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【読書体験】私の「冒険心」は「宝島」で、つくられている。

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【 佐藤ゼミ 】では、ずっと日本文学作品を紹介してきたので、私(佐藤)は日本文学ばかり読んでいる人という印象があるかもしれない。いや、実は(と、わざわざ強調するほどのことでもないのだが)子供の頃の私は海外文学を読んでいた。日本文学作品を意識して読むようになったのは、中学生になってから。つまり 私の「読書体験」の出発点は、海外文学だった というわけです。 今回は、私が子供の頃に読んでいた作品の中から「宝島(ロバート・ルイス・スティーヴンソン著)」を紹介してみたいと思います。 【佐藤ゼミ】私の「冒険心」は「宝島」で、つくられている。 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

文学作品を、もっと楽しむ方法【夏目漱石 三四郎編】

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夏目漱石の作品は明治から大正に書かれています。文学作品は「その作品が書かれた時代」を背景に執筆されていますから「当時の時代背景を踏まえて読む」ことで、作品のもつ「おもしろさ」を見つけることができると思うのです。 たとえば、夏目漱石の「三四郎」には、このような場面があります。 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。 (夏目漱石 三四郎) こちらは、主人公の三四郎が熊本から上京する電車の中で相席になった男と、会話をする場面です。「男」は三四郎に対して「あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。(同)」と、日本が自慢できるのは富士山くらいだ。日本は発展するどころか滅びるだろう、といった発言をします。 現代を生きる私たちがこの一節を読んだとしても、そこまで強い印象は受けないかもしれません。「滅びるね」のような露悪的な発言や、軽口を叩く人って時々いるよね、といった程度で流してしまうかもしれません。 日本が見落としているもの。これから、見落としてしまうもの。 この作品が書かれた明治という時代を考えてみましょう。欧米諸国の制度や文化にならい「近代国家」を目指して急速に変化をしていた激動の時代。作品の中に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。(同)」と書かれているように、現代の私たちが想像している以上の速さで近代化が進んでいたことが想像できます。そして、1904年(明治37年)には日露戦争がありました。 このような時代背景の中、三四郎は1908年(明治41年)に朝日新聞に連載されます。登場人物が口にする「滅びるね」という台詞の印象が変化したのではないでしょうか? 作者の夏目漱石は『日本が見落としているもの』を見抜き、作品の中で批評していたことが感じられます。 時代を越えた、俯瞰的な文明批評 三四郎は青春小説であり、男女の恋愛についてかかれた物語です。しかし、その背後にある作者の文明批評の視点に目を向けると、時代を越えた俯瞰的な批評が存在することに気がつきます。漱石は現代の私たちが直面している問題を、

【文豪エピソード】志賀直哉が夏目漱石と面会した時のことを、芥川龍之介が書く。

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志賀直哉が、はじめて夏目漱石と面会した時の様子を「芥川龍之介」が書いた作品があります。文豪と文豪の面会の様子を文豪が書く。かなり豪華なラインナップですね。それでは、さっそく紹介してみたいと思います。 先輩の志賀直哉君がある日先生をはじめて訪ねまして、例の書齋に通された。先生は机の側の座布團に嚴然と座り、さあ何處からでもやつて來いと言はぬ許りに構へ、禪坊主が座禪の時のやうに落着いてゐるので志賀君どこへもとりつく島がなく默然と先生の前に控へたが、膝頭がガタガタとふるへ出して益々心細くなつて來た頃一匹の蠅が飛んで來て先生の鼻の横つちよに留まつた。先生はその蠅を追ふために手をあげたら、志賀君も救はれたのですが、先生は嚴然としたまゝ頭を横に一つ強くふつてその蠅を追つた……ので志賀君はいよいよ困つてしまつたといふ話がありますが其時の志賀君の震ひ方がよ程強かつたものと見え、志賀君が歸つた後で先生の奥さんが先生に『あの方は心臟病か何かでせう』と言つたといふことです。 (芥川龍之介「志賀君と先生」より) 志賀直哉も夏目漱石と面会するとなると、かなり緊張していたようです。しかし漱石先生は、僧侶が坐禅をしている時のように落ち着いて座布団の上に座っている。あまりの緊張感に膝が震えるほどに緊張する志賀直哉。漱石先生の前に出るだけでも緊張するのにこの状況では、確かに膝も震えてしまうでしょう。私などは意識が遠のいて真っ白になるか、逆に取り乱して突拍子もない発言や行動をしてしまうかもしれません。 そんな時、ちょうどいいタイミングで漱石の鼻に蝿が。これは絶好のネタになりそう。これをきっかけに会話が生まれるか、と思いきや蝿を手で払うどころか、顔を横に振っただけで澄ましている漱石先生。まったく状況が変化せず、志賀直哉は困ってしまった、というエピソードです。 そして、このエピソードを書いた芥川龍之介。芥川は自分が初めて漱石を訪問した時のことを思い出しつつ、ニヤニヤしながら作品を仕上げたのではないでしょうか。二人の文豪の様子を、もう一人の文豪がニヤニヤしながら原稿用紙に書いていく。その状況を想像すると(志賀直哉には申し訳ありませんが)どこかほのぼのとした気分になってくるような気がします。 ちなみに漱石は、まだ新進作家だった志賀直哉を高く評価していて、朝日新聞の連載小説に抜擢しています(残念ながら、こ

【太宰治】君に今、一ばん欠けているものは、学問でもなければお金でもない。

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今回は「風の便り 太宰治」を紹介します。 この作品は、38歳の「売れない作家 =木戸一郎」と、50歳を越えた「ベテラン作家 = 井原退蔵」との往復書簡という形で構成されています。 木戸は 「二十年間、一日もあなたの事を忘れず、あなたの文章は一つも余さず読んで、いつもあなた一人を目標にして努力してまいりました(風の便りより)」 と、長年にわたる井原の愛読者です。そして自分も作家になったわけですが、なかなか実を結ばずに苦労している。そんなおりに 「一夜の興奮から、とうとう手紙を差し上げ(同)」 井原に手紙を書いたところ返事がきて、それから手紙のやり取りが始まっていきます。 君に、いちばん欠けているもの 木戸は現在の自分の状況を悲観し、哀れみ、仕事がうまくいかない悩みを井原に書き送ります。井原はそれに対し、感想や批評の返信をするのですが、木戸は 「まるで逆上したように遮二無二あなたに飛び附いて、叱られ、たたかれても、きゃんきゃん言ってまつわり附いて(同)」 とあるように、どこか素直になれない。いじけたような長い返事を書き送ります。 井原はそんな木戸に対して「 君はまさしく安易な逃げ路を捜してちょろちょろ走り廻っている鼬のようです。(同) 」と厳しい批評を加えながらこのような一文を書き送ります。 君に今、一ばん欠けているものは、学問でもなければお金でもない。勇気です。 二人の太宰治 この作品では「木戸と井原」という、対照的な二人の作家を通してそれぞれの人生観が語られていきます。しかし私は、この二人とも「太宰治自身」であるように感じられます。 「卑屈に拗ねて安易に絶望と虚無を口にして、ひたすら魅力ある風格を衒う =木戸」 「いつでも、全身で闘っている。全身で遊んでいる。そうして、ちゃんと孤独に堪えている。 = 井原」 この両極端の人格が太宰の中に存在していて、互いに批評しあっている。客観的には井原のように振舞いたい。「君の手紙は嘘だらけだ」と切り捨て「作家は仕事をしなければならぬ。」と、淡々と作品を書いていきたい。しかし現実の自分は、木戸のように振舞ってしまう。相手に甘えているくせに「深く絶望した」と、自分から逃げてしまう。そして、どちらも自分自身だから、切り離すことはできない厄介さ。そのような様子が描かれていると感じます。 もう一人の自分と、共存できない自分 そ

【夏目漱石】夏目君が会議に出ると、何となく賑やかになった。(「朝日」の頃より)

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夏目漱石、というとどのようなイメージが浮かびますか? いつも難しそうな顔をして、会議の席などではつまらなそうに座っている。そして何も言わずに時間がくると一番最初に席を立ってしまう。好きな人とは親しく話すけれど、不特定多数の人がいる場では必要以上に交流をとろうとしない。 私は、そんなイメージを抱いて いました。 ところが実際の漱石先生は、意外にフレンドリーな雰囲気で会議に参加していたようです。今回は、漱石が朝日新聞の編集会議に参加している様子を解説した文章を紹介してみたいと思います。 その頃の夏目君は小説を書いてゐるばかりで、社へはあまり出て来なかつた。一週に一回、水曜日の編輯会議には必ず出て来たが、会議の席ではにこにこと笑ひながら人の言ふ事を聞いてゐるばかりで、自分はあまり何もいはなかった。言へば必ず思ひがけぬ警句を、すまして言ふので、その度毎に皆は笑つた。だから物数はいはぬが、夏目君が会議に出ると、何となく賑やかになった。(「朝日」の頃 杉村楚人冠より) 夏目漱石は、朝日新聞の社員でした。とはいえ毎日出社するわけではなく、作家としての契約で時々会議に出席する以外は自宅で執筆をする、いわば「在宅勤務」といった契約でした。今回紹介した文章は、漱石が朝日新聞の編集会議に参加している様子なのですが「にこにこと笑いながら人の話に耳を傾けている」「言葉数は少ないが、巧みな言葉を口にするのでそれを聞いた参加者は笑った」と、いうような様子が書かれています。 しかめっつらどころか笑顔を浮かべつつ、辛辣な言葉ではなく巧みな言葉で場を和ませる。どうやら私が想像していたものとは異なり 「知的で穏やかに、そして紳士的にふるまう」 雰囲気で会議に参加した様子が伺われます。 食事に誘うと、必ず参加する漱石先生 さらにこの文章の後に 「会議のあとに食事に誘うと必ず来てくれて、難しい話をするわけではなく世間話をしていた」 という描写も続くので、仕事の後の人付き合いも良好。どうやら、私が想像していた様子とは真逆だったようです。 もちろん「仕事」に対しては真摯にかつ忖度なく「はっきりと自分の意見を言う」ため、その様子が誤解されて伝わっていたようだ、と作者は考察しています。確かに、漱石先生は相手が どんなに偉い人でも「ダメなものはダメだ」ときっぱり評価 を下しそうです。同時に相手が新人で社会的に

【夏目漱石】創作家としての先生は晩成の人である。(松山から熊本 山本信博より)

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若手の人たちが活躍している様子を見ると、頼もしくも、またうらやましく感じるものです。そして年齢を重ねてしまった自分の姿と比較して「ああ、もうオレはだいぶ歳をとってしまった。あのように活躍することもないだろう」などと、いじけた気分になる時もあるでしょう。今回は、そんなことを考えてしまう人へ紹介したい一文があります。 創作家としての先生は晩成の人である。年少名を成し易き今日の文壇では、確に晩成の部に入る可き人である、そして此晩成が即ち先生の強味であると思ふ。修養蘊蓄に年月を費して、内容がはち切れる迄充実した所で、其蘊蓄を傾けた者が即ち先生の作物である。(松山から熊本 山本信博より) これは夏目漱石の生徒だった山本信博氏が、漱石について書いた一文です。漱石が「吾輩は猫である」を発表したのが、39歳の時。明治・大正時代の平均年齢は44歳前後ということですから「遅咲きの作家」といえるでしょう。 しかし山本氏によると 「晩成が即ち先生の強味」 ということになります。漱石の作品は、年齢を重ねて溢れるばかりに充実した知見を土台に産み出されたものである。一朝一夕につくられたものではない。だからあのような素晴らしい作品となったのだ。そのように説明していきます。 人生を100年、と考えるなら これは、私たちにも必要な視点だと考えます。私たちはとかく「若くして評価を受けたい」と望んでしまうものでしょう。20代、いやできれば10代で評価され衆目を集めたい。世の中に自分の居場所を作っていきたい。そのように願う気持ちがあると思います。 しかし「人生100年」と考えるならば、50代が折り返しになります。極端に考えてみるならば、前半の50年を知識の形成と体得することに費やし、後半の50年で「はちきれるように充実した」それを原動力に活動していくこともできそうです。なによりも「もう自分には無理だ」と、何もせずに過ごしてしまった時間。それは、10年後、20年後の自分から見れば 「どうしてあの時、もっと頑張らなかったのだろう」と情けない気分 になるでしょう。 夏目漱石は圧倒的な天才であり、あのような仕事は誰しも成し遂げられるものではありません。しかし、ささやかながら世の中に役立つことは、50年もあれば実行していけそうです。「自分は晩成だから」と焦らず修養を続け繰り返していく。自分を信じて挑戦を

【奥の細道】閑さや岩にしみ入る蝉の声(松尾芭蕉)

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先日、公園へ行ったところ周囲に蝉の声が響き渡っていました。蝉の声を聞くと「夏休み」という感じがします。そして、頭の中にこの一句が思い浮かびました。 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 こちらは、 松尾芭蕉が山形県の立石寺 で詠んだ一句です。「なんという閑かさだろう。蝉の声が岩に染み込んでいくようだ」と、立石寺の静寂な場に蝉の声だけが響き渡っている。そんな夏の情景を表現した作品です。みなさんも国語の時間に、勉強した記憶があるのではないでしょうか。 松尾芭蕉は「奥の細道」の中で立石寺を訪問した時の様子をこのように記しています。 梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。 岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉てものの音きこえず。 岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。 「奥の細道」より 簡単に現代語訳をしてみますと「麓に宿をとって、山の上にある本堂を目指して登っていく、岩を重ねてできたような山の姿。時間を感じさせる見事な木々と苔に覆われた道を登って山上に着くと、お堂の扉は閉じられていて静まりかえっている。崖のように切りたった道を這うようにして通り参拝する。そこから見える風景はすばらしく、心が澄み渡っていくのが感じられる。」このようになるかと思います。 私の「立石寺」体験 私は大学で「奥の細道」の授業があったのですが、夏休みに「せっかくだから立石寺へ行ってみよう」と電車に乗って現地へ行ったことがありました。その時に見た風景は、松尾芭蕉が表現しているそのままの世界が広がっていて驚いたことを覚えています。 山門をくぐって、800段を越える石段をあがっていく。木々に囲まれた細い山道は蝉の声に満ち溢れていて、音が身体に突き刺さって通り抜けていくかのような鮮烈さを感じる。その時私は「ああ、松尾芭蕉は、この情景を『岩にしみ入る』と表現したのだろう。たしかに、硬い石にさえ染み込んでいくような圧倒的な密度と鮮烈さを感じる蝉の声だ」と、 すこしだけ芭蕉が感じた世界に触れられたような、わかったような気分 になってうれしくなったことを覚えています。 立石寺は、山門から本堂まで、私の足ですと歩いて30分ほどかかります。石段が続いていくので少々くたびれますが、その先に見える景色、そして目の前に広がる風景は、汗を流した以上の