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evernoto 3年目に突入。

今や、自分にとって不可欠のwebサービス(iphoneアプリ)となったevernote。 アカウントを登録したのが、2010年3月3日。 現在のノート数が1176。 つまり平均して、1日あたり1〜2ページほどノートを作ってきたことになる。 1000ページものノートを、すべて読み返すとなると1ページあたり1分程度で流し読みするとしても、1000分(16〜17時間以上)かかる計算になる。さすがに全部を読み返すことは、もうないと思うし、検索してピックアップしたノートだけを活用するとしても、読まないノートの方が圧倒的に多いことになる。 そう考えると、よくよく考えてみると、こんなにノートを作成しても、活用しないデータが残るばかりで、ムダなのではないか? と自分でも思ったりすることもあるわけだが、棚に並べてあるCDだって、すべてのCDを聞き返すとなると、1枚あたり50分としても100枚で83時間ほど必要になるわけだし、映画のDVDとなると1枚あたり2時間だから100枚で200時間になるわけで、書籍にしても、一冊2時間としても100冊で100時間になって、それぞれ、さらに増え続けているわけで、こうやって2度と活用される可能性の少ない情報を積み重ねながら、僕たちは暮らして行くのだなと思う訳です。 それでもやはり「あ、そういえば、あれはどうだったかな?」と無性に読み返したり、聞き返したくなる時がくるわけで、これはこれで仕方がないのだろうと、山積みになったそれらを眺めながら(evernoteは山積みにはなりませんけどね)言い訳をしてみたりする訳です。 ところで、自分にとってのevernoteの魅力は「とにかくなんでも」記録できることで、クリックすれば一瞬で記録してくれるところなのだけど、どうやらページ数には上限があるらしい。web上に出ている情報を見ると10万ノートということになっている。10万ノートということは、自分の今のペースで使い続けたとすると50年以上は軽々と上限に達しないことになるし、その時期には自分もこの世界に存在するかどうかすら危ういので、実際のところは「上限は気にせずともOK」ということになるかと思う。 と、ここまで考えてみて、50年後の世界とか自分などを想像してみて、ちょっと恐ろしいような、わくわくするような、そんな気分になりました。

深夜の連続ツイート:不可思議な力

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言葉には「不可思議な力」のようなものがあって、心の底から「あの人に、伝わってほしい」と願って書いた言葉は、何らかの形で相手のところに届くような気がしています。時間とか空間とか、そのようなものを越えて、不思議と届く(どこかで読んでもらえる)ような気がします。 (つづき)だから、とにかく頭の中だけで考えて終わりにするのではなく、外に向かって表現してみる。どこかに何らかの形で書いておくことが、大切なのではないかと思うのです。そうすると、言葉が一人で歩いたり泳いだりして、相手のところへ向かっていく。かもしれない。 (つづき)なぜ、こんなセンチメンタル(?)なことを書いているかというと、今日はずっとロジカルな文章を読んだり書いたりしてきたから、その反動であるかと思われます。午前3時という時間帯も、多いに影響していると思われます。深夜にラブレターを書いてはいけない、ということです。 (つづき)これで深夜の連続ツイートおわり。結局、何が言いたかったかというと、とにかく何かを書いてみたのなら、いいことあるかもよ、ということです。もしかしたら、その言葉がきっかけで、少しだけ世界が平和になるかもしれない。誰かがニヤリとしてくれるかもしれない。と、いうことです。

Siriに日本語で話しかけてみる。

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Siriを起動して、まず最初に自分の名前を登録してみた。すると「◯◯さんですね。いい響きですね」と返答が返ってきた。・・・なんだろう、この胸のあたりがモヤモヤする感覚は(笑) Siriの返答が面白かったので「おもしろい」と言ってみた。すると「ウフフ」という笑い声と一緒に顔文字が返ってきた。…なんだろう、このモヤモヤ感は(笑) Siriに「寒い」と言ったら「寒くはなさそうです」とデータ付きで、冷静に反論された。なんだろう、このモヤモヤ感は(笑)

深夜の連続ツイート:「忘れるように」できている。

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3月11日の震災の時、自宅に電気が通ったのは3月19日の午後4時だった。なぜ、そんなことを正確に言えるのかというと、手帳にメモをとっておいたからだ。今、あらためてその手帳を見返してみると、ほんの1年前のできごとだというのに、多くのことを忘れてしまっていることに気がつく。 人間の脳は「忘れるように」できている、と聞いたことがあるけれど、本当にそうだと思う。手帳に書き留めておいてよかったと思う。ちなみに停電の夜の間、本当の暗闇の中で、僕は黙々と本を読んでいる。ハンドルをぐるぐる回すと充電できる懐中電灯を使い、毛布にくるまり本を読んでいる。 1分くらい回して1分くらい読んで、それを10分くらい繰り返し、少し休んでまたグルグル。そんな事を生真面目に続けている。他の時間には、街の電気がついていなくて星が綺麗だったので、床に横になって空を見ている。これだけ星が見えれば、流れ星も見えるだろうと、わりと粘っている。 もしも今、1年前の自分にメッセージを伝えることができるのなら「色々あるけど、今でもなんとか元気だよ」と教えてやりたい。また同じ規模の地震がくるかもしれないからと不安で眠れない人たちに、大丈夫。パジャマに着替えて、あたたかくして、ぐっすり休んでくださいと言ってあげたい。 現在、3月1日(木)午前2時15分。これで、深夜の連続ツイートおわり。希望の光は探すのではなく、与えられるのでもなく、自分たちの手で灯すのだ。次の世代のために「この場所」で、灯し続けるのだ。今自分は、そんなことを考えています。

深夜の連続ツイート「思考のかたまり」

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只今深夜2時10分。このくらいの時間に、周りに誰もいない静まり返った部屋でヘッドフォンで音楽を聴きながら一人作業をしていると、ふっとした瞬間に「あちらの世界」に意識が飛んでいくような感覚になる。自分の頭の先から思考のかたまりのようなものが飛び出していくような感覚になる。 はっ、と気がついて、テーブルの上のコーヒーを飲んで「あぶない、あぶない」と誰に聞かせるわけでもなくつぶやいてから(別に、特に、あぶなくもなんともないのですけどね)妙に胸騒ぎというかドキドキしたりしたり、周りを見たり背伸びをしてみたりする。そして、時間だけが静かに過ぎていく訳です。

Zerthis Was a Shivering Human Ima

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Eluvium の Lambent Materialを、ここ最近ずっと聴いている。正確に言うと、このアルバムの「 Zerthis Was a Shivering Human Ima」という曲を、繰り返し聴いている。初めて聴いた瞬間に「これは!?」と思い、聴き直してみて「やはり!」と感じ、それ以来ずっと繰り返し聴くヘビーローテーションの曲となった。 すでに聴いたことがある方は、ご存知だと思うけれど、この曲は最初から最後まで、延々とノイズ(ちなみに、ホワイトノイズではなく、ピンクノイズの方がイメージに近いと思う)が流れているという「ノイズ好き(?)」には、たまらない曲である。そもそも、ノイズというものは騒音というか、不必要な音に対して与えられる呼称なわけである。ところが自分の場合は、そのノイズがたっぷりと詰まっている曲を聴くと、わくわくしたりふわふわしたりする訳である。ずっと聴いていたいと思う訳である。ガー、とか、ピー、とか鳴っていると「もっとデカイ音で、浴びるように聴きたい」と思うわけである。 もちろん、ノイズであれば何でもいいという訳ではなくて、作品としてしかるべきコンセプトで、しかるべくして制作されたノイズが好きなわけで、街中で聞こえるノイズはさすがにちょっとな訳だけれども、それにしてもノイズに魅力を感じるというのは、時として、我ながらどんなものかと思ったりもするわけである。ヘッドフォンをして、目を閉じて大きめの音でガー、と聴いていると癒されたりするのも、もしかしたらどうなのかと思ったりもするわけである。 ものすごくおぼろげな記憶なので、おそらく間違っていると思うのだが、以前何かのテレビ番組で、赤ちゃんにノイズを聴かせると大人しくなる、というような検証場面を見た事があるような気がする(いや、もしかすると他の記憶とごちゃまぜになっているかもしれないが・・・)。この記憶が正しければ、このようなノイズに似た音を母親の胎内で聴いていたのかもしれない。ちょっと「雨の音」に似ているかな、と感じることもあるので、その辺りの波長と共通点があるのかもしれない。脳のどこかの部分に、何らかのスイッチが入る音なのかもしれない。そんな風に考えると、音の不思議な世界を少しだけのぞいたような気分になって、なんだかわくわくしてくるような気がする。

深夜の連続ツイート「逃げ水」。

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夏の暑い日に、アスファルトの上にできる蜃気楼。地面に水があるように見える「アレ」の名前はなんだったろう? と考えているうちに、そういえば昨年の夏にはアレを見なかったような気がすることに気がついた。いつも車で移動しているから、見逃してしまったのだろうか。 (つづき)小学校の頃は水泳記録会の選手に選ばれていたから、毎日プールに行って泳いで歩いて帰ってきたから、アレは毎日のように目にした。蜃気楼とわかっていても「もしかしたらアレは本物かも」と思いつつ、赤い自動販売機の前を曲がり、青い友人の家の前を通り、水を追いかけ家路を急いだものだ。 (つづき)子供の頃の365日は永遠だったし、夏休みは無限の可能性で「なんでもできる」気がした。「エジソンは図書館の本をすべて読破した」と知って、よし家にある全集を左から右まで全部読もうとか、町外れの川までアイツを誘って自転車で釣りにいこうとか、とにかくなんだってできる気がした。 (つづき)そんな風にして一緒に過ごしてきた仲間達が、今でもアレを見た時にソレを思い出してくれたのなら、と思ったりする。只今、午前1時54分。これで深夜の連続ツイートおわり。ちなみに、子供の頃に見たアレの名前は「逃げ水」。たしかに、ぴったりの名前だね。