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効果的な読書の方法とは?(その2)読む前に目次を読む

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・前回のつづき 「読みたいと思っている本を、読みたい時に、一気に最後まで読む」 というルールを設定したところ、読みかけ本の在庫が一掃されて、いい循環が始まったという話をしました。 前回の文章を読んだ方の中には「そんな読み飛ばしただけでは、内容も頭に入ってこないだろうし、無駄なことをしているだけ」と感じている方も多いかもしれない。実は、自分もそう思っていた。 「めくっている時間だって、バカにならない」 とさえ、思っていたわけです。 ところが実際に試してみると 「思っていたよりも、情報を吸収できている」 ということに気がついたわけです。 おそらく自己分析してみるに、今までは「一字一句たりとも読み落したくない」ではないですが、理解できなければ先に進まない、というような意識で読んでいたわけですけれど、その方法だと自分のレベルの理解力の場合、 かなり立ち止まりながら読むことになる→ 途中で集中力が落ちる→ 読むのを止める。 という悪循環の原因になっていたわけです。それ以前に 理解力&記憶力には限界があるわけで、どんなに丁寧に読んでいる(つもり)でも読み落しは生じる ので「止まるくらいなら飛ばして、先に進む」この方法が合っていたのだと思います。 以前、あるパソコンソフトの初心者セミナーに参加した人から聞いた話なのですが、まず最初に 「おおまかな全体像を掴んで、簡単な処理を最初から最後までスムーズに作業ができるようになる」 ことを学ぶべきなのに「ここの線を消すにはどうしたら?」などと、細かな(つまり部分的なテクニック)に関する質問ばかりして先に進めない人がいたそうです。たしかに、その気持ちはわかりますね。 気になるものは気になる。それは仕方ない。でも、 まずは最後まで一通り流れを学んだ後から細かな部分を補足して行く方が、結局理解度も高まるわけだし、それが基本を学ぶということ だよなあ、と思ったわけです。まずは、細かいところはわからないままでも、全体像を把握することを優先する。そうじゃないと「今、自分が学んでいることは、どこの部分でどんな役割をするのか」がわかりませんから、基本の柱が立ちません。 初心者の場合は、特にこれが大切になってくるよなと思ったのです。そして、読書も同じだと思ったのです。最後まで通してみてから、細かい部分を補完していった方が理解度も習

効果的な読書の方法とは? (その1)流し読みでOK 最後まで読むことが大切

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仕事関係の方から「どのような本を読めばいいですか?」「忙しいのに、いつそんなに本を読んでいるのですか?」と、いうような質問を定期的に受けます。 そんな時は 「読まなければならない本、ではなく、その時に読みたいと思った本を読む」「読み始めたら、最後まで一気に読む」 の2つを答えるようにしています。 これは最近自分が体感していることなのだけど、年齢を重ねるごとに「集中力&持続力」が格段に弱くなっていることを実感することが多くなりました。中学生~高校生くらいの時は新書だと2~3時間程度で一気に読み終わり「ああ、もう読み終わってしまった」という感じだったのだけど、最近では気がつくと新書を3〜4日くらいかけて、ようやく読み終わるというようになってしまっていたのです。しかも読み終わるのはまだ良い方で、最初の数ページだけをパラパラとめくり「続きは後で読もう」と、数日は横においておくのだけれども、そのうち書店で新しい本を買ってしまい読みかけの本は棚の隅の方へ、を繰り返すようになってしまっていたのです。これでは 「本を読むのが好き」というよりも「本を買うのが好き」 という感じです。買った段階で満足してしまっているのですね。 そこで自分に設定したルールのひとつが 「読み始めたら、できる限りその日のうちに最後まで読む。とにかく読み終えることを重視する」 ということなのです。購入した時点が「その本を読みたいという感情のピーク」なわけで、そこからは急速に下降していくわけなので「興味の感情が高いレベルを維持しているうちに、最後まで読んでしまおう」と思ったわけです。勢いを重視する、ってことです。だからこそ「読まなければならない本、ではなく、読みたい本」である必要があるわけですね。 ただ、この方法だと今度は 「最後まで読まなければいけない、という苦痛」 が生じるので、楽しいはずの読書が宿題が終わらなければ遊びに行ってはいけません、と同じになってしまうので、さらにひとつ 「今の自分が興味がない、今ひとつ理解できない、と感じた部分は流し読みをしてもよい」 というルールを設定しておきました。そもそも興味がない部分や理解できない部分は、時間をかけて読んだとしても「今の自分には残らない」場合が多いので、本当に必要な部分以外は、さっさと飛ばし読みをすることにしたわけです。本を読むのが

2013年 書き初め

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そして今年も、恒例の書き初めをしてみました。 と、書くと、本物の墨と筆を使って書いたようにも聞こえるけれど、実はこれ「習字ソフト」を使って書いたものです。つまりマウスを使って書いたのだけど、筆圧の具合などが良い感じで反映されるので、ちらりと見た感じでは、あたかも本物の筆で書いたかのように見えるってわけです。 ちなみに今年は「希望」の「希」の字にした。なぜこの文字にしたかというと、実は頭に浮かんだ文字を、とりあえずさらさらと書いてみたら、いい感じだった、というのが実際の理由です。何か重々しい口ぶりで「この文字には・・・」と語りたいところだけど、その方が格式があがるような気もするけれど、しょせんソフトを使って書いているにすぎないので、本当のことをここに書いてみました。

塩竈神社へ初詣。

今年の初詣は塩竈神社へ詣でた。初詣へ詣でる、と書くということは、頭痛が痛い、ということと同じだな、と思うのだが、どうしても「詣でる」という言葉を使いたかったので、あえて並べて書いてみた。なので「使い方がおかしいのでは?」と感じた方は「そういうことなのか」と思っていただきたい。 さて、塩竈神社は「 東北鎮護・陸奥国一之宮」であり、御祭神は「別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神を祀る」神社である。 主祭神である塩土老翁神は、日本神話の「海幸山幸」に登場する神様なのだそうだ。「山幸彦」が「海幸彦」の釣り針を紛失してしまって困っている時に現れ「この小舟に乗っていけば海神の宮へ着くから、そこで待っていなさい」と、山幸彦に助け舟を出したのが、この塩土老翁神なのだそうだ。 高校生の頃に、この話を本で読んでから「神話にも登場する神様が祭られている神社 =ご利益がありそうだ」と感じ(単純である)それ以来、初詣は塩竈神社へ詣でることにしてきた。なので、正月は「しおがまさま(地元の人達は、このように呼びます)」に行かないと一年が始まった気がしないな、というくらい自分にとっては馴染み深い神社になっている。 今年は「拝殿工事中」ということで入場規制がかかっていて、階段の下で40分ほど並んで待たなければいけなかった。風邪気味だったので「待っている間に、風邪をこじらせたら意味がないな」と思い、途中で帰ろうかどうしようか、と迷っているうちに結局最後まで並んでしまった。列に並んでいる時に、横にいた50代中頃の男性が奥さんに向かって「なんで列が進まないんだ? みんな何をそんなに祈ることがあるんだ?オレなんて、ちゃっちゃと終わるぞ」というようなことを、ずっとボヤいていた。さらに「もう2時だから、終わって帰ってから飯を食うとなると4時過ぎくらいになるだろ? すると昼飯なのか夕飯なのかわからないなあ。お前はどう思う?」などということを大きな声で言い始めたため、見かねた奥さんが「そんなのどうでもいいでしょ!」とピシャリと注意して、その後は沈黙してしまった。話の内容が、ちょっと面白くなりかけていた自分としては、やや残念だったのだが「4時くらいに食べると、夕ご飯が食べられなくなるから困りますよね」などと相づちのひとつも打ってみたかったのだが、とにもかくにも、そんなボヤキを聞いたり、

僕が、一人旅をする理由。

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ひとり旅の時に「ここに、あの人がいてくれたのなら」と頭に浮かんだ人が本命の相手なのです。と、どこかで読んだ一文を思い出した。 つまりそれは、旅は人を素直にさせる、ってことなのかもしれない。 などと考えながら、ガラガラの駐車場で缶コーヒーを飲んで休憩していたところ、自分の車のすぐ横に一台の白い車が駐車してきた。こんなに広いスペースなのに、なぜわざわざ車を横付けするんだろう、と思い隣の車の様子を伺ってみると、白髪の初老の男性が一人で運転席に座っているのが見えた。 どうやら、この人もひとり旅らしい。そして、誰もいない場所にやってきて寂しくなってきたところ、ふいに自分の車が目に止まり、思わず横に止めてしまったのかもしれない。それにしても、別の人がこの状況を見たら「仲の良い二人が、車を並べて駐車しているように見えるよなあ」と考えて、なんだかおかしくなりました。実際は、全然知らない人、なんですけどね。

柳田國男の遠野物語を読む。

青空文庫にて、柳田國男の遠野物語が公開されていたので、さっそく読んでみた。自分が、初めて遠野物語を読んだのは大学生の時だった。その時は「とりあえず読んでおかなければいけない本の一冊」ということで、単行本を購入して通読してみたものの(その当時の自分にとっては)とりわけ引っかかるところもなく、さらっと読み終えてしまったという記憶しかなかった。 そのような記憶があったので、今回も「とりあえずiphoneにダウンロードしておいて、時間のある時にでも読んでみよう」というような感覚だった。ところが、である。そう、この書き出しで読者のみなさんも、おおかた察しがついていると思うけれど、そうです。その通りです。すごく「おもしろい」のです。 まず、序の「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。(遠野物語より)」という一文が奮っている。引き込まれる。「まだまだこの日本には、お宝がたくさん眠っている。それを掘り起こすのは読者の君たちだ。後を頼む」と、いうような作者の興奮というか、志の高さが伝わってくるようだ。そうだ、自分たちはもっと「このような話」を掘り起こさなくてはいけないのだ、今自分がやりたいと思っていたことのひとつが、これなのではないか、と序文から作者に共感してしまったわけです。 3月11日の震災のあと、津波で流され失われた風景を目の当たりにする度に「この辺りには、どのような建物があっただろう」「ここには、確か・・・」と自分の微かな記憶を辿ることを繰り返し続けてきた。もう、100%同じ風景が蘇ることはない。ものごとに100%はない、とはいうけれど「あの風景が、ここに戻る事は100%ない」のだ。悲しいけれど、これが現実なのだ。そして、これから生まれ、この場所で育っていく人達の記憶の中には、全く新しく作り直された街並みのみが残ることになる。2011年3月を境にして「それまでの街並みを見たことがある人」と「見たことがない人」とに、真っ二つに別れるわけである。 そんな時に「今は、こんなに広くて走りやすい道だけれど、以前は車がすれ違うのも困難な位の細い道でバスが通る時には・・・」とか「夏になると、このあたりにやぐらが組まれて町内の人が踊るのだけど、その時に飾られ

2013.1.1

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読者のみなさまのところに、あふれるばかりの福が流れ込んできますように。 今年もよろしくお願いします。(佐藤) 制作:2009 Takahiro Sato all rights reserved.