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【文学】読み返すのが怖い、読み返す自信がない。(山本周五郎)

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じつのところ、私は自分の書いたものを読み返したことはない。どんな短い一編にも、それぞれに愛着はあるが、客観的に成功したと思えるものは一編もなく、むしろ読み返すのが怖い、読み返す自信がない、と言うのが本音だろうかと思う。 すべては「これから」 山本周五郎より こちらは作家・山本周五郎 すべては「これから」の一節です。「 縦ノ木は残った 」「 赤ひげ診療譚 」など多くの名作を生み出し、様々な文学賞の候補になるものの、それらを辞退(直木賞を辞退した唯一の作家です)。そのような作家の 「読み返す自信がない」 という一節には、自身の文学世界を追求し貫いた深いこだわりと、思索の様子を垣間見れるような気がします。 「自信」を待っていては、いつまでも始まらない 私は今までに、多くの方たちの文章を見せていただく機会に恵まれました。そのように、真面目に勉強をされている方たちは 「まだ自分には実力がない。挑戦する自信がない」 と口にされることが多いものです。 しかし、 自分が納得できるような「自信」が身につくまでには、おそらく10年20年以上の時間が必要となるでしょう。 様々な文学作品などに親しみ「名文」に触れてきた人であれば、その凄みが実感できますから、なおさらです。 山本周五郎のような名作を生み出し続けた作家であったとしても「読み返す自信がない」としているわけですから(もちろん、この「自信」というレベルが私たちが考えているそれとは、大きく異なりますが) 自分が納得する自信が身につくのを待っていては、いつまで経ってもたどり着けない ことになります。 その時にしか「表現できない」ものが、ある。 もしも今皆さんが 「何かに挑戦したいと思っているけれど、自信がないからできない」 と感じているのであれば、この山本周五郎の言葉を思い出し 「自信がないのは当然なんだ。恥をかくことで学び、成長できることがあるはずだ」 と、挑戦していくことを最優先事項にしてみるのも、いいのではないかと思います。 今自分ができるベストを尽くす。それは、10年後の自分からすれば「レベルの低いもの」になるでしょう。それを消してしまいたくなる衝動も感じるでしょう。実際に私も、10年前の私の文章や言葉が掲載されている書籍などは「なかったこと」にしたくなります。あれは自分ではない、と嘯いてみたくもなります。

【文学】作家のラブレター 小林多喜二編

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「闇があるから光がある」そして闇から出て来た人こそ 一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ (小林多喜二 田口タキへの手紙より) こちらは「蟹工船」の作者 小林多喜二が恋人に送った手紙の一節です。電気が途絶えた真っ暗闇の場所では、ろうそくの微かな灯りが心を満たす強い光になるように、闇の深さを知っているから、光のありがたさ、すばらしさがわかる。そのような想いを込め、愛する人へ向け、心の奥からまっすぐに発せられた言葉が印象的な一節だと思います。 小林多喜二は、プロレタリア文学(労働者の厳しい現実を描く)を代表する作家として活動します。「蟹工船」では船内で酷使される労働者の姿を描き注目を集めますが、その思想から警察にもマークされるようになります。結果、特高警察からの拷問を受け、29歳の若さで亡くなってしまうことになります。 そのような作者の壮絶な人生を振り返りながら、この手紙の一文を読むと、小林自身が「ほんとうに光の有り難さがわかる時がくる」と信じ、周囲にも自分にも言い聞かせながら生きていたのではないか? そんなことを考えたりします。 世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ 不幸というものが片方にあるから幸福ってものがある そこを忘れないでくれ(同) 私たちは「好き嫌い」だけで判断してしまうことが増えてきたように、思います。個人の感情と目の前の状況だけで、すべてを切り取ってしまいます。それが何を意味しているのか。この行動は、どのような未来につながっていくのか。その暗闇の奥に、私たちは何を見ることができるのか。そんなことを考えました。 【佐藤ゼミ】作家のラブレター(小林多喜二編) 〰関連 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【文学】グスコンブドリの伝記 宮沢賢治より

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「人はやるだけのことはやるべきである。けれどもどうしてもどうしてももうできないときは落ちついてわらってゐなければならん。落ち着き給へ。」 (グスコンブドリの伝記 宮沢賢治)」 こちらは主人公のブドリが、冷夏がやってくるのでどうしたらよいか、とフウフィーボー大博士に相談した時、大博士が口にした言葉の一部です。フウフィーボー大博士は、自然がもたらす災害に対し、人間としてやれるべきことをやったならば後は笑って落ち着いていなければいけない、と焦るブドリを諭すのです。 「人事を尽くして天命を待つ」 という言葉があるように、できることをやりきった後は、結果を静かに待つしかありません。しかし、そう理屈ではわかったとしても気持ちは落ち着かないですよね。 特に、ここ一年のように予想外の事態が続き、今まで通りの対応が困難な状況が続く時はなおさらです。大きな地震が起きたりすると、平静さを保つのが精一杯で、こわばったような表情のまま数日過ごしてしまうこともあります。 そんな時に私は、このフウフィーボー大博士の言葉を思い出すと、心が落ち着くような気分になる時があります。笑うところまではいきませんが、すこし落ち着いた気分で目の前の作業に取り組むことができるので、今回みなさんにも紹介してみました。 「グスコンブドリの伝記」と「グスコーブドリの伝記」の違い 宮沢賢治の作品が好きな方は 「『グスコンブドリの伝記』?『グスコーブドリの伝記』の間違いではないか?」「もしかして『グスコンブドリの伝記』が正しい題名なの?」 などと気になった人もいらっしゃるかと思います。 もちろん間違いではありませんし「グスコンブドリの伝記」が正しい題名というわけでもありません。この部分をすこし説明してみますと「グスコンブドリの伝記」は、現在私たちが定稿として読んでいる 「グスコーブドリの伝記」の一つ前の原稿 ということになります。つまり、 「グスコンブドリの伝記」を書き直したもの →「グスコーブドリの伝記」 と、いうことですね。そして「グスコンブドリの伝記」には「グスコーブドリの伝記」では削除されてしまった部分が存在するのですが、削除された部分にも魅力的な表現がある、と個人的に感じています。今回とりあげた、フウフィーボー大博士の台詞の部分も「グスコーブドリの伝記」では削除されているのです

【文学】漱石山房の冬 芥川龍之介

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夏目漱石、芥川龍之介などと聞くと、 教科書に載っていた歴史上の人物 といった印象が強くて、実際にこの世界に存在していたのだろうか? もしかして架空の人物なのではないだろうか、という気分になる事があります。 もちろん2人はこの世界に存在していて、しかも今私たちが住んでいる日本で生活していたわけです。彼らは約100年前の日本で、どのような時間を過ごしていたのでしょう? 今回紹介するのは、芥川龍之介の「漱石山房の冬」の一節です。ある冬の日に、2人が人がどのような会話をしていたのか、ちょっと覗いてみたいと思います。 又十月の或夜である。わたしはひとりこの書斎に、先生と膝をつき合せてゐた。話題はわたしの身の上だつた。 (漱石山房の冬 芥川龍之介) 「君はまだ年が若いから、さう云ふ危険などは考へてゐまい。それを僕が君の代りに考へて見るとすればだね」と云つた。わたしは今でもその時の先生の微笑を覚えてゐる。いや、暗い軒先の芭蕉の戦も覚えてゐる。しかし先生の訓戒には忠だつたと云ひ切る自信を持たない。(漱石山房の冬 芥川龍之介) 芥川龍之介は、夏目漱石に身の上話をします。それに対して漱石は「僕が君の代わりに考えてみるとすればだね」といった感じで、芥川の立場に立って助言をします。 この時の漱石は、時代を代表する作家先生。後に文豪となる芥川龍之介は、この時点ではまだ若手作家のひとりです。そんな芥川に対し漱石先生は、上から意見を押し付けるわけではなく「君の代わりに考えてみるとだね」と、微笑みながら丁寧に語り掛けている様子が伝わってきます。 相手の自我を尊重し、そこに向き合いながら自分の考えを伝えていく。そして、その言葉を真摯に受け止めようとする芥川龍之介。 2人の文豪が夜に語り合っている様子を想像すると、どこか優しい気分になれるような 気がします。 そして、このような場面を想像してから、漱石と芥川の作品を読み返すと、またどこか違った気配が背後から感じられるような気がするのでした。 【佐藤ゼミ】漱石山房の冬(芥川龍之介)を読む ↪出典 漱石山房の冬(芥川龍之介) 〰関連 「読書」に関する記事 「夏目漱石」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

天災は忘れた頃にやってくる(東日本大震災から10年目に、考えたこと)

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「天才は忘れた頃にやってくる」!? 「天災は忘れた頃にやってくる」 という言葉がある。私は子供のころ、この言葉を 「天才は忘れた頃にやってくる」 だと思っていた。天才というものは、最初から表舞台に登場するわけではない。様々な混沌が起きて「これはもうどうすることもできない」と一般人が嘆いていると、華々しく天才が登場して解決する。そのような歴史上のできごとを「ことわざ」として表現したのだと、思い込んでいたのである。 しかし「天才」」は「天災」であり、全く内容が異なっていた。それを知った時 「天災より、天才の方がかっこいいのに!」 と、妙に落胆した記憶がある。そして「天才は忘れた頃にやってくる」という言葉も、きっとどこかに存在するに違いない、と頑なに考えている子供だったのである。 「天災と国防」寺田寅彦より そんな私も大人になり、文学作品などを読むようになった。そして夏目漱石の資料を調べていた時に 「天災は忘れた頃にやってくる、は 寺田寅彦の言葉である」 という文章を目にした。「これは寺田寅彦の言葉だったのか。さすが漱石先生の一番弟子!」と、妙に感動したことを覚えている。 ところが、確認するために出典を調べてみたところ「寺田寅彦の言葉らしいが、定かではない」ということを知った。講演会で口にしたことはあったが、文章としては残っていない、などと曖昧な状況で「寺田寅彦の言葉」として伝わってきたらしい。 確かに、寺田の随筆を読んでみても、この言葉が記載されている文を見つけることはできなかった(浅学の私が見つけられないだけで、存在する可能性は否めない。もしご存知の方はぜひお知らせください)。しかし「 天災と国防 」という作品の中で、同様の趣旨を解説している部分があるので、ここで紹介してみたいと思う。 悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。「天災と国防」より 数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然

【文学】太宰治「女生徒」を読む

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女生徒 太宰治 を読む 今回は、太宰治の「女生徒」を紹介したいと思います。「女生徒」は、タイトル通り 「10代の女子生徒」が主人公 です。父親は亡くなってしまい、姉も嫁いでしまったため、母親と二人暮らし。主人公が朝、目を覚ます場面から作品が始まります。 朝は、いつでも自信がない。寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。(女生徒より) 主人公は、目の前の様子やできごとに対して、色々と思いを巡らせていく。それを目の前の人に語りかけていくような、一人語りのスタイルで物語は進んでいきます。 今「物語が進んでいく」という書き方をしましたが、 何か特別な物語が展開されるわけではありません。 主人公が「朝起きて、学校へ行き、帰宅して、夜寝る」までの1日が、淡々と静かに語られていきます。たとえば、電車の中ですれ違った人たちを見て、 みんな、いやだ。眼が、どろんと濁っている。覇気が無い。(同) 周囲の人間に対する不快感で、頭の中を一杯にしたかと思うと、 ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。(同) 授業中に窓から見える花を眺めながら、人間のよいところを考えてみる。そして、 私は、たしかに、いけなくなった。くだらなくなった。いけない、いけない。弱い、弱い。だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。(同) 自分自身を批評して落ち込んだかと思うと、帰宅の途中に夕焼けを眺めながら、 「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。(中略)それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。 美しく生きたいと思います。(同) 風景の美しさを全身に感じ取り「美しく生きたい」と考えてみる。実に忙しく、そして右から左へと感情のスイッチが切り替わっていく。その様子が、主人公の言葉を通して、流れるように読者に語りかけてきます。まるで目の前で、ほんとうに「女生徒」が語りかけてくるような文体で言葉が紡がれていきます。  「女生徒」は、ある女

【中原中也】一人でカーニバルをやってた男

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詩人 中原中也と聞いて連想すること 「中原中也」と聞くと、黒い帽子を被り少年のようなまっすぐな瞳をしている、あの有名な写真が頭に浮かぶ人も多いと思います。「詩人」という言葉がぴったりの、繊細で物静かな雰囲気が漂っている人物という印象を受けますよね。 ところが実際の中原中也は、少々気難しいといいますか、酒を飲んでは人に絡んでしまうような一面があったようです。 そのような酒の席における自分の状況を、親友に宛てた手紙の中で説明している文章があります。 昨夜は失礼しました。其の後、自分は途中から後が 悪いと思ひました。といひますわけは、僕には時々自分が一人でゐて感じたり考へたりする時のやうに、そのまゝを表でも喋舌ってしまいたい、謂ばカーニバル的気持が起ります。(以下略)【中原中也 安原喜弘氏宛ての手紙より】 自分が一人の時に考えていることを、そのまま口に出してしまう。そして、相手の反応が気になってしつこく絡んでしまう。それを中原は「カーニバル的気持ち」と説明しているのですね。そして、この手紙はこのような一文で結ばれます。 一人でカーニバルをやってた男  中也 【同】 カーニバルはたくさんの人が集まって行われるものであって、 一人でカーニバルはできません よね。しかし中原は、たった一人でカーニバル状態になって熱狂している。周囲の人々がそこに参加する事は無い。むしろ、どんどん距離をとって離れていく。 そのような状況を、中原自身も自覚していたのだろうな、と。翌朝になって手紙を書きながら反省しているのだろう。そのような状況を想像してみると、せつない寂しさが漂ってきます。そして「一人でカーニバルをやってた男」という最後のフレーズに、中原らしい言葉の響きを感じたりもします。  詩人が見ていた世界と、現実の世界とのはざまで 中原中也には、酒の席での様々なエピソードが残されています。太宰治が絡まれた話も有名ですよね。そのようなエピソードを知りつつあらためて、中原中也の作品を見ていると、そこに大きなギャップが存在していることを感じます。詩人 中原が見ていた、または追求している世界と、現実の世界とのギャップ。 それは、私たちが想像するよりも大きなものだったのかもしれません。 そんなことを考えながら、天才詩人の作品をひとりで読んでいると、遠くの方から

文豪のラブレター(太宰治)編

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【4回目】文豪のラブレター「太宰治 」編   【文豪のラブレター】シリーズも4回目。今回は、太宰治が、ある女性に宛てた手紙を紹介します。あの太宰治は、いったいどのようなラブレターを書いていたのか? ファンならずとも気になりますよね・・・。 拝復 いつも思つてゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思つてゐました。正直に言はうと思ひます。(太田静子宛ての手紙より) こちらは、 太宰治が太田静子に宛てた手紙の冒頭です 。この時太宰は結婚していたので、いわゆる「愛人(正確には、この段階では男女の関係にはなっていませんが)」へ宛てたラブレターということになります。 太宰の作品を読んでいると「直接、自分に語りかけている」かのような「他の人には言えないけど、あなたにだけは話しておきたい」と、いうような気分になる時がありますが、この手紙も「目の前で、静かに語りかけてくれているような」気持ちになる、太宰らしい文章だと思います。 「いつも思っています」「いつも思っていました」「正直に言おうと思います」 冒頭で「思う」という言葉が、三度連続で続きます。太宰は意図的にこのような書き方をしたのではない、と「思い」ますが、読んでいると本当に自分のことを「思って」くれているのだな、と感じる文章だと思うのですが、みなさんはどう感じましたか? 一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい  コヒシイ この手紙は、太宰の周辺の出来事が綴られたあと「コヒシイ」という言葉で結ばれます。最後に「コヒシイ」と気持ちを伝える。色々な意味で「太宰らしい」魅力が詰まった手紙だと思います。興味がある方は、ぜひ研究(?)してみてください。 太宰治疎開の家 この手紙を書いていた時の太宰は、戦時中のために実家の青森へ疎開していました。現在でも太宰が疎開していた家が 「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」 として、青森県の五所川原市に保存されています。 私も数年前に「太宰治疎開の家」を訪問したことがあるのですが、実際に太宰が執筆していた書斎で「あの作品は、ここで書かれたのか」と当時の様子を想像する時間は、ほんとうに楽しいひとときでした。 「太宰治疎開の家」を訪問した時の記事はこちら 「太宰治疎開の家」は、 斜陽館 からでも徒歩で移動できる場所にあるので、興味がある方は足

【読書】生命のリアルさは「堀内誠一の絵本」に教えてもらった。

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こわかった、絵本。 子どもの頃に読んでいた絵本の中に 「こわくて、ちょっと苦手な」 ものがあった。 多くの絵本が、うれしくなったり、さびしくなったり、ふしぎになったり、と「ここちよく」してくれるものだったのに、その絵本は「人間の体内のこと、血がめぐっている様子」が描かれていて、こども(幼稚園のころ)の私には「こわい」と感じたのだった。そして、こわいけれど、なぜか時々見たくなる。 それが「堀内誠一」さんの絵本だった。 生命のリアルさ、を教えてもらった絵本 先日、堀内さんの「ねびえ」を読み返す機会があった。「さすがに子供ではないのだから、もうこわくはないだろう」と思いつつ読んでみると、なかなかのインパクトだった。すこし「こわい」ような気もした。いや、もうすこし正確に書くと、こわいというよりは 「生命のリアルさ」を感じた のだった。 自分の身体の中で、このように血が流れウイルスと戦い、生命を維持している。そんな様子がリアルに感じられる作品だった。そして、このような「生命のリアルさ」を、こどものころの私は 「把握できない広く深い世界 = こわい」と感じたのではないかと思う。 大人になってから、堀内誠一氏は絵本作家としてだけではなく、グラフィックデザイナーとしても活躍されていたことを知った。そして、堀内氏がデザインしたロゴが掲載されていた雑誌を知らずに愛読していた。こどもの頃だけではなく、大人になってからも堀内氏の作品を眺め続けていたのだった。 子供のころに出会った作品は、自覚している以上に「ものごとの見方」に影響を与える。 私は「生命のリアルさ」を考えるきっかけを、堀内先生の絵本に教えてもらった のだと思う。「ねびえ」「ちのはなし」「めのはなし」そして「こすずめのぼうけん」などなど、こどもはもちろん、おとなのみなさんにも、ぜひおすすめしてみたい。リアルで、たのしいですよ。 【佐藤ゼミ】生命のリアルさは「絵本」に教えてもらった。 〰関連 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【文学】芥川賞の季節になるといつも太宰治を思ひ出す。(佐藤春夫)

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「芥川賞」と聞くと、思い出すこと 本日は、芥川賞の発表がありますね。どのような作品が受賞するのか、毎回楽しみにしてる方もいらっしゃると思います。芥川賞の選考委員を務めていた佐藤春雄は、 芥川賞の季節になるといつも太宰治を思ひ出す。彼が執念深く賞を貰ひたがつたのが忘れられないからである。(稀有の文才 佐藤春夫) と書いていますが、私も個人的に「芥川賞」と聞くと太宰治のエピソードが頭に浮かびます。 芥川龍之介に、あこがれた太宰 別の所でも書いていますけれども、太宰治は芥川龍之介が憧れの存在でした。「芥川龍之介」と何度も書いている学生の頃のノートや、芥川龍之介の真似をしてポーズをとっている写真も残っています。 そのような憧れの存在の名前がついた文学賞ですから、太宰治が熱望したのも当然のことかと思います。そして、どうしても芥川賞が欲しかった太宰は、佐藤春夫に「私に、芥川賞をください」と手紙を送ります。 そのうちの一通は4メートル以上もあったそう。 手紙には、自分がどれだけ芥川賞を欲しているか、必要なのか。受賞できるかどうかで今後の人生が決まる、というような内容が切々と書かれています。 残念ながら、太宰は芥川賞を受賞することができなかったのですが、もしも太宰が受賞していたらどうなっていたでしょう。 そして、あの世で太宰は、芥川賞の発表をどのような気分で眺めているでしょうか。無関心を装いつつ、しっかりと聞き耳はたてているような気がします。 「津軽」は出版の当時読まないで近年になつて――去年の暮だつたか今年のはじめだつたか中谷孝雄から本を借りて読んで、非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現はれてゐるやうに思はれる。(稀有の文才 佐藤春夫) 週末には、ひさしぶりに「 津軽 」を読み返してみよう。津軽を読むのは、大寒の今くらいの時期がちょうどいいような気がする。そんなことを考えました。 【佐藤ゼミ】芥川賞の季節になると・・・。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 「太宰治」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【読書術】 良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。(デカルト)

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「モーパサンは馬鹿ニ違ナイ。」 今からかれこれ10年以上前のことなのですが、地元の文学館で開かれた「夏目漱石展」で漱石の蔵書を見たことがありました。漱石は本を読みながら、余白に書き込みをする習慣があったのですが、その時展示されていた蔵書には漱石の筆跡で 「モーパサンは馬鹿ニ違ナイ。」 と書き込まれていたのでした。 批評というよりは、モーパッサンに喧嘩を売っているかのような漱石先生。よほど気に入らなかったのでしょうか。貴重な書籍に、そのようなことを書き込んでしまう漱石先生の様子を想像すると、どこか滑稽にも見えてその資料見ながら思わず笑ってしまったことを覚えています。 哲学者のデカルト曰く、  良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。 (ルネ・デカルト 方法序説より)   という一文があるのですが、まさに漱石先生は、 読書をしながら作者と会話をしていたのではないか と想像します。そして「馬鹿ニ違ナイ」と考えていたことを、そのまま書き込んでしまったのではないかと思うのです。 作者と会話をする「読書」 私もこの漱石先生の書き込みを見てから、読書をする時はペンを持って、 アンダーラインを引いたり、自分の考えを書き込んだりしながら読んでみる ようにしてみました。この方法ですと、読書のスピードは格段に遅くなるのですが、その分じっくりと読み込んだ気分になりますし、作者と会話しているかのような気分にもなります。 さらに、数年後に同じ本を読み返した時、 当時の自分の考えなどを思い出したり して「当時のオレは、こんなことを考えていたのか?」などと、懐かしいような恥ずかしいような気分になるのも、なかなか面白いものです。 皆さんも「しっかりと読み込んでみたい」と感じる本と出会えた時は、漱石先生のように書き込みながら読み込んでみると、何か新しい発見があるかもしれません。試してみてください。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【読書】決して読まないのに多くの本を所有したがるのは……【ヘンリー・ピーチャムの言葉】より

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子供のころは「本屋さん」に、なりたかった。 皆さんは、子供の頃になりたかった職業は何でしたか?  小学生の頃の私は 「本屋さんになりたい」 と思っていました。なぜそう思ったかというと、近所に小さな本屋さんがあったのですが、そこへ行くと店主らしき人がいつもカウンターの横にある椅子に座って本を読んでいたのですね。 その頃の私は 「もっと本が読みたい。好きなだけ本を買いたい!」 と熱烈に思っていたのですが、小学生のこづかいでは月に一冊買うのがやっと。当時の私は、店内にある本は全部お店の人のだと思っていたので、本をたくさん持っていていいなあ、うらやましい。大人になったら、このような仕事がしたい、と思っていたわけです。 読まない本が、山積みになっていく。 社会人になると、少しだけお金に余裕が出てきました。私は週末になると帰宅時に書店に寄り、気になる本を数冊買って帰るのが習慣になりました。書店に並んでいる表紙を眺めながら 「土曜の夜にはこれを読もう」などと考えながら本を選ぶ時間は楽しいもの です。しかも、数冊くらいならば購入できる余裕もあります。私は選んだ本を抱えながら、ほくほくした気分で家に向かうのでした。 ところが、本を買ったはいいけれど、実際にはなかなか読む時間がないんですね。気がつくと、私の部屋には 未読の本が山積みになっていました。 その当時は実家にいたので、親からは床が抜けるからなんとかしなさいと怒られる。それでも本を買う事は止められず、未読の本が壁になっていく。しまいには、同じ本を2冊買ってしまう。そんな時間が続いていたんですね。 趣味「読書」ではなく「本を買うこと」!? そして、ある時私は「もしかして自分は、読書が好きなのではなく、本を買うことが好きなのではないか?」と気がつきました。趣味は「読書」ではなく「本を買うこと」ではないのか? ヘンリー・ピーチャムの著作の中に、 決して読まないのに多くの本を所有したがるのは、 寝ている間も蝋燭をつけておきたがる子供のようなものだ (ヘンリー・ピーチャム「完全なるジェントルマン」より) という一文があるのですが、まさにこれだ、と。自分は「蝋燭をつけておきたい子供」だ。買うことで満足してしまっている。 読みもせず、部屋に帰って山積みにした段階で目的を達した気分 になっている。まさにこの状況になってしま

「ネタ」の情報源は、過去の記憶にあり。

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私の「情報収拾」の方法とは? 私の講義を受講した生徒の皆さんから 「よくネタが続きますね。どうやって探すのですか」とか「先生は忙しそうに見えるのに、どのようにして勉強しているのですか」 と質問を受けることがあります。 おそらく、このような質問される人は「何か特別な勉強方法」や「情報収集の仕方」があるのではないか、と考えていると思うのですが、 残念ながら特別なことをしているわけではありません 。 ネタが尽きるか、私の寿命が尽きるか。 例えば「読書」に関する話題でしたら、 子供の頃からずっと読んでいた本を順番に紹介しているだけ なのです。昔の記憶をたどり、そこに今自分が何を考えているかを考察し付け加えたりしたことを、書いたり話してるだけなんですね。 子供のころから40年以上もコツコツと本を読んできたわけですから、当分の間は「ネタ」は尽きないでしょう。そしてネタが尽きる前に、私の寿命の方が尽きてしまう可能性も否定できません(笑)  【スタインベック】の言葉 スタインベック【ジョン・スタインベック(1902-1968)】というアメリカの作家がいますが、この作家の言葉を借りるのであれば、 「天才とは、蝶を追っていつの間にか山頂に登っている少年である」 といった感じでしょうか。もちろん私は天才でもないし、山頂まで登ったわけではありませんが 「子供の頃に夢中になっていた世界をずっと追いかけていたら、それなりに積み重なっていた」 ということだと思います。そして 誰しも「そのような分野」がある と思うのです。ただ忘れてしまっているだけだと思うのですね。 もしも皆さんが、これから情報発信をしようと考えているならば「あたらしく勉強して身につけたことを発信する」という方向だけではなく、 「今まで自分が積み重ねてきたものを整理して表現してみる」 という方向も、楽しいのではないかと思います。そのような作業を繰り返していくことで、新しいヒントが見つかるし、より奥深いものができるのではないかと思うのです。 【ラジオ版】「ネタ」の情報源は、過去の記憶にあり。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

文豪のラブレター(斎藤茂吉)編

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文豪のラブレター(斎藤茂吉)編 【文豪のラブレター 3回目】1回目と2回目では、芥川龍之介と夏目漱石のラブレターを紹介しました。それぞれ、意外性がありつつも「まっすぐな気持ち」が伝わってくる、心温まる手紙でした。そして、今回ご紹介するのは斉藤茂吉のラブレターです。 ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいえない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。(永井ふさ子宛の手紙より) こちらは、斎藤茂吉が永井ふさ子に宛てて書いた手紙です。この時、斉藤茂吉は52歳。お相手の永井ふさ子は24歳。「なぜこんなに」「なぜそんなに」と畳み掛けながら、若い女性を相手に身も心も魅了されている様子が伝わってきます。芥川龍之介や夏目漱石とは違った角度からの「まっすぐ」な気持ちが表現されている、印象的なラブレターだと思います。斎藤先生、さすがです…。 それにしても、このような手紙をもらった永井さんは、どのような返信をしたのでしょうか。気の利いた返信で、さらりとかわしたのでしょうか。手紙が資料として残っているということは、大切に保管していたのだと思いますが、このあと二人がどのような会話をしたのか気になります。ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。 ☝(補足) 余談ですが、私は数年前に斎藤茂吉の出身地である山形県の「聴禽書屋」を訪問したことがあります。茂吉はここに戦後2年間ほど滞在したそうですが「聴禽書屋」という名称(聴禽=小鳥のさえずりを聴く)が、しっくりとくる和風建築の静かな趣のある場所でした。山形には「斎藤茂吉記念館」や生家などもありますが、興味がある方は「聴禽書屋」へも足を伸ばされることをおすすめします。 ☝(関連) ・ 文豪のラブレター(芥川龍之介)編 ・ 文豪のラブレター(夏目漱石)編 ・ 文豪のラブレター(太宰治)編 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter 佐藤ゼミでは、 文学作品を通して「考えるヒント」 を提供していきます。夏目漱石・芥川龍之介・太宰治・宮沢賢治など、日本を代表する文豪の作品から海外文学まで、私(佐藤)が読んできた作品を取り上げて解説します。

「究極の愛のかたち」とは? 春琴抄「谷崎潤一郎」を読む

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「究極の愛」とは? 春琴抄「谷崎潤一郎」を読む 春琴抄を初めて読んだのは、高校生の時だったと思う。何かの書評に 「これぞ究極の愛のかたち」 というようなフレーズで紹介されていて、「究極の愛とは、どのようなものなのだろう?」と気になった私は、受験勉強の合間に読んでみることにしたのだった。 (春琴抄のあらすじ:春琴は顔にひどい火傷を負ってしまう。それを見ないようにするために、佐助は自分の目を針で刺して失明する) お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござります(谷崎潤一郎 春琴抄より) 佐助の記憶の中には「なつかしいお顔」が永遠に存在する。これからどのようなことが起きたとしても、どんなに時間が過ぎたとしても「なつかしいお顔」のままである。それは佐助にとって「究極のよろこび」かもしれない。これが耽美派の世界なのか(耽美派:美を最上の価値とし、官能・享楽的な傾向を持つ作風)と。 そして「自分が同じ状況になったとしたならば、どうするだろう?」と考えてみた。視力を失う勇気はない。しかし、いざ、となれば……いや、やっぱりできない。では「視力を失いました」と嘘をつくのはどうだろう? 嘘をついたままで、今まで通りに世話をしていく。いや、もしも嘘がバレてしまった時は、さらに最悪の状況に追い込まれるだろう。しかし、どちらにしても佐助のような行動はできないな……。そんなことを考えたのだった。 自分には「できない」からこそ。 先日、春琴抄を読み返した。ここに書いたようなことをもう一度考えてみた。改めて、自分には佐助のような行動はできない、と思った。同時に、逆に自分が「春琴」の立場だったならば、「そんなことは、絶対やめるように」と言うだろう。春琴のように、 「よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ(春琴抄より)」 といえるようなメンタリティは、今の自分にはない。いや、嬉しいと思う気持ちは湧き上がるかもしれないが、それも一瞬で「なんてことを、させてしまったのだ」と後悔に押しつぶされるだろう。自分を責め続けてしまうだろう。そして佐助を遠ざけてしまうかもしれない。 かくて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十

「心まで所有する事は誰にも出来ない。」夏目漱石「それから」を読む

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「僕は三千代さんを愛している」 「他の妻を愛する権利が君にあるか」 「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。」(夏目漱石「それから」より) 「それから」の主人公・代助は、友人である平岡の妻(三千代)を好きだったんですね。2人が結婚したあとも、ずっと心の中に三千代の姿があった。ところが、数年ぶりに再会した平岡と三千代は、仕事も家庭もうまくいってないように見えた。 そこで代助は、三千代に自分の気持ちを打ち明け、三千代も代助の気持ちを受け入れます。お互いの気持ちを確認した代助は、平岡に会いに行き、二人の関係を報告に行く。その時の会話の場面です。 「愛する権利」 「心まで所有する事は誰にも出来ない。」 この場面を境に、代助の人生には大きな変化が始まっていきます。「それから」の中でも、緊迫感のある名場面のひとつだと思います。 平岡への「共感」 私が初めて「それから」を読んだのは大学生の時でした。その時は「平岡は、もう三千代にに愛されていないのだから、潔く諦めた方が良いのではないか。夫の権利を振り回して、なんだかみっともない感じがする」と感じたことを覚えています。 しかし今回「それから」を読み返してみたところ、平岡の気持ちに共感している自分もいました。結婚するという事は、 覚悟や決意を決め実際に行動に移し、一緒に過ごしてきた時間 が存在するわけです。 確かに「心」は大切です。すべてはそこから発して、そこに戻ってくる。しかし「心」だけですべてを切り取るのも不自然だ。「夫の権利」という立場から、代助に対峙していく平岡の気持ちもわかるような気がしたわけです。そしてこれが、年齢を重ねながら小説を読んで行くおもしろさのひとつではないか、としみじみと感じたのでした。 明治から現代の私たちへ 夏目漱石の「それから」は、明治42年(1909年)に書かれた作品です。すでに100年以上の時間が経過しています。しかし今読み返してみても、 まるで現代の世の中を予見したかのようなテーマが扱われている ことに気がつきます。 自我(エゴ)、個人主義、社会との関わり、様々な視点から発見や考察ができる名作です。気になった人は、読んでみていただきたいと思い今回紹介してみました。 【佐藤ゼミ】夏目漱石「それから」を読む

雨ニモマケズ【宮澤賢治】を読む 

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雨ニモマケズ【宮澤賢治】を読む 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 宮澤賢治「雨ニモマケズ」より こちらは「雨ニモマケズ」の冒頭部分です。みなさんも、どこかで目にされた記憶があるかと思います。とても有名な作品ですね。 この作品は、 宮沢賢治が亡くなる2年前 (1931年)に書かれたものです。弟の清六氏が遺品を整理している際に、手帳に書き込んであった「雨ニモマケズ」を発見。原稿用紙ではなく手帳に書き込まれていたことから、作品として制作したというよりも、自分のために書かれた作品という色合いが強いのではないか、と私は考えています。 この作品を書いていた頃の宮沢賢治は、石灰の販売の仕事で上京中に病状が悪化。病に倒れた中での執筆でした。 「理想に向かって進んでいきたい」と考える気持ちと、世間の厳しさに向かい合い身動きができず倒れてしまった現実とのはざま。 サウイフモノニ ワタシハナリタイ 宮澤賢治「雨ニモマケズ」より という、最後の一文からも「このような人間になりたかったけれども、なれなかったなあ」というような、賢治の切ない思いが響いてくるような気がします。 人間「宮澤賢治」の姿 私は小学生の頃に、この作品の冒頭部分を暗唱させられた記憶があります。その時の授業では 「見習うべき理想の人間像 = 宮沢賢治」 という感じの解説を受けたような記憶が、おぼろげに残っています。 しかし実際は、宮沢賢治本人が「このような人生を送ることができた」というわけではなく、 理想と現実との葛藤の中から「このような人間になりたいものだ」という希望や祈りが込められた のがこの作品だと思うのです。 「ほんとうのさいわい」とは何だろう? そのように自分自身に問いかけ進んでいこうと試みる。精神はどこまでも高く伸びていくけれども、現実の世界はなかなか近づいてこない。その狭間を行ききし戻りつつ言葉をつむいでいく。 このようなことを考えながら「雨ニモマケズ」を読んでみると、学校の授業で教えてもらった解釈とは異なった、宮澤賢治像が浮かび上がってくるような気がするのでした。 【Youtube版】雨ニモマケズを読む 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者

「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」銀河鉄道の夜(宮沢賢治)より

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今回は「銀河鉄道の夜」の一場面を紹介してみたいと思います。列車の中でジョバンニとカンパネルラが2人で会話をしている場面です。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。 「僕たちしっかりやろうねえ。」(九、ジョバンニの切符より) ジョバンニは、みんなの幸せのためになら、なんだってやる、とカンパネルラに話します。それを聞いてうなずくカンパネルラ。でもジョバンニには 「 ほんとうのさいわい」とは、何なんだろう、と疑問が浮かんでくる んですね。 「ほんとうのさいわい」について考えを巡らせていく、ジョバンニとカンパネルラ。そしてこれからも一緒に進んでいこう、と約束をする2人。 2人の気持ちがつながっている様子 が表現されている、静かで美しい場面の1つだと思います。 「ほんとうのさいわい」とは何だろう? ジョバンニは「ほんとうのさいわい」と問いかけ、カンパネルラは「わからない」と答える。確かに私たちも 「ほんとうのさいわい」と質問されると、答えられない自分 に気がつきます。 私たちは「幸せになりたい」と思って生活していますよね。もっと自分らしく生きたいとか、恋人が欲しいとか、働きやすい仕事を探したいとか、様々なことを思い浮かべながら「これが実現すれば、幸せになれる」と考え、そこに向かって進んでいこうとします。 ところが実際に「それ」が実現したとしても、 今度は別の新しい悩みが生まれてくる ものです。たとえば恋人ができたとしても、一緒に時間を過ごしてみると価値観の異なる部分が目についてイライラする。自分の考えは理解してもらえているのか? 別のことを考えているのではないか? もしかして浮気をしているのではないか? などと相手が理解できなくて悩む。口論になる時もある。 私にとっては幸せでも、相手にとっては幸せではない時もある。 すべての人にとって「ほんとうのさいわい」とは何なのだろう? それは存在するのだろう

【思い出】私の子供時代の記憶には「釣りキチ三平」の姿があった。

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小学生の時の話。自宅に「釣りキチ三平」というマンガ本があった。父親が買ってきたものだった。それは他の漫画本とは「どこか違った」気配が感じられた。リアルでスピード感があって、ぐいぐい引き込まれていく感じ。私はすっかり夢中になった。 三平のようにまっすぐに、一平じいさんのように、やさしく深く。魚紳さんのように、賢く自由に。 そしていつの日か自分も三平のように、色々な場所で様々な魚を釣ってみたい。そんな憧れを持ちながら、美しい風景が広がるページを何度も繰り返し読んでいた。小学生の私は「釣りキチ三平」の登場人物に「理想の姿」を重ねていたのかもしれない。 私は少しずつ釣り道具を手に入れ、自転車に乗って釣りへでかけた。車の免許を取ってからは、トランクに釣り道具を詰め込み、地図を片手に「あたらしい場所」を求めて走りまわった。勢い余って、船舶の免許も取った。水を見れば覗き込まずにはいられないし、そこに魚が泳いでる姿を見つけたならば、糸を垂れたくて仕方がなかった。 そして実際に竿に仕掛けを組んで水の中に放り込む時、頭の中にはいつも「釣りキチ三平」のシーンが思い浮かんでいたように思う。マンガと現実の様子を重ね、釣りを楽しんでいたように思う。 2020年11月。作者の矢口先生の訃報を知った。子供時代から続いていた「ひとつの時代」が終わりを告げたように感じた。10代の頃に出会ったことが、人生の重要な価値観のひとつになる、というような文章をどこかで目にしたような記憶がある。確かにそうだと思う。もしも「釣りキチ三平」に出会わなかったのならば、私は釣りをすることはなかったかもしれない。釣竿を抱えて、遠くの場所へ旅をすることもなかっただろう。 これからも私は、ときおり「釣りキチ三平」を読み返すと思う。そしてその度に、あのころの自分を思い出すのだと思う。矢口先生ありがとうございました。

「百年待っていて下さい」夏目漱石【夢十夜】より

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「百年待っていて下さい」夏目漱石【夢十夜】 今回紹介するのは、 夏目漱石の夢十夜【第一夜】 です。以下、物語の結末に触れる部分がありますのでご注意ください。よろしいでしょうか? それでは始めていきます。 【第一夜】には男女二人が登場します。女性は亡くなる直前に、男性にこのような約束をします。   「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(夏目漱石 夢十夜より) 女性は男性に、自分が死んだら墓を作って欲しい。そして墓の横に座って待っていて欲しい。100年経ったら会いに来るから、そう約束をして亡くなってしまいます。のこされた男性は、女性に言われた通りに墓を作りその横に座り待ち続けます。太陽が東から昇り西に沈む。何度それを繰り返しても、100年はやってこない。やがて男性は 「自分は騙されたのではないだろうか」 と思い始めます。 すると女性の墓から、青い茎が伸び、その先に真っ白な百合の花が開きます。その百合に触れた男性は 「百年はもう来ていたんだな」 (同) とすでに百年が過ぎ、約束の時になっていたことに気がつく。【第一夜】は、このような話です。  夢か? 幻想か? 物語なのか? 夏目漱石の作品というと、現実的でシリアスな内容だと感じている方が多いのではと思います。しかしこの「夢十夜」という作品は、夢なのか? 幻想なのか? それとも物語なのか? と、とても不可思議な世界が描かれています。 亡くなった女性が100年経ったら会いにくる、と約束をする。男性は墓の横に座って、その時を待ち続ける。百合の花が咲きそれに触れた時、100年はもう来ていたことに気がつく。ロマンティックな話だと感じる方もいらっしゃるでしょうし、なにか背筋がぞくぞくするようなものを、感じる人もいるかもしれません。読み手によって、物語の印象が大きく変化していく作品だと思います。 夏目漱石の「深層心理」を覗き込むように 夢十夜は「夢」という形式を使って描かれた作品です。実際に夏目漱石が見た夢をそのまま書いているのか、それとも「夢物語」という形式を使った創作なのか。その辺は、はっきりとしていません。 ただ「夢」という形式をとることによって、 不可思議で現実離れしたような展開でも、違和感なく頭の中に染み込んでくる と、私は感じています。作品の