 つまり 「早く読むことが目的」ではなく「途中で読むのを止めるくらいなら、多少読み飛ばしてでも最後まで読んだ方がいい」 ということです。あくまでも「速読ではなく、速読に似た形式になってしまった」ということです。そんな微妙な違いを強調しなくても、と思われるかもしれませんが、微妙な違いでも積み重ねると、大きな違いになりますので、あらためてここで確認させていただきました。 「同じように見える表現でもコンセプトが異なれば、それは異なった表現である」 ということですね。そこから生まれ、発生していくものは別の方向へ進む(可能性がある)と、いうことです。 さて(←3回目)本題に戻しますが、有名なエビングハウスの忘却曲線などを見ますと、すでに記憶した1時間後くらいから急速に記憶の質が低下していくというデータがありまして、学生の頃に初めてこのデータを知った時は「こんな急速に? それはおおげさなのではないか?」と感じましたけれども、実際に進学塾で講師をしてきた自分の経験と照らし合わせてみますと、ここまで極端ではないにしても 記憶の質と量は急速に損なわれていくものだ と感じています。 むしろ 「損なわれたことに、気がついていない」だけで、多くの人がこのデータのように、吸収した(つもり)の情報を、わずか数時間で大量に失っているのだ と思います。気がついていないだけなんですね。 そのように考えますと「勉強する意欲が失せる」といいますか「読んだそばから忘れるのなら、せっかく本を読んだって、ねえ」という気分にもな

効果的な読書の方法とは?(その2)読む前に目次を読む

イメージ
・前回のつづき 「読みたいと思っている本を、読みたい時に、一気に最後まで読む」 というルールを設定したところ、読みかけ本の在庫が一掃されて、いい循環が始まったという話をしました。 前回の文章を読んだ方の中には「そんな読み飛ばしただけでは、内容も頭に入ってこないだろうし、無駄なことをしているだけ」と感じている方も多いかもしれない。実は、自分もそう思っていた。 「めくっている時間だって、バカにならない」 とさえ、思っていたわけです。 ところが実際に試してみると 「思っていたよりも、情報を吸収できている」 ということに気がついたわけです。 おそらく自己分析してみるに、今までは「一字一句たりとも読み落したくない」ではないですが、理解できなければ先に進まない、というような意識で読んでいたわけですけれど、その方法だと自分のレベルの理解力の場合、 かなり立ち止まりながら読むことになる→ 途中で集中力が落ちる→ 読むのを止める。 という悪循環の原因になっていたわけです。それ以前に 理解力&記憶力には限界があるわけで、どんなに丁寧に読んでいる(つもり)でも読み落しは生じる ので「止まるくらいなら飛ばして、先に進む」この方法が合っていたのだと思います。 以前、あるパソコンソフトの初心者セミナーに参加した人から聞いた話なのですが、まず最初に 「おおまかな全体像を掴んで、簡単な処理を最初から最後までスムーズに作業ができるようになる」 ことを学ぶべきなのに「ここの線を消すにはどうしたら?」などと、細かな(つまり部分的なテクニック)に関する質問ばかりして先に進めない人がいたそうです。たしかに、その気持ちはわかりますね。 気になるものは気になる。それは仕方ない。でも、 まずは最後まで一通り流れを学んだ後から細かな部分を補足して行く方が、結局理解度も高まるわけだし、それが基本を学ぶということ だよなあ、と思ったわけです。まずは、細かいところはわからないままでも、全体像を把握することを優先する。そうじゃないと「今、自分が学んでいることは、どこの部分でどんな役割をするのか」がわかりませんから、基本の柱が立ちません。 初心者の場合は、特にこれが大切になってくるよなと思ったのです。そして、読書も同じだと思ったのです。最後まで通してみてから、細かい部分を補完していった方が理解度も習

効果的な読書の方法とは? (その1)流し読みでOK 最後まで読むことが大切

イメージ
仕事関係の方から「どのような本を読めばいいですか?」「忙しいのに、いつそんなに本を読んでいるのですか?」と、いうような質問を定期的に受けます。 そんな時は 「読まなければならない本、ではなく、その時に読みたいと思った本を読む」「読み始めたら、最後まで一気に読む」 の2つを答えるようにしています。 これは最近自分が体感していることなのだけど、年齢を重ねるごとに「集中力&持続力」が格段に弱くなっていることを実感することが多くなりました。中学生~高校生くらいの時は新書だと2~3時間程度で一気に読み終わり「ああ、もう読み終わってしまった」という感じだったのだけど、最近では気がつくと新書を3〜4日くらいかけて、ようやく読み終わるというようになってしまっていたのです。しかも読み終わるのはまだ良い方で、最初の数ページだけをパラパラとめくり「続きは後で読もう」と、数日は横においておくのだけれども、そのうち書店で新しい本を買ってしまい読みかけの本は棚の隅の方へ、を繰り返すようになってしまっていたのです。これでは 「本を読むのが好き」というよりも「本を買うのが好き」 という感じです。買った段階で満足してしまっているのですね。 そこで自分に設定したルールのひとつが 「読み始めたら、できる限りその日のうちに最後まで読む。とにかく読み終えることを重視する」 ということなのです。購入した時点が「その本を読みたいという感情のピーク」なわけで、そこからは急速に下降していくわけなので「興味の感情が高いレベルを維持しているうちに、最後まで読んでしまおう」と思ったわけです。勢いを重視する、ってことです。だからこそ「読まなければならない本、ではなく、読みたい本」である必要があるわけですね。 ただ、この方法だと今度は 「最後まで読まなければいけない、という苦痛」 が生じるので、楽しいはずの読書が宿題が終わらなければ遊びに行ってはいけません、と同じになってしまうので、さらにひとつ 「今の自分が興味がない、今ひとつ理解できない、と感じた部分は流し読みをしてもよい」 というルールを設定しておきました。そもそも興味がない部分や理解できない部分は、時間をかけて読んだとしても「今の自分には残らない」場合が多いので、本当に必要な部分以外は、さっさと飛ばし読みをすることにしたわけです。本を読むのが

柳田國男の遠野物語を読む。

青空文庫にて、柳田國男の遠野物語が公開されていたので、さっそく読んでみた。自分が、初めて遠野物語を読んだのは大学生の時だった。その時は「とりあえず読んでおかなければいけない本の一冊」ということで、単行本を購入して通読してみたものの(その当時の自分にとっては)とりわけ引っかかるところもなく、さらっと読み終えてしまったという記憶しかなかった。 そのような記憶があったので、今回も「とりあえずiphoneにダウンロードしておいて、時間のある時にでも読んでみよう」というような感覚だった。ところが、である。そう、この書き出しで読者のみなさんも、おおかた察しがついていると思うけれど、そうです。その通りです。すごく「おもしろい」のです。 まず、序の「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。(遠野物語より)」という一文が奮っている。引き込まれる。「まだまだこの日本には、お宝がたくさん眠っている。それを掘り起こすのは読者の君たちだ。後を頼む」と、いうような作者の興奮というか、志の高さが伝わってくるようだ。そうだ、自分たちはもっと「このような話」を掘り起こさなくてはいけないのだ、今自分がやりたいと思っていたことのひとつが、これなのではないか、と序文から作者に共感してしまったわけです。 3月11日の震災のあと、津波で流され失われた風景を目の当たりにする度に「この辺りには、どのような建物があっただろう」「ここには、確か・・・」と自分の微かな記憶を辿ることを繰り返し続けてきた。もう、100%同じ風景が蘇ることはない。ものごとに100%はない、とはいうけれど「あの風景が、ここに戻る事は100%ない」のだ。悲しいけれど、これが現実なのだ。そして、これから生まれ、この場所で育っていく人達の記憶の中には、全く新しく作り直された街並みのみが残ることになる。2011年3月を境にして「それまでの街並みを見たことがある人」と「見たことがない人」とに、真っ二つに別れるわけである。 そんな時に「今は、こんなに広くて走りやすい道だけれど、以前は車がすれ違うのも困難な位の細い道でバスが通る時には・・・」とか「夏になると、このあたりにやぐらが組まれて町内の人が踊るのだけど、その時に飾られ

個人的な電子書籍元年。

2012年も、あと1日。今年は年末に風邪をひいてしまったので、自宅でゆっくり過ごしているわけですけれど、こうやって(と言ってもみなさんには見えませんが)マスクをして、のんびりとブログなどを書いているのですけれども、とにもかくにも2012年もあと1日なわけです。 そこで、せっかく(?)風邪をひいて、大人しく過ごしているので、普段はやらないような「今年一年を、じっくり振り返る」とか「来年の目標を、今年のうちに立てておく」などに取り組んでみました。 結論からいうと、2012年は個人的には大きな変化は特になかったのですが、ちいさな変化としては「電子書籍を買うようになった」ということが、あげられるかと思います。 自分が初めて電子書籍を購入したのは今から2年くらい前で、iphone3GSで書籍のアプリを購入したのが初めての電子書籍体験でした。当時は「電子書籍を買う」という行為そのものにも若干の抵抗があったし「やはり本は紙で読みたい」と考えているようなところもあったので、iphoneを手に持ちながら購入ボタンをクリックするかどうかを数分くらい迷ったような記憶があります。 ところが今(2012年)は、どうかというと、ほとんど抵抗なく購入している自分がいるわけです。アプリのセールなどで安くなっていたりすると「とりあえず買っておこうか」という感じで、クリック(購入)しておくことも増えました。そしてiphone3GSとiphone4Sの両方にダウンロードしておいて、空いている時間に読むようにしています。電子書籍の場合は何冊購入しても、場所を取らないというのが最大の利点です。今、自宅のベットの周りには未読の本が30冊ほど山積みになっていて、かなり場所をとっているのですが、電子書籍はそれがありません。このメリットは自分が思っていたよりも大きいものでした。部屋の蔵書も、三分の一くらいは電子書籍化して、整理してしまいたいと本気で思ったほどです。 さらに今年、iphone4Sにkindleのアプリをいれてからは、amazonでも電子書籍を購入するようにもなりました。さきほども、amazonのkindleショップでバーゲンになっている本があって、それがちょうど「前に図書館で借りた時に面白かったので、もう一度読み返してみたい」と思っていた本だったので購入しておきました。kindleシ

太宰治 「富嶽百景」を読む。

昨晩、体調が悪くて眠れなかったので布団の中で太宰を読んだ。やはり病床には太宰である。作者本人は不本意かもしれないが漱石より太宰のような気がする。今回は「富嶽百景」を読んでいたのだが、この作品の中に「諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。」とあった。 これはつまり「人は完全に頼もしいと感じる相手に接すると笑ってしまう」ものだからだそうだ。なるほど。つまり「やあ」と挨拶した瞬間「やだー(笑)」などと笑われても「失礼だな!」と怒ってはいけない。彼女はバカにしているのではなく、君が頼もしくて笑っているからだ。うむ。さすが太宰氏。 さらにお見合いの相手に「どうです。もう少し交際してみますか?」と、言う場面がある。これは、自分も一度言ってみたい台詞かもしれない(笑)ちなみに、この後に続く娘の返事が奮っているので、気になる方は読んでみていただきたい。 青空文庫で読めます→  http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card270.html

別れ際には手を振ろう。

「茶柱が立つと縁起がいい 黒塚信一郎著」を読む。この本の中に「別れ際には手を振らなければいけない」という言い伝えについての解説があった。 本書によると、これは「着物の袖を振る仕草からきたもの」だそうだ。「その袖には袂がついている。袂は魂の納まるところと信じられ、これを振ることによって自分の魂を換気させ、同時に相手の魂を活気づけ、生命力を与えようとしたのである。」そうだ。 なるほど。自分の感覚としては、手を左右に振ることで「その場の流れを断ち切る」というか「今日は、ここまで」と区切りをつけるような意味合いではないかなと思っていたのだが、切るのではなく活気づけて盛り上げていこう、という意味合いだったようです。 袖を振る=魂を振る=魂振り と、いうことでしょうか。このようなことを知ってしまうと、次からは大きく手を振らなければいけないな、と思いますね。手を振る、という仕草は目上の人には失礼なのかな、と感じていたのですが、どうやらそうではないようです。次からは、できるだけ大きく左右に振ろう。相手と自分の魂が盛り上がって活気づくことを願って、手を振ろう。そんなことを考えました。     ( ゚∀゚) ノシ (補足)魂振り 1   活力を失った魂を再生すること。広義には、鎮魂 (たましずめ) を含めていう。 2   鎮魂 (たましずめ) の祭のこと。( デジタル大辞泉)

移動図書館が運ぶ夢

イメージ
子供のころ「移動図書館」の仕事をしたいと思っていた。小さなワゴン車に本を積み込んで、町に図書館のないちびっ子達のところへ、毎週本を貸しに行く仕事だ。そろそろ、そんな仕事ができないかな、とふと思った秋の午後。 そして空には三本の飛行機雲。今日の夜には「すばらしいメール」が3通、届きそうな気がする。

ノルウェイの森を読む。ふたたび。

イメージ
秋になったので、また「ノルウェイの森」を読み返しています。パラパラとめくって、目にとまった部分を読んでいると、胸の奥の部分をコツコツとノックされているような気分になります。 「だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と本を読み続けることになった。そして本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸い込んだ。その本の香りをかぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持ちになることができた。:ノルウェイの森 村上春樹 より一部抜粋」 不思議なもので、読み返すたびに、気になる部分、目に留まる部分が変わっていきます。そして、その変化を楽しむのが、同じ本を何度も読み返す楽しさなのかもしれないな、と最近思ったりしています。 ちなみに、村上春樹の「遠い太鼓」の中に、ノルウェイの森を執筆した時のエッセイが収録されているのですが、 「小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を書き上げるまでは絶対に死にたくない。この小説を完成しないまま途中で放り出して死んでしまうことを思うと、僕は涙が出るくらい悔しい。あるいはこれは文学史に残るような立派な作品にはならないかもしれない、でも少なくともそれは僕自身なのだ。:遠い太鼓 村上春樹 より一部抜粋」 当時、この部分を読んだ時、僕は足の指先から頭のてっぺんまで、一気に震えが走り抜けるような感覚になったことを覚えています。見てはいけないものを見てしまった時のような、作者の「書く」という行為の背後にある執念、凄まじさをのぞき見てしまったようで、しばらくの間、放心状態になってしまったものです。そして、今でもこの作品を読み返す度に、同じような感覚になることがあります。そのような意味でも、自分にとって大切な作品だし、これからも折にふれて読み返すのだろうな、と思ったりしたわけです。 あれから長い時間が流れて、当時この作品を一緒に読んだ人達はみんないなくなってしまったけれど、みんなどこで何をしているかもわからないけれど、そこで元気に楽しく暮らしていてくれたらいいのだが、とノルウェイの森を読みながら、そんなことを考えました。 追記: 写真を見ていただけると、おわかりいただけると思うのだけど「定価1.000円」と表示されている。そう、

仙台市天文台へ行く。

イメージ
仙台市天文台で「100万人のキャンドルナイト」のイベントが行われたので行ってきた。 当日の天文台では、時間ごとに様々なイベントが行われていて、家族連れや恋人達、友達連れでにぎわっていた。ちびっこ達が、知的好奇心を満載にして、色々なものに夢中になっている様子を見るのは、なかなか良いものだ。僕も子供ができたのなら、こうやって連れてきてあげようと思ったりする(まだ結婚すら、していませんけどね・笑) そんなイベントの中で、自分が参加したのは「天体観望会」だ。これは施設の望遠鏡を使って、その時に観測することができるものを見る事ができるという内容だ。僕は、子供のころから「望遠鏡」が欲しくて、家族に「望遠鏡が欲しい」と折々にねだっていたのだけど、その願いは叶わず大人になってしまったという思い出があるので、こうやって大きな望遠鏡を目の当たりにできるというだけでも、わくわくしてくる訳である。 しかし、それにしても、なぜあんなに望遠鏡が欲しかったのだろう? と自問自答してみる。そこで、子供の頃に家においてあった天体観測の絵本を見て、星に興味をもったからだ、ということを思い出した。あの絵本の名前は何だったろう? そんなことを考えながら、あいまいに検索をしてみると・・・あった! あっさりと見つけてしまった。その絵本とはこれだ。 【送料無料】星座を見つけよう とりあえず「黄色の表紙」ということだけは確実に覚えていたので、写真を見た瞬間に「まさにこれだ!」とうれしくなった。2人の子供が会話をしながら、星座の解説をしてくれるのだけど、そのイラストの雰囲気が好きで何度も眺めていたことを思い出す。そして今回、作者H.A.レイ氏というドイツ生まれの絵本作家だということも知った。どうやら子供ながらに、異国の雰囲気を感じて楽しんでいたのかもしれない。 さて話を戻そう。「天体観望会」についてだ。このイベントでは、スタッフの方が、その日観測できる天体を解説しながら見せてくれるのだけど、今回見せてもらった中で個人的に心に突き刺さったのが「土星」だった。なぜそんなに突き刺さったのかは、自分でもわからない。ただ「本当に土星は存在するのだ」とか「今、僕たちが見ている土星の映像は、今よりも過去の時間に土星から発せられた光なのだ」とか、そんなことを色々と考えてしまったからだと思う

「最後のディナー」再読。

イメージ
推理小説は、一度読むと二度は読み返さない(犯人もトリックも、わかっているわけだし)事が多いのだけど、島田荘司氏の作品は、わりと定期的に読み返してしまう。本日は「最後のディナー」を再読中。ぐっ、とくる。 自分が初めて読んだ島田作品は「斜め屋敷の犯罪」だった。読み終わった瞬間に「これは、あとでもう一度読み返してみたいな」と感じたことを覚えている。それから島田作品を読むようになり「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」で、完全にやられてしまった。この人はすごい! とそれからは新作が発売される度に、それこそ飛びつくようにして読むようになった。 ちなみに今は、2012年の春に刊行予定である「樹海都市」が、とても気になっている。Wikipediaに掲載されている情報によると、注文販売で予価10000円とある。webにちらばっている情報を眺めているうちに、かなり興味がわいてきた。が、が、が、今の自分には手がでにくいなあ。でも、なんだかんだで買ってしまうのだろうか??

安曇野ちひろ美術館へ 秋の長野を巡る旅(3)

イメージ
安曇野ちひろ美術館へ 次に向かったのは「 安曇野ちひろ美術館 」だ。ここでは、入場券の替わりに、写真のような「タグ」が配られる。これを見えるところに下げておくことで入館許可証となる。 何種類かのタグが用意されていたのだけど、自分はこの 少年の絵柄 にした。これを胸のあたりにぶら下げて、展示室へと向かっていく。 まず最初に感じたことは、美術館の建物の雰囲気がとてもいいこと。 開放感がありつつ、作品に集中できる雰囲気になっている 。屋外に設置されている椅子にこしかけると、行きつけのカフェに来ているかのような気分になる。すぐそばを、他のお客さんが次々に通りすぎていくのだけど、それすらも気にならないような感じがする。 長野のゆったりとした空気がそうさせるのか? 建物全体のデザインによるものなのか? いわさきちひろさんの美術館だから? とにかく、そのような様々な要素がくみ合わさって、このような雰囲気を作っているのではないかと思う。 作品を楽しむことが美術館の第一の目的だけど 「そこにいることが、たのしい」 という美術館だと感じた。細やかな部分にまで、コンセプトが浸透している空間だと思った。 小学生のころ「図書館をつくる(そして、そこに住む)のが夢 だったのだけど、いつの日かこのような美術館や図書館をつくる仕事に携わりたいものだ、とあらためて思いました。 原画が発する「迫力」を堪能する そんなことを考えながら、作品を鑑賞しながら回っていく。使い古された表現だけど、やはり 「原画のすごさ」 に圧倒される。印刷をする時には失われてしまう、トーンのやわらかさや穏やかさはもちろん、作者のいわさきちひろさんの思いも、じんわりと伝わってくるような気がしてくる。想像以上のすばらしさだった。 当日(2011.9月)は「ちひろと香月 ー母のまなざし、父のまなざしー」という特別展が催されていた。 香月泰男さんの作品を観たのは初めてだったのだけど、こちらもパワフルで圧倒された。戦争体験という同時代を生きた、お二人に共通の経験をベースにした作品が展示されていた。人を思う気持ち、戦争という失われていく風景への思い、それらがお二人の異なるタッチで表現されていく。あまりにも、やさしくて、そしてせつなげ。美術館へ足を運ぶ楽しみのひとつが、 新しい作家との出