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「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」銀河鉄道の夜(宮沢賢治)より

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今回は「銀河鉄道の夜」の一場面を紹介してみたいと思います。列車の中でジョバンニとカンパネルラが2人で会話をしている場面です。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。 「僕たちしっかりやろうねえ。」(九、ジョバンニの切符より) ジョバンニは、みんなの幸せのためになら、なんだってやる、とカンパネルラに話します。それを聞いてうなずくカンパネルラ。でもジョバンニには「 ほんとうのさいわい」とは、何なんだろう、と疑問が浮かんでくる んですね。 「ほんとうのさいわい」について考えを巡らせていく、ジョバンニとカンパネルラ。そしてこれからも一緒に進んでいこう、と約束をする2人。 2人の気持ちがつながっている様子 が表現されている、静かで美しい場面の1つだと思います。 「ほんとうのさいわい」とは何だろう? ジョバンニは「ほんとうのさいわい」と問いかけ、カンパネルラは「わからない」と答える。確かに私たちも 「ほんとうのさいわい」と質問されると、答えられない自分 に気がつきます。 私たちは「幸せになりたい」と思って生活していますよね。もっと自分らしく生きたいとか、恋人が欲しいとか、働きやすい仕事を探したいとか、様々なことを思い浮かべながら「これが実現すれば、幸せになれる」と考え、そこに向かって進んでいこうとします。 ところが実際に「それ」が実現したとしても、 今度は別の新しい悩みが生まれてくる ものです。たとえば恋人ができたとしても、一緒に時間を過ごしてみると価値観の異なる部分が目についてイライラする。自分の考えは理解してもらえているのか? 別のことを考えているのではないか? もしかして浮気をしているのではないか? などと相手が理解できなくて悩む。口論になる時もある。 すべての人にとって「ほんとうのさいわい」とは何なのだろう?  そのようなことは考えたこともないし、あらためて考えてみても答えらしきものはない。なんと

【思い出】私の子供時代の記憶には「釣りキチ三平」の姿があった。

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小学生の時の話。自宅に「釣りキチ三平」というマンガ本があった。父親が買ってきたものだった。それは他の漫画本とは「どこか違った」気配が感じられた。リアルでスピード感があって、ぐいぐい引き込まれていく感じ。私はすっかり夢中になった。 三平のようにまっすぐに、一平じいさんのように、やさしく深く。魚紳さんのように、賢く自由に。 そしていつの日か自分も三平のように、色々な場所で様々な魚を釣ってみたい。そんな憧れを持ちながら、美しい風景が広がるページを何度も繰り返し読んでいた。小学生の私は「釣りキチ三平」の登場人物に「理想の姿」を重ねていたのかもしれない。 私は少しずつ釣り道具を手に入れ、自転車に乗って釣りへでかけた。車の免許を取ってからは、トランクに釣り道具を詰め込み、地図を片手に「あたらしい場所」を求めて走りまわった。勢い余って、船舶の免許も取った。水を見れば覗き込まずにはいられないし、そこに魚が泳いでる姿を見つけたならば、糸を垂れたくて仕方がなかった。 そして実際に竿に仕掛けを組んで水の中に放り込む時、頭の中にはいつも「釣りキチ三平」のシーンが思い浮かんでいたように思う。マンガと現実の様子を重ね、釣りを楽しんでいたように思う。 2020年11月。作者の矢口先生の訃報を知った。子供時代から続いていた「ひとつの時代」が終わりを告げたように感じた。10代の頃に出会ったことが、人生の重要な価値観のひとつになる、というような文章をどこかで目にしたような記憶がある。確かにそうだと思う。もしも「釣りキチ三平」に出会わなかったのならば、私は釣りをすることはなかったかもしれない。釣竿を抱えて、遠くの場所へ旅をすることもなかっただろう。 これからも私は、ときおり「釣りキチ三平」を読み返すと思う。そしてその度に、あのころの自分を思い出すのだと思う。矢口先生ありがとうございました。

「百年待っていて下さい」夏目漱石【夢十夜】より

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「百年待っていて下さい」夏目漱石【夢十夜】 今回紹介するのは、 夏目漱石の夢十夜【第一夜】 です。以下、物語の結末に触れる部分がありますのでご注意ください。よろしいでしょうか? それでは始めていきます。 【第一夜】には男女二人が登場します。女性は亡くなる直前に、男性にこのような約束をします。   「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(夏目漱石 夢十夜より) 女性は男性に、自分が死んだら墓を作って欲しい。そして墓の横に座って待っていて欲しい。100年経ったら会いに来るから、そう約束をして亡くなってしまいます。のこされた男性は、女性に言われた通りに墓を作りその横に座り待ち続けます。太陽が東から昇り西に沈む。何度それを繰り返しても、100年はやってこない。やがて男性は 「自分は騙されたのではないだろうか」 と思い始めます。 すると女性の墓から、青い茎が伸び、その先に真っ白な百合の花が開きます。その百合に触れた男性は 「百年はもう来ていたんだな」 (同) とすでに百年が過ぎ、約束の時になっていたことに気がつく。【第一夜】は、このような話です。  夢か? 幻想か? 物語なのか? 夏目漱石の作品というと、現実的でシリアスな内容だと感じている方が多いのではと思います。しかしこの「夢十夜」という作品は、夢なのか? 幻想なのか? それとも物語なのか? と、とても不可思議な世界が描かれています。 亡くなった女性が100年経ったら会いにくる、と約束をする。男性は墓の横に座って、その時を待ち続ける。百合の花が咲きそれに触れた時、100年はもう来ていたことに気がつく。ロマンティックな話だと感じる方もいらっしゃるでしょうし、なにか背筋がぞくぞくするようなものを、感じる人もいるかもしれません。読み手によって、物語の印象が大きく変化していく作品だと思います。 夏目漱石の「深層心理」を覗き込むように 夢十夜は「夢」という形式を使って描かれた作品です。実際に夏目漱石が見た夢をそのまま書いているのか、それとも「夢物語」という形式を使った創作なのか。その辺は、はっきりとしていません。 ただ「夢」という形式をとることによって、 不可思議で現実離れしたような展開でも、違和感なく頭の中に染み込んでくる と、私は感じています。作品の

「悔いのない人生だった」ある社長の言葉

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訃報が届いた。ずっとお世話になっていた社長が亡くなってしまった。もうかれこれ10年以上のお付き合いだった。  初めてコピーを書かせていただいた時のことを、今でも覚えている。公式ウェブサイトに掲載するコーポレートスローガンの制作だった。 出来上がったコピーを資料にまとめて、メールに添付して送信した。30分もしないうちに電話が鳴った。あまりにも早く連絡が来たので「このコピーは気に入らなかったのかな・・・」と思った。 「どうでしたか?」と、恐る恐る私は聞いた。 「感動しました!」 社長の生き生きとした声が、受話器の向こうから聞こえてきた。「感動しました。佐藤さんの文章は、なんというか普通の言葉なんだけれども、何かどこか違いますよね」「佐藤さんのことを信頼していたけれども、お願いして本当に良かった。いや、ほんとうに感動しました!」と、弾んだ声で楽しそうに話してくださった。 ストレートに「感動した!」といわれたのは初めてだったし、私が考えていたことを汲み取って理解してくださったことがうれしかった。そして「この社長とならば、一緒にがんばれそうだ」と感じたものだった。  それが始まりで、公式サイトのブランディングを10年以上も担当させていただいた。私が提案した事は「いいですね。面白いですね」と取り入れ実践してくださった。細かな修正点以外はそのまま採用していただけるので、新しいアイデアなどを盛り込みながら、やりがいのある仕事ができた。 取引先の幅が広がったとか、テレビの取材が決まったとか、折々に報告をいただくたびに、本当に自分のことのように嬉しかったことを覚えている。 「佐藤さんにお願いすることで、仕事の幅が広がったんですよ」 本当は、私がお手伝いしたことなんて些細なことなのだけれども、そんな風に気遣いをして下さる人だった。  ご家族から連絡をいただいた時「社長は、どのようなことをおっしゃってましたか」と質問をした。すると 「 悔いのない人生だった」  と口にされていたそうだ。「やりたいことをやったから、悔いはないんだ」この言葉の中に、社長の価値観や生き方があらわれていると思った。 ちょうど1年前に、公式サイトのリニューアルを行ったばかりだったので、まだまだ現役で頑張っていこうとされていたのだと思う。そして実際に、現場に復帰する準備を進めていたのではないかと想像する。それでも

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」風姿花伝より

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「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず(風姿花伝)」 こちらは風姿花伝の中にある一文です。 「秘密にするならば花となり人を魅了する。秘密にせずに公開してしまうと、花ではなくなる」 このような解釈になるかと思います。 私が初めてこの一文を目にしたのは、高校生の時だったと思います。古文の資料の中にあったと思うのですが、初めてこの一文を見た時は「なるほどそうか」と。秘密は公開してしまうと力が失われていくものなのだ。一子相伝というけれど、やすやすと公開してはいけないのだな、と考えたことを覚えています。 先日、風姿花伝を読み返したところ、この一文のあとに、このような文章が続いていることに気がつきました。 しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。 (風姿花伝) 「秘事」と聞くと、とんでもなく 貴重な秘訣であり期待してしま けれども、実際には「たいしたことない」ものなのである。だからこそ 「秘密にしておく」ことそのものに意味があるのだ。 そのように解釈できると思います。 成功者しか知らない『秘密』があるのでは? 確かに、これは私自身にも 思い当たる体験 があります。私は「独立起業」した時、成功している経営者の人に会うたびに「うまくいく秘訣を教えてください」というようなことを質問したものです。この質問の背後に 「成功するには、その人たちしか知らない『秘密』があるのではないか」 という考えがあったからです。 ところが、私の質問に返ってくる言葉は「真面目にやること」というような 「普通のこと」 ばかりだったのですね。まさに「させることにてもなきものなり。」という感じです。当時に私は、そのような返事を耳にする度に 「たしかに、真面目が大切なことはわかる、でも本当の秘密は別にあるに違いないし、簡単に教えてはもらえないのだろう」 と感じていたものです。 しかし、実際のところ「真面目にやること」こそが「秘訣」であり本質なのです。経営者のみなさんは「秘訣を隠していた」わけではないのです。なので「 たいしたことないな」と思われるくらいならば、秘密にしておいた方がいい。そして、本当に理解できる人や、ここぞというタイミングに伝えた方がいい。 まさに、風姿花伝に書かれていたことを、実感したのでした。 そじて実際に、これから私が起業する若手のみなさんに質問されたとしても「真面目

間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。【走れメロス 太宰治より】

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「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。(走れメロス 太宰治より)」 太宰治「走れメロス」の一場面。 主人公メロスは、王様とセリヌンティウスとの約束を守るために町に帰ろうとしています。しかし残り時間がわずかで、間に合わないかもしれない。そこで「もう間に合わないから、走るのを止めてほしい。せめて自分の命だけでも大切にしてほしい」と訴えかけてきた、セリヌンティウスの弟子に向かってメロスが口にした言葉です。 次々に襲いかかってくる困難を乗り越え 「私は信頼されている。」 と自分に言い聞かせながら走り続けるメロス。本作品の見どころのひとつだと想います。 「信じるもののために」走る!? 走れメロスは、中学生の国語の教科書に収録されているので、そこで目にした方も多いかと思います。おそらく学校の授業では 「友情」「約束」「弱さを乗り越える」 というようなキーワードで、解説を受けたのではないかと思います。定期テストで「メロスの性格を表している部分を書き抜きなさい」というような問題を解いた人もいるかもしれません。 しかしながら、大人になり小賢しい知識を手に入れてしまうと「走れメロス」を、素直に読めなくなっている自分にも気がついたりします。 以前、別の記事で解説しましたが「走れメロス」は、 太宰治と檀一雄とのエピソード がモデルになっている のではないか、とされています。現実のエピソードに重ねて「メロス= 太宰」とするならば、太宰は人質になっていた友人「セリヌンティウス =檀一雄」のところへ 戻ってきませんでした。 太宰は「走らず」に将棋を指し、檀一雄も、友情を信じて待っていることはなく、太宰のところ怒って乗り込んで行きます。 実際には物語とは真逆のことが起きていた わけですね。 「現実」と「理想」の世界 おそらく「走れメロス」は、太宰治の理想の世界なのでしょう。それは現実とは正反対の世界であり「現実の自分にはできなかったこと」を表現しているのでしょう。そのようなことを考えながら読んでみると 「私は信頼されている。(理想)」は「私は信頼されたい(現実)」の裏返しであり「 信じられている(理想)」は「信じられたい(現実)」なのでしょう。 そのよ

あした勝てなければ、あさって勝つ。【夏目漱石 坊っちゃんより】

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困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。(坊ちゃん 四)  こちらは、夏目漱石「坊っちゃん」の一場面です。主人公の「坊っちゃん」は、四国の中学校に数学の教師として赴任するのですが、そこで生徒からいたずらを受けるんですね。ところが生徒たちは、自分たちのいたずらを認めようとしない。知らないふりをしている。その様子に腹を立てた主人公が、生徒に正面からぶつかっていく場面です。 正直が勝つ。明日勝てなければ、あさって勝つ。自分が「正直」と信じることに対して、まっすぐに進んでいく。そんな主人公の様子が感じられて応援したくなってきますし、 リズム感とスピード感のある文体 に乗せられながら、読んでいると妙に元気が出てくる。個人的に「坊っちゃん」の名場面のひとつだと考えています。 漱石の実体験から  「坊っちゃん」は、夏目漱石が松山で教師をしていたときの体験が反映されている、とされています。漱石にとって、松山での生活はあまり心地よいものではなかったようで、正岡子規に宛てた手紙の中でも 「貴君の生まれ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」 などと書いてもいます。  当時は学歴によって給料が決まっていたため、東京帝国大学出身の漱石は、校長先生よりも高い給料をもらっていました。江戸っ子の漱石と地元の人達との間には、すこし距離ができてしまったのかもしれません。くわしいことはわかりませんが、どこか漱石の考える「正直さ」と少しだけ違った「何か」があったのかもしれません。そのように、 慣れない土地で生活をしている若き「漱石先生」の様子を想像しながら読む のも、また違った発見があるかもしれません。 「坊っちゃん」は勝てたのか? 作品の中には、赤シャツ、野だいこ、など「正直さ」から外れたような人物が登場します。そして「正直さ」を持った人たちが、辛い立場に追いやられていきます。その様子を見た主人公は、彼らと正面から対立していくことになります 。はたして「坊っちゃん」は勝てたのか?   正直さを貫いた先には、どのような場面が待っているのか? その結末は、ぜひ作品を読んで確かめてみてください。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆