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私の記憶は、どれほどの「勘違い」で構成されているのか?

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「白井道也は文学者である」 こちらは、 夏目漱石「野分」の冒頭である。 私が初めてこの冒頭文を知ったのは、予備校生の時だった。現代文のテスト対策として、有名な文学作品の冒頭文を覚えていた時に、この一文を目にしたのだった。 大学生になった私は「野分」を読んでみることにした。予備校生の時に暗記した冒頭文を思い浮かべながら、ページをめくった。違和感をもった。 「あれ? 白井道也は文学者だったのか? 数学者だと思っていた!」 そう私は 「白井道也は文学者である」を「白井道也は数学者である」と勘違いして覚えていた のだった。なぜ数学者だと思ったのか? それはわからない。「白井道也」という名前が、なんとなく数学者っぽいと感じて(個人のイメージです)そのように覚えてしまったのだと思う。そしてそれを全く疑わずに、数年間過ごしてきたわけである。 私の「記憶」が勘違いで、構成されているのなら この件では、実際に「野分」を読むことで、自分の思い込みと勘違いに気がつけたため、記憶を修正することができた。しかし、このように確認することができないまま 「勘違いしたまま」で今日まで過ごしてきた事柄は、おそらく私が想像しているよりも膨大な量 になるのだろう。 人生は「記憶」で構成されている 。つまりそれが思い込みでも勘違いでも、自分の中で「それが真実の記憶」としているのであれば、 それが「私の人生」ということになる。 いったい、私の人生の何%が勘違いで構成されてるのだろうか。文学者を数学者と勘違いするのもなかなかだが、それ以上のとんでもない間違いが多々存在するような気がする。確認した途端に、今までの自分を支えてきた何かが揺らいでしまうような、そんな根本部分に接触するものもあるかもしれない。 そんなことを考えると切ないような気分にもなる。 黄昏時の風景が頭の中に広がるような気分 にもなる。それと同時に、まぁでも それが私の人生なのだから と考えたりもする。他者に迷惑を与えているのならば、申し訳ないが個人的な体験としては、 まちがいさえも自分自身だと思ってみる。 それはともかく「白井道也は文学者である」。数学者でも芸術家でもない。この点においては明確な勘違いなので修正できてよかったと思う。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwi

パーコレーターで、コーヒーを飲もう

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先日、 パーコレーターをいただいた。 新しい道具を手に入れると、すぐに使ってみたくなる性格の自分は、さっそく豆を購入しコーヒーを淹れてみることにした。実際に淹れてみると、最初の数回は手間取ることもあったが、慣れると楽しく淹れることができたので、入手を考えている人のために、ざっくりと手順を解説してみたい。 本体で湯を沸かしつつ、中身の器具(バスケットと、呼ぶらしい)を取り出してコーヒー豆を適量いれる。 使用するコーヒー豆は「粗挽き」 が適しているので、事前に準備しておこう。豆を購入する際に「粗挽きで」と注文すると、なんとなく新鮮な気分になれて楽しい。 湯が沸いたところで、器具を本体にセットする。自分の場合は、ここで1分間ほど放置して蒸らすようにしている。蒸らし時間が終わったら、 火力を弱火にして抽出開始 。 最初は、よくわからなくて強火で抽出してしまったのだが、香りが飛びクセのある味になってしまった。 火力の調整と時間が、パーコレーターを楽しむコツだと感じているので、これからも研究してみたいと思う。 本体の上部は、ガラスになっていて中身を観察できるようになっている。温度が上昇してくると、ここに蒸気と水滴があがってくる。最初はこのように透明の状況なのだが・・・ 時間の経過とともに、コーヒー色になってくる。個人的に、この様子を眺めているのが、パーコレーターの醍醐味のひとつではないかと思う。 ポコポコと噴き出してくる様子を眺めていると「おっ、順調に抽出されているな」と動きが見えるので楽しい。 カップを準備しながら染まっていく様子をたのしみたい 抽出時間なのだが、自分の場合は 「弱火で3〜4分」 くらいに設定している。上級者ならば、色味などを見ながら適した時間を判断できると思うのだが、初心者はタイマーなどで計測した方がよろしいかと思います。長すぎても短すぎても、いい塩梅にならないので、調整しながら「好みの一杯」を探っていこう。 完成。バスケットをとりのぞいたら、カップに注ぐ。濃いめの風味になるので、牛乳を温めてカフェオレにして飲むのもおすすめだ。 個人的には、お客さんがきた時に「パーコレーターでコーヒーを淹れますね」と、ちょっとしたイベント的に使うのも楽しいかな、と考えている。 コーヒーを楽しむ幅が広がる ので、気になっている方は、ぜひ挑戦してみていただきたい。たのしいですよ

「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」【夏目漱石 門 より】

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自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、 「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。 (門 夏目漱石) こちらは、夏目漱石の「門」の一場面です。主人公(宗助)は「親友の妻を奪って結婚してしまった」という過去を持っています。その罪の意識を抱えながら、逃れるようにして生活をしてきたのですが、その「罪」は過去からずっと追いかけてくる。どうあがいても逃げることができない。そのような状況で苦しんでいるわけです。そこで宗助は、その解決のきっかけを宗教に求めます。寺に参禅して、悟りを得ようとするんですね。 今回紹介したのは、宗助10日ほど寺で過ごしたあと、現在の自分の状況を考察している場面です。この 「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」を私なりに解釈 してみますと、目の前の問題を乗り越えようとする時には、 最初の「門」は自分自身の力でこじ開けなければいけない。最初から他者にすがるのではなく「自力」で精進することが肝要 なのだ。また同時に、 精進するならば「やがて、自力で開けられるものなのだ」 と。そのような意味なのではないかと私は解釈しています。  伸びる生徒 伸びにくい生徒 私は教育の仕事に20年以上取り組んできました。そして、実際に多くの生徒を指導してきて感じることなのですが、目の前の壁を越えて「伸びていく生徒」と「伸びにくい生徒」には、共通点があるのですね。 伸びていく生徒は「壁」があったとすると「まずは自力で一生懸命努力をする」のです。先生から与えられた課題を、自分なりに試行錯誤して地道な時間を積み重ね、なんとか乗り越えようとする。その後 「自分なりに頑張ったのですが、なかなかうまくいかないので教えてください」 と相談にくるのです。 私たちは生徒の状況を見ながら「この部分を見落としているから、ここをこのように修正した方いいですよ」「ここを演習すれば、もっとスムーズに進みますよ」と新しい課題を与えます。生徒はわかりました、と素直に取り組んで試行錯誤して、また質問にやってきます。その地道な繰り返しの中で、本当に活用できる実力を磨いていくのですね。 伸びにくい生徒は、課題に少し手をつけた段階で質問にきます。そして 「他の方法はないですか?」 と質問してきます。しかし別のアドバイスをもらったと

鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり【夏目漱石 愚見数則より】

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「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」 これは夏目漱石の「愚見数則」の一文です。この作品は 漱石28歳の時に、当時の学生に向けて書いたもの で、20代の若き漱石先生が、人生哲学といいますか処世術といいますか、そのようなものを学生に向けて激を飛ばしている。頭の中に浮かんでくる言葉を叩きつけてくるかのような勢いと熱意を感じる作品です。 私が「愚見数則」を初めて読んだのは、今から15年以上前のことだと思います。 当時の私は、独立起業して試行錯誤の時間が続いていました。なかなかうまくいかない、そして先が見えない作業の連続の中に、ごちゃまぜになりながら生きていた時期でした。 「鶴にはなれない」かも、しれないが。 そのような時に、何かの資料だったか、書籍だったかに添付されていた「愚見数則」を見つけ流し読みをしているうちに、当時の私の目の中に飛び込んできたのが、この 「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」 の一文でした。 その当時の私は、実力不足や得手不得手など「自分ができること」を直視する時間が続いていたので「オレはやっぱり豚だ。どんなに鶴に憧れても、鶴にはなれないのだ」と感じていたので、この一文が突き刺さってきたのだと思います。 「オレは鶴にはなれないかもしれないが、そうだとしても豚は豚なりに生きていこう。空を見上げる気持ちは忘れないでいこう」 と。 そして「漱石は28歳で、このような教養と思考力と文章を書いた。すでに自分は28歳を過ぎている。 天才と凡才の違いというものは、これほどまでに大きいのか 」などと考えながら、目の前の作業を繰り返していたことを覚えています。 人生を100年と考えるのなら。 もしも皆さんが10代の学生であるならば「愚見数則」を読んで、皆さんの 頭の中に漱石の言葉を取り込んでおく ことをおすすめします。漱石先生は「こんなのは読まなくてもいい」とうそぶくかもしれませんが、読んでおくことに越したことありません。すこし難しいと感じる部分もあるかもしれませんが、分かる部分から目を通しておくだけでも意味があります。 10代以外のみなさんも 「自分の中にある10代」の頃を思い出して 、読んでみることも楽しいと思います。 漱石先生は49歳で亡くなってしまいましたが、現代を生きる私たちは100歳まで生きるかもしれません。これから第2第3

「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」(小説 太宰治より)

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今回は、 太宰治と壇一雄のエピソードを紹介 してみたいと思います。太宰治は仕事をするために熱海温泉に逗留していました。ところが滞在しているうちに資金がなくなってしまい、帰れなくなってしまったんですね。そこで、太宰の妻に頼まれた壇は、渡されたお金を持って、熱海に太宰を迎えに行くことになります。 壇が太宰の宿へ行ってみると、机の上に置いてある原稿用紙には 何も書かれている様子がない 。さらに、壇からお金を受け取った太宰はすぐに外出し、高級料理屋に行って 飲み食いをして散財します 。そしてそのまま、迎えに行ったはずの壇もずるずると、太宰と一緒に熱海で遊んでしまうのです。太宰も太宰ですが、壇も壇ですよね。太宰を連れ帰ってくる役目のはずが、一緒になって散財してさらに支払いの額を増やしてしまったわけです。 友人を残したまま、将棋を指す太宰・・・。 さて、このままでは宿代などが払えない。そこで太宰は 「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、ここで待っていてくれないか?(小説太宰治 壇一雄より)」 と、壇を熱海に残して金策のために東京に戻ることになります。ところが、待てど暮らせど太宰から連絡はない。宿の主人の監視は厳しくなる。しびれを切らした壇は、催促にやってきた料理屋の主人と一緒に東京に戻ることになります。 東京に戻った壇は、井伏鱒二の家に向かいます。すると 太宰はそこで、井伏と将棋を指していた んですね。激怒する壇。怪訝そうな顔で様子をうかがう井伏。どうやら太宰は、まだ井伏に相談していない様子です。料理屋の主人の説明で状況を理解した井伏は、とりあえずその場をおさめようとします。そして、井伏が席を立った時、太宰は壇に向かってこのような台詞を口にします。 「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」  そりゃあ、待つ身が辛いに決まっている! と私(筆者)なら断言します。ものごとには限度がある、仏の顔も3度までだ! などとよくわからないことを口走ることでしょう。そして、この人と一緒にいると自分の身も滅ぼしてしまいかねない、と即刻距離を取ることを決意すると思います。さすがに呆れてしまいますよね?  ところが、 井伏鱒二は集めた金を持って壇と熱海へ行き、現地で借金の清算をします。 そして共同浴場の湯につかりながら 「なーに、あの男は僕に大きな口をきけた義理じゃないんだよ(同)」 とつぶやく

私の好きなジーンズ「45rpm」3本目

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前回の「 穴あきジーンズを、自分でリペア 」の記事を書いたあと、このジーンズの全体像をアップしていなかったことに気がついた。実際のところ、多くの方には「どのジーンズも同じに見える」というのが率直な感想だと思うのだが、なにとはなしに記録しておきたいと思う。物好きな方は、移動中の暇つぶしにでもご覧いただきたい。 さて、 45rpmのジーンズ三本目である。 こちらも古着で購入した。入手した段階で、だいぶ使い込まれた印象だった。正直なところ、購入するのを迷ったのだが、サイズと長さがちょうどよかったので「これもまた縁」と入手したのだった。 とくに、 太ももから膝周辺のダメージが大きかった。 自然なダメージというよりは、この部分をコンスタントに擦り続けたかのような印象だった。生地も薄くなっていたので「太ももの部分を使う仕事の人?」などと想像してみる。それとも、この部分の色を落としたくて手を加えたのだろうか? 以前の持ち主の使用状況を空想してみるのも、古着のジーンズを手に入れる時のおもしろさである。 結局のところ、入手後ほどなくして、膝の部分が裂けてしまったため自分でリペアしたのだが(「 穴あきジーンズを、自分でリペア 」参照)その結果 「新しく個性」が備わり、一気に愛着が増した。よかった。 フロントはボタンで、コインポケットに日の丸があるタイプである。33インチなのだが、かなりゆるめのサイズ感で、34インチくらいはあるような気がする。ベルトをしていないと、ずるずる下がってきてしまうので、わりときつめに締めるようにしている。 このブログに掲載している3本の45rpmのジーンズの中では、 これが一番ダメージが大きい。 購入当初は「ちょっとダメージが大き過ぎるかな・・・」と思い、購入したもののあまり使用していなかったのだが、自分でリペアしたことで愛着が湧いてきて、ここ最近では一番活用しているジーンズとなった。 おそらく近い将来、別の部分が破けてくる予感があるのだが、その時はまた自分で補修しつつまだまだ活躍してもらおうと考えている。 ⧬ 私の好きなジーンズ「45rpm」一本目へ ⧬  私の好きなジーンズ「45rpm」二本目へ ⧬  デニムの記事 一覧

【名言】「日本より頭の中のほうが広いでしょう」夏目漱石 三四郎【名作文学を読む】

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「日本より頭の中のほうが広いでしょう」夏目漱石【三四郎】 今回紹介するのは、夏目漱石の三四郎の一場面です。三四郎には、広田先生という登場人物が出てくるのですが、この広田先生と主人公の三四郎が電車の中で会話をしている場面です。  「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(夏目漱石 三四郎より) 「日本より頭の中の方が広いでしょう」この一文が、とても印象的な場面ですね。私たちは日々の生活をしていると、自覚しているよりも速い速度で思考が狭くなっていきます。 考えるのが面倒になり、今自分が理解できる範囲で世界を切り取ってしまいます。 そのような時に、広田先生の「日本より頭の中の方が広いでしょう」という言葉を読んでみると、確かにそうだなと。精神世界といいますか、発想や想像力などは、現実的な制約がないわけですから、どこまでも広げていくことができる。そのようなことを、ぼんやりと空を見上げるようにして考えてみると、 少し視点が高くなるといいますか、背中を押してもらえる ようなそんな気分になってきます。   三四郎の「時代背景」から では、もう少し、 三四郎が書かれた時代背景などを考察しながら、もう少しこの場面を掘り下げて 考えてみたいと思います。三四郎は、1908年に朝日新聞に連載されました。日露戦争が1904年ですから、戦後の変動期であり西洋の文化や情報が怒涛のごとく押し寄せてきていた時代ですね。 世の中が、意識的無意識的に、 一つの方向に向かって進んでいこうとしている。 強烈な勢いで日本が変容している。そのような時代の中で、夏目漱石は「とらわれちゃだめだ。」と広田先生に言わせています。つまり作品を通して、 日本の現状と社会が進んでいる方向性に批評を行っている わけです。 作品の中でも、 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。(夏目漱石「三四郎」より) と、 痛烈な批評を行っています。「滅びるね」これはおそらく、漱石自身の考