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蛍を見ていた時のこと。

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このブログの、タイトル画像を変更してみた。数年前なら、画像ひとつ差し替えるのも、結構めんどうだったものだけど、今では、ほぼワンクリックで変更できる。あの当時、費やしてしまった膨大な時間は、いったいなんだったのかと、思う瞬間だ。 今回の写真は、仙台市郊外で撮影してきたものだ。仙台市も、100万人都市とはいうものの、30分も郊外に向けて車を走らせれば、このような田園風景を見ることができる。もちろん、すぐ横の道を、たくさんの車がビュンビュンと、走り抜けてはいるのだけど。 自分が、まだ10代だったころ、この辺りにも「蛍」が飛んでいた。「蛍が見られるよ」と、口実をつくり、女の子をバイクの後ろに乗せて、夜遅くにやってきたものだった。 バイクのエンジンを止めて、しばらくそこで、じっとしていると、それまで息をひそめていた蛍達が、ふわーっ、という感じで、周りからゆっくりと真っ暗な闇の中を舞い始める。光を点滅させる。そばで眺めている、自分達の服の上にとまって、しばらく灯りをともしてくれるのも、いる。それは、とても気持ちがいい瞬間で、夏を思わせる、心地よい風景だった。 それからわずか数年後、道路は舗装され、交通量も各段に増えた。もちろん、この周辺で蛍を見ることもなくなった。「蛍は、綺麗な水にしか住むことができない」と、いう言葉を、子供のころ、何かの本で読んだことがあるけれど、これは本当だったんだなと、体験から学んだできごとでした。 ※追加の写真 今回の記事に掲載している写真は、一見すると「普通の雲」の写真ですが、拡大してみると、左上の方に・・・これは? ・・・いえ、飛行機です。

ついつい手が出てしまうもの。

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自分は、ふだんあまりスナック菓子のたぐいを、食べない。(ガムはひんぱんに噛む。いつも2〜3個は常備してある)なので、周りの人達からは「あの人には、お菓子を出しても食べない。こういうのが、あまり好きではないようだ」と、思われている節があるようだ。 まあ、それはそれでいいのだけど、実は、ドラックストアなどに行くと、ついつい手が出てしまう、というか、ほぼ無意識にカゴの中に放り込んでしまうものが、ある。それが「カルビー ポテトチップス」だ。 雑貨や何やら、目的の品を購入したあと、帰りの車の中で、ポテチと缶コーヒーを飲みながら移動するのが、ささやかな楽しみだったりする(笑)半分くらいで、止めておけばいいのだが、ついつい一袋を一気食いしてしまって、それが昼飯の代わりに、なったりする時もある。嗜好品が、メインの食材になるのは、良くないだろうとは思うので、注意はしているものの、ついついやってしまいそうになる。 昨日、ドラックストアで買った「バターしょうゆ」は、ものすごく美味しかった。食べ物のおいしさを、文章で伝えるのは難しいのだが「何コレ! おいしい!!」という、感じではなく「ああ、コレ、おいしいねえ〜」と、自然なペースで気がつくと、ひと袋一気に食べてしまうという「おいしさ」だった。安かったので、2袋まとめ買いしていたため、思わずその勢いで、2袋連続で食べてしまうところだった(さすがに、それは止めた)。 と、書いたところで、残念なお知らせなのだが、この「バターしょうゆ」は、地域限定だそうだ。販売地域は( 北海道・青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・新潟県)ということなので、このブログをご覧いただいている地域のみなさんの、コンビニ&ドラッグストアでは、手に入らないと思われる。なので、ETC1000円割引などを活用して、こちらの方に遊びにくる際になどに、見つけたら試していただきたい。

初秋になると、考えること。

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関東の方は、まだまだ暑いだろうし、半袖でも十分に過ごせることでしょう。でも、自分の地元仙台は、朝晩は長袖でないと、少し肌寒く感じる季節になってきた。すっかりと、初秋を思わせる空気になった。 自分は、この季節(夏から秋へと移り変わる時期)が、一年の中で、一番好きだ。部屋の窓から、そよそよと風が流れ込んできて、静かで落ち着いた空気の中で本を読んでいたりすると、何か新しいアイデアやヒントが浮かんでくるような気がする。気がするだけで、実際には何も浮かんでこないですけどね。 そして、この時期になると、なぜかいつも、予備校に通っていた時のことを思い出す。未来に対して、ばくぜんとしているけど、力強い希望があって、不安があって、仲間がいて。自習室にいくと、必ず3〜4人は友人がいて(もしくは、友人の荷物があって)遊び相手には、事欠かなかった。自分の周りの人達は、なぜかみんな親切で、思いやりがあって、にこにこと笑う人達ばかりだった。 その中に、A君(仮名)という、ものすごく努力家で、しゃれが効いている人がいて、いつ自習室に行っても、ウォークマンを聞きながら、同じ姿勢で勉強を続けている人がいた。彼が、怒っている姿を見たこともなかったし、悪口を言っているのを聞いた事も、なかった。今、考えてみると、A君のような控えめで、自己主張は少ないけれど、確実にそこに座っていてくれる人がいたからこそ、あのような仲間が保てたのかもしれないなと、この年齢になって感じることがある。 と、いうようなことが、一気に思い出されるのが、この「夏から秋へ」の時期だ。みんな、年齢をかさねて、どのような生き方をしているのか? 今となっては、全くその様子はわからないけれど、元気で自分らしく、がんばっているのだろうと思う。すくなくとも、一番「いいかげん」な人生を送っているのが、自分だろう。それを考えると、別の意味で、ちょっとせつなくなったりする(笑) ※写真は、智恵子抄でも有名な「阿武隈川」の写真。秋の、傾きかけた太陽の光が、とても心地よい午後でした。

夜読んだ言葉を、夜にまた聞く。

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就寝前に、何気なく手に取った本の中に「仲直りした友人と、温め直したスープの肉には気をつけろ」という、ことわざが掲載されていた。その時は、特に気にもせず、右から左へと流して終わりだった。 ところが、翌日の夜に、ある人と話をしていた時に(その人は、人間関係で悩んでいた)「ほら、イタリアのことわざにも『温め直したスープの肉には気をつけろ』というのが、ありましたよね。まさに、それですよ・・・」と、言ってきた。 イタリアのことわざではなく、スペインのことわざなのだが、今回注目すべき点は、そこではない。人間関係を表す多数のことわざの中から、私が「それ」を見て、彼が「それ」を口にしたという偶然に、驚いたのだ。 まさに、このブログのテーマである「ものごとに、必然はあるのか?」に、最適のできごとだった。もちろん、自分が手に取った本の中に、記載されていたことわざは「仲直りした友人〜」のみだったし、彼が同じ本を読んだということも、まず考えられない。いや、むしろ、同じ本を同時期に手に取った、という偶然があるのならば(特に、最近出版されたとか、人気の本というわけではないので)それもまた妙なり、だ。 もしかすると、このことわざの中に、何かのメッセージがあるのかもしれないし、本の方にあるのかも、はたまた、その知り合いの方にあるのかもしれない。ちょっと注意して、関連の情報を探ってみたいと思っています。 ※写真と本文は関係ありません(この前登った、山の写真です)

テストプリントを、めぐる冒険。

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自宅で写真のプリントをするようになって、自分が「色」に対して、異常な(?)までに、こだわりがあることに気がついた。 基本的に、撮影したデーターをMacに取り込んで調整(現像)を行ってから、プリンターで印刷していくのだけど、微妙な色合いの違いが、どうしても気になって、何度もテストを繰り返してしまう。 知り合いのカメラマンに相談したり、自分でも資料を読んだりしながら、少しずつ知識を増やしてはいるのだが、なかなか思う様にいかないため、せっかくの楽しい作業が、ストレスの原因になってしまうという矛盾を生んでいる。「どうせ、こんなに工夫をしても、自分の好きな色にはならないんだよな」という、斜めに構えた感じになってしまうのだ(笑) 今のところ、どうやら自分が考えているトーンは「用紙を変更」することで、実現できそうだ、という段階にまでは辿りつくことができた。とはいうものの、高価な用紙を使用するにはコスト的にも限界があるし、作品そのものが、そこまでのレベルに達していない、という根本的な問題もあり、なかなか進展はしていないのだが、どうやらこの辺りに、今の段階での解答がありそうな感じはしている。先が見えてきたら、あとは進むだけだ。 プロと呼ばれる人達ならば、この辺りの調整をスムーズに行い、発注先にも適切な指示が出せるのだろう。その辺が、プロとアマチュアの差なのだろう。とりあえず、限られた条件の中で、どこまで自分のイメージの中に近づけるのか? 微かな違いを求めて、無数の組み合わせを考えつつ、余暇の時間を惜しみなく注ぎ込みながら、アマチュアフォトグラファーの、トーンを巡る旅は続くわけですね。

山と美人の微妙なる関係。

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週末は、山登りへ行ってきた。山登り、というと結構かっこいい響きだけど、実際は「何度か登った里山」なので、山歩き、と言った方が正確かもしれない。 先日の、磐梯山で再発してしまった、クセになっている、ひざ痛の様子を確認するために登ってみたのだが、わずか、往復2時間程度の登山だったのに、結構な痛みにやられてしまった。こいつは、やはり、中途半端な治療ではなく、根本的な見直しが必要なようだ。完治するまで、平地でじっとしていればいいのだが、天気がよかったり、具合がいいと、すぐに飛び出してしまうこの性格も、直さなければいけないだろう。 山歩きの方は、天気も良く、海の方まで綺麗に見える、絶好の登山日和だった。近くの湖もはっきりと見えて、日本の秋、という雰囲気が満載だった。 登っている途中、立ち止まって写真を撮影している時に、下山してくる女性とすれ違った。めったに、人がいない山なので、すれ違うだけでも珍しいのだけど、「ついさっきまで、街でお買い物をしていました」というような、かなりの軽装だったので、ものすごく違和感があった。連れがいるようでもなく、一人で淡々と下山して行ったので「何か、よほど、この山に登らなければならない理由でも、あったのだろうか?」などと、一瞬余計な考えが思い浮かんでは消えた。 そんなすれ違いのあと、下山途中のご夫婦のカメラのシャッターを押してあげて、サンサンと降り注ぐ太陽の下で、水を飲んで帰ってきた。ひざは痛むし、汗もかいたが、脳の中にはアドレナリンが満載だったので、車の窓を全開にして鼻歌を(頭の中で)歌いながら快適な気分で家に着いた。車を洗って、ブーツの泥を落として、ひと息つきながら「次はどこの山に登ろうか?」などと、ぼんやり考えました。

ビールを飲む(夢の中で)

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また夢(寝ている時の)話し。最近、意識しているわけではないのだけど、夢がはっきりと記憶に残る。はっ! と目が覚めて「ああ、まだ朝の4時か・・・」のような、感じになったりする。とてもリアルな夢が続くので、目が覚めてからも、現実の中に夢の感触が残っていて、違和感を覚えてしまうくらいだ。 さて、肝心の夢の内容なのだが、今回は「ビールを一缶、一気飲みして、缶を握りしめる」という、ものだった。ビールののどごしや、苦み、缶を手に持った時の感触などが、とてもリアルで、目が覚めた時も(この時も、夢を見たあとに、すぐに目が覚めた)生々しく、覚えていた。(その前後にも、若干エピソードはあったのだが、省略) 「夢は、昼間の記憶を脳の中で再構築している時の映像」と、いう情報を、以前、本で読んだことがあった。すると、普段自分は、ビールをほとんど飲まないので、少し前の記憶を蘇らせて、再構築したということになるのだろうか。 どちらにせよ「ビールを飲む」という行為の記憶は、脳の中に、様々な情報(五感)として、かなり鮮明に残っているのだな、と思ったわけです。ここまで鮮明ならば、脳の中の情報を何らかの刺激を与えて復活させ「あたかもビールを飲んでいるような」体験をさせるのも、未来には可能になっているのではないか、と考えたりする。と、いうよりも、実現していそうですね。モチベーションを上げる時は、その人の成功体験を再生させて、活性化させる、とか、普通に活用できそうな気がする。でも、本当にそうなったら、夢(この場合は、過去の記憶)にばかり逃避して、抜け出せなくなる人も、出てきそうです。「あの時の栄光を、もう一度! もう一度! もういちど!!」と、いった感じで(笑)