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【奥の細道】閑さや岩にしみ入る蝉の声(松尾芭蕉)

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先日、公園へ行ったところ周囲に蝉の声が響き渡っていました。蝉の声を聞くと「夏休み」という感じがします。そして、頭の中にこの一句が思い浮かびました。 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 こちらは、 松尾芭蕉が山形県の立石寺 で詠んだ一句です。「なんという閑かさだろう。蝉の声が岩に染み込んでいくようだ」と、立石寺の静寂な場に蝉の声だけが響き渡っている。そんな夏の情景を表現した作品です。みなさんも国語の時間に、勉強した記憶があるのではないでしょうか。 松尾芭蕉は「奥の細道」の中で立石寺を訪問した時の様子をこのように記しています。 梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。 岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉てものの音きこえず。 岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。 「奥の細道」より 簡単に現代語訳をしてみますと「麓に宿をとって、山の上にある本堂を目指して登っていく、岩を重ねてできたような山の姿。時間を感じさせる見事な木々と苔に覆われた道を登って山上に着くと、お堂の扉は閉じられていて静まりかえっている。崖のように切りたった道を這うようにして通り参拝する。そこから見える風景はすばらしく、心が澄み渡っていくのが感じられる。」このようになるかと思います。 私の「立石寺」体験 私は大学で「奥の細道」の授業があったのですが、夏休みに「せっかくだから立石寺へ行ってみよう」と電車に乗って現地へ行ったことがありました。その時に見た風景は、松尾芭蕉が表現しているそのままの世界が広がっていて驚いたことを覚えています。 山門をくぐって、800段を越える石段をあがっていく。木々に囲まれた細い山道は蝉の声に満ち溢れていて、音が身体に突き刺さって通り抜けていくかのような鮮烈さを感じる。その時私は「ああ、松尾芭蕉は、この情景を『岩にしみ入る』と表現したのだろう。たしかに、硬い石にさえ染み込んでいくような圧倒的な密度と鮮烈さを感じる蝉の声だ」と、 すこしだけ芭蕉が感じた世界に触れられたような、わかったような気分 になってうれしくなったことを覚えています。 立石寺は、山門から本堂まで、私の足ですと歩いて30分ほどかかります。石段が続いていくので少々くたびれますが、その先に見える景色、そして目の前に広がる風景は、汗を流した以上の

【ゲーム】ファイナルファンタジーXV で「釣り」にハマる。

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20年ぶりに、RPGゲームをクリアした ファイナルファンタジーXV(以下FF15)をクリアした。毎日1〜2時間くらいプレイして、だいたい一ヶ月半くらいかかったと思う。最後にRPG系のゲームをしてクリアしたのは20年ほど前だと思うので、本当に久しぶりだった。 まず最初に驚いたのは、あまりにも美麗なグラフィック。大きめのテレビ画面でプレイしていると、実際にゲームの世界に入り込んでいるかのような没入感とリアリティがあった。車に乗って移動する時に見える景色は、以前旅をした時に見た風景を思い出させてくれたし、オルティシエでは昼も夜も無駄にゴンドラで移動して、ちょっとした観光気分を味わったりもした。 私が子供のころに遊んでいたゲーム(いわゆるファミコン世代である)はドット絵で、それでも満足して楽しんでいたけれど、これからの世代は「最初からこのレベルのクオリティ」なわけだ。実にうらやましい。 「釣り」にハマる。 とりわけ、私が個人的に「ハマった」のが 釣りのサブクエスト だった。FF15ではメインストーリーの他にサブクエストが用意されているのだが、その中のひとつに「釣り」があって、それに夢中になってしまった。もしかすると、 総プレイ時間の3分の1くらいは釣りをしていた かもしれない。 最初のクエストを達成すると「次は、こいつを釣ってみろ」というような指示が出る。それを釣ると「次はこいつだ」とか「ヌシがいるらしいぜ」などと、さらに大物を釣るクエストにつながっていく。大物を釣るには通常のタックルだとパワー不足なので、新しいタックルやルアーを手にいれなければいけない。そうやって、 ようやく手に入れたタックルを持って釣り場に立つ瞬間 は、実際に釣りに行く時の気分のようで 「釣り 釣り! 」とわくわくした気分になる。 釣りのフィールドも、海・川・野池などと、いくつか種類があって、その場所によって釣れる魚も違う。車で移動して、キャンプして、朝一で釣りに行って、とメインのストーリー進行はそっちのけで「あと一回!」と思いながらも、あと数回ルアーを投げてしまう。最終クエストの「ラスボス」を釣り上げた時は「ああこれで終わってしまった。これで、オレのFF15は終わりだ。もうこのゲームは最後までやらなくてもいいかな」と思ったくらいである。 思い出は、思い出のままで そういえば、 初代プレイステーショ

【絵本】はじめてのキャンプ 林明子 をよむ

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今週の【佐藤ゼミ】は 「はじめてのキャンプ(林明子)」 を紹介します。  ちいさな女の子「なほちゃん」が、はじめてのキャンプに参加して成長していく様子を描いた物語。読んでいると、忘れていた「こどものころの記憶」が蘇ってきて、ほのぼのとした心地よい気持ちになってきます。  夏休みにキャンプを計画している人も、これからキャンプに挑戦したい人も、今までのキャンプの思い出にひたりたい人にもおすすめの一冊です。 【佐藤ゼミ】はじめてのキャンプ(林明子)を読む ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【宮沢賢治】注文の多い料理店 を読む。(あらすじ解説)

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「注文の多い料理店」あらすじ 今回は「宮沢賢治 注文の多い料理店」を紹介します。それではまず最初に、この作品の「あらすじ」を解説しましょう。 主人公は「二人の若い紳士」です。二人は「ぴかぴかする鉄砲」をかついで、趣味の狩猟に山に入ったのですが、その日は成果が上がらず道にも迷ってしまいます。案内人ともはぐれてしまい、風も強くなってきて連れてきた犬も死んでしまいます。ほとほと困っていたところ、突然二人の目の前に「西洋料理店 山猫軒」いう札がかかげられたレストランが見えてきます。 これはちょうどいい、と大喜びでそのレストランに入る二人。その店は不思議な構造で、次々に扉を開けながら先に進んでいかなければいけません。そしてその扉には、 「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落してください。」 「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。 」 などと、二人に対する指示が書かれています。二人は「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、たびたび来るんだ。」と考え、指示に従いながら店の奥に進んでいきます。すると、 「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」 「どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」 書かれている内容が不可解なものに変わっていきます。そこでようやく二人は「これは料理を食べさせてくれる店ではなく、自分たちが食材になって食べられる店なのだ」ということに気がつき、探しにきた案内人に救われて命からがら逃げ出して行く。このような話です。 注文の多い料理店は「ユーモラス」な話? 私は、はじめてこの作品を読んだ時、不思議でユーモラスな「おもしろい話」だと感じました。自分たちが食べられる準備をしているのに「ここの主人はじつに用意周到だね。」と、勘違いをしながら先に進んでいく二人の様子が滑稽で、でも「食べられなくてよかったね」とハッピーエンドの物語だと思っていたのです。 ところが、宮沢賢治自身が書いた 「注文の多い料理店 新刊案内」 には、この作品についてこのように解説されています。 注文の多い料理店 二人の青年紳士が猟に出て路を迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。

はじめてのキャンプは、【秘密】の気配がした。

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夏の暑い陽射しが降り注いで「夏休み」の気配が近づいてくると、遠くへ出かけたくなります。テントを車に積んで、まだ行ったことのない場所へ。すこしでも遠くの山の中へ。 そんな私の【キャンプ体験】について、noteにエッセイを買いてみました。書き進めているうちに、私のキャンプへの思いは、すべてあの時から始まっていて、そして今も続いていることを再確認しました。 小学4年生の時の「僕」が、キャンプで感じたこと。お時間のある時に、ごらんください。 ☀ はじめてのキャンプは、【秘密】の気配がした。 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter 【関連】 キャンプ日記の記事 一覧 ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【文学】臆病でなくして、文明人としての勇気だと思うよ。(マスク 菊池寛より)

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菊池寛「マスク」を読む 今回は「菊池寛 マスク」を紹介します。 まず、この作品の時代背景を説明しましょう。作品が発表されたのは1920年。この頃の日本は 「スペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)」 が流行していました。資料によると「日本では38万人が亡くなった」という記録からも、非常に深刻な感染症だったことがわかります。 「マスク」は、この頃の東京の様子が書かれた作品です。主人公は「菊池寛」自身と考えていいでしょう。つまり、彼が体験し考察したことが書かれた自伝的な作品であると考えてよいと思います。 主人公は肥満体質で、いわゆる生活習慣病を抱えています。胃腸の調子が悪くて医者に診察してもらった時に、太りすぎて心臓に負担がかかっていること。このままだと心臓疾患で急死する可能性もあること。そして、 「チフスや流行性感冒に罹つて、四十度位の熱が三四日も続けばもう助かりつこはありませんね」 と指摘されてしまいます。これに脅えきってしまった主人公は、最善の感染予防策をとることを決意し実行します。外出や人との接触を避け、やむなく外出する時はマスクをつけうがいをする。友人や妻は、そんな主人公の臆病な様子を見て笑います。自分自身も神経衰弱に罹っているかもしれない、と自覚しつつも恐怖には勝てずに予防を続けます。 マスクを掛け続ける主人公 三月になり暖かくなってくることにともない、感染の脅威が衰えていきます。マスクを掛けている人も殆どいなくなります。しかし主人公はマスクをはずしません。 病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人としての勇気だよ。誰も、もうマスクを掛けて居ないときに、マスクを掛けて居るのは変なものだよ。が、それは臆病でなくして、文明人としての勇気だと思うよ。 このように弁解しつつ、マスクを掛け続けます。そして、外出している時に、自分と同じようにマスクを掛けている人を見ると「 自分は、非常に頼もしい気がした。ある種の同志であり、知己であるやうな気がした」 と感じ、自分だけがマスクを掛けているという照れ臭さから逃れつつ「自分は真の意味での衛生家である、文明人である」と誇りを抱いたりします。 マスクを外した主人公の前に、あらわれた青年 しかし、五月になり初夏の太陽に照らされる季節になると、さすがにマスクを付けることが不愉快になってきます。もうこの

【夏目漱石 こころ】「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」

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今回は「夏目漱石 こころ」の一場面を紹介します。「私」と「先生」は二人で散歩にでかけます。あてもなく歩き回ったあと、日がくれたのでそろそろ帰ろうということになります。その時に二人で会話をする場面です。 門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。 「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」 「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」 「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」  先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。 「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」  私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。 「そら見たまえ」 「何をですか」 「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」  待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。 (夏目漱石 こころ)より 語り手の「私」は「先生」に「人間は誰でもいざという間際に悪人になる」という言葉の意味について質問します。ところが先生の返事は「私」が期待したものではなく「平凡すぎてつまらなく」感じられる内容でした。「私」は拍子抜けした態度を隠そうともせずに歩き出す。その様子を見た「先生」が 「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」 とこころというものは、今のあなたのようにすぐに変わるものなんだよ、指摘する場面です。 人間の「こころ」は、すぐに変わる。 それまでずっと貫いてきたこと、大切にしてきたことでも、すぐに変わってしまう。「金」や「ことば」など普段は「そんなもの」と考えているようなことがきっかけで変わってしまう。「私」の態度を指摘しながら「先生」は語りかけます。 「私」は、この日「先生」が口にした言葉の背後にある「意味」を理解することができません。 両者には「さびしいすれ違い」が起きています。 「私」は「先生」が亡くなってしまってか