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爆音が嬉しかったころ

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最近、久しぶりにギターを弾いたりしている。今は、ネットで検索すると、歌詞もコードも、全部表示してくれるサイトがあるから、すごく便利だ。 自分がギターを始めたのは、中学3年生の時で、父親からもらったアコースティックギターが「最初の一本」だった。周りに教えてくれる人がいなかったので(当時は、ネットもなかったし)自己流で練習していた。なので、本などに掲載されている「Cというコード」を押さえても、本当に「この音でいいのか? なんだか、レコードの音(CDではなくレコード!)とズレていないか?」という、段階からのスタートだった。 どんなに練習しても、チューニングがおかしければ、正しい音になるわけがないのだが「これは、自分の押さえ方がおかしいのではなく、ギターそのものがおかしいのだ」と、思ってしまうあたりが、自分のズレているところである。(もちろん、今でも基本的な部分は変わっていない) 結局「いい音で鳴らないのは、アコギだからだ」という結論に達し、すぐにエレキギターを買って、バンドを組んで、バイト代を全額つぎこんで器材を買い込むくらいにまで、夢中になるわけだけど、結局、テクニックそのものは、うまくならなかったな、とか、あの頃一緒に練習していた仲間は、何をしているのだろうか、とか、ギターの弦が切れても、今ではネットで買えるから便利だよな、などと考えたりしました。

源氏車に、乗ってみたい。

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お盆で、墓参りとくると、普段はほとんど目にする機会がない、家紋が目に飛び込んでくる。お寺の中を歩きながら、他家の家紋を眺めてみると、そのデザインの奥深さや、バリエーションの豊かさに、ついつい見入ってしまったりする。 ちなみに、うちの家紋は「源氏車」。家紋の名前から連想できるように、平安時代の「貴族専用の牛車」の車輪をベースに図案化したもので、複数のバリエーションが存在するらしい。 以前、家紋に少し興味があって、いくつか資料を調べた時に「伊勢信仰が広まった際に、佐藤氏が諸国に神官として散らばった」という説を見つけたことがあった。自分の実家(本家)の方で、御先祖が神社関係の仕事をしていた人がいた、ということを聞いたことがあったので(本当かどうかは、わからない。かなり怪しい)もしかすると、この流れなのかな、と考えたことがある。 実際のところ、自分の「佐藤」という名字は、日本で最も多い名字なわけだし、多いということは、一般市民だったということだろうから、数の少ないであろう「神官」などの職業についたという確率は極めて低いことだろう。神社の近所に住んでいて、その神社の「佐藤さん」の手伝いをしているうちに、いつの間にか自分も佐藤を名乗るようになったのかもしれない・・・などと、想像してみると、妙にしっくりくるのは何故だろう(笑) 正確なルーツはともかく、自分にも先祖があったわけだし、実際に、この家紋が受け継がれてきたのは、まぎれもない事実だ。そのように考えながら、改めて家紋を見てみると、庶民は庶民ながらに、時間の流れが積み重なってできる重さなどを感じてみたりして「こんな自分では、御先祖様に、申し訳が立たない」と、どこかで聞いたようなフレーズを反芻してしまいました。

あの光るのが・・・

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阿武隈川に行ってきた。 「あれが阿多多羅山  あの光るのが阿武隈川」 と、高村光太郎の「樹下の二人」にも詠み込まれている川だ。自分が行ったところは、だいぶ下流の方なので、川幅も広く水量も多かったから、かなりゆったりとした流れの風景だった。 自分は、川の流れを眺めていると、とても心が落ち着くというか、癒されるような感覚になる。川へ行くのは、釣りが目的なのだけど、もしかすると本当は、この「癒されるような」感覚を得たくて、川に行っているような気がするくらいだ。これは、子供の頃にキャンプに行った時や、釣りに行った時に、川でじゃぶじゃぶと遊んでいた時の記憶が、よみがえるからなのだろうか? などと考えていた。 先日、脳に関する本を読んでいた時に「海や森を眺めると気分が落ち着くのは、太古の遺伝子記憶がよみがえるからと考えられている。」(参考:男の脳にとり入る法 女の脳につけいる法 大島清)という情報を見つけて、なるほど、すると自分のこの感覚は、子供の頃の記憶だけではなく、太古の記憶ともリンクしていたのか、と妙に納得してしまった。 すると自分の先祖は、海沿いではなく、川沿いで生活していたのだろうか? 登山も好きだから、山沿いの川近くで生活していたのかもしれない。ちょうどお盆の時期に、そんなことを考えたりするのも、これは何かのメッセージなのか? などと普段は信仰深くない自分にも、そのようなことを考えさせる川の流れには、やはり何か不思議な「遺伝子レベルの記憶」があるのかもしれない。 そんな訳で、先祖供養のかわり(?)に、太古の記憶に思いを馳せつつ、お盆を過ごしました。 ※ 阿多多羅山は、現在の表記だと「安達太良山」となる。数年前に登ったことがある。ゴツゴツした岩肌と、ゆるやかな稜線が印象的な山でした。

洗いたいが、洗えない。

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相変わらず、天気がよいので、今までたまっていた洗濯物を一気に片付けてしまうことにする。 洗濯をする時に、いつも迷うのが「ジーンズは、どうやって洗うのか?」ということだ。 以前、いい感じで色落ちしたジーンズを購入して、気に入って履いていたところ、わずか2〜3回の洗濯で「いい感じの部分が、思いっきり白く」なってしまい、ひどくがっかりしたことがあった。他の人に話を聞いてみると、 「ジーンズは、めったに洗わない」 「ファブリーズで消臭する」 「裏返して、水洗い」 「気にせず、洗う。しょせん作業着」 と、いうような意見だった。どちらかというと、自分は「気にせず、ガンガン洗う派」で、少なくとも2〜3回着用したら、さっさと洗うことが多かった。なので「めったに洗わない&消臭スプレー派」は、ちょっと物足りない。まして、釣りに行ったりして、薮の中や泥まみれになって歩き回るわけだから、汗やら何やらで、もの凄く汚れたりもするから、洗わないわけにはいかない。「洗わないと、タンパク質が付着して繊維をぼろぼろにしてしまう」と、いうような情報を耳にしたりすると、なおさらだ。まあ、実際のところ、繊維が駄目になる前に他のジーンズに買い替えるような、気もするけど、それはともかく。 そこで今は、裏返して水洗い。時々、おしゃれ着用の洗剤で洗う、という感じで洗濯している。これでも、色は褪せていくが、とりあえず仕方がない。なにごとも旬の時間は一瞬で過ぎ去る、なんてうそぶいてみたりする。

プレイステーション 1

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先日、ブックオフに立ち寄った時、ゲームコーナーで「リッジレーサ−5」のソフトが、数百円で販売されているのを見つけた。 とても懐かしく、休みの暇な時間にでも、やってみようかなと(数百円だし)買って帰ってきた。 自分は、リッジレーサー1の世代で、当時は大学生だったこともあり、徹底的にこのゲームをやりこんだものだった。バイト先の人と「どちらが先に、ゴキブリカーを抜けるか?」を競いあったり、身内でコンマ数秒のタイム差をしのぎ合ったりしながら、かなりの時間を費やした記憶がある。 そういえば、ちょうどそのころ、セガの「バーチャファイター」も流行っていて、ゲームセンターに行くと、深夜遅くまで、対戦している人達で賑わっていたものだった。次から次へと、対戦相手が乱入してきて、後ろで見ているギャラリーも、ずるい手を使っている相手にはブーイングを浴びせたりと「たかが対戦格闘ゲーム」なのに、異常なまでに盛り上がっていた。それこそ、負けると、店内の壁を叩いたり、ゴミ箱を蹴ったりなどと、まるで「ゲームに負ける=人生最大の屈辱」のような人も普通にいた。よく考えると危ない世界だけど、自分がその中に入っている時は、違和感がないというのが「こういう世界」というものだ(笑) もう、10年以上、ゲームセンターにも行っていないし、ゲームそのものもやらなくなったけれど、今、あらためて思い出してみると、なんだかのんびりとした時代だったな、と感じたりする。その当時は、ものすごく荒々しくて、それなりに揉まれていたような気がしたけど、缶コーヒーを飲みながら、ゲームの内容について、何時間も語り合えるなんて、平和以外のなにものでもないだろう。15年ぶりに、リッジ5で遊びながらそんなことを考えました。

夏のない夏。

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今年の宮城は「梅雨明け宣言」がなかった。 つまり、梅雨からそのまま秋へと、季節が移行してしまったようなものか? なんだか、数ヶ月分、時間を早送りしてしまったような、夏だけ削除されてしまったような、気分になる。 実際のところ、8月13日までは、陽も照らなかったし、雨も多かったので「本当に、梅雨から秋になってしまったな」と、いうような気候だった。何をするにも、ちょうどいい気候で、作業ははかどったが「過ごしやすかったけど、なんだか寂しい」気もしていた。 ところが、14日になったとたん、高気圧全開の真夏の空。気温も30度を越えて、これぞ夏! というような雰囲気満載である。本来ならば、わくわくするはずなのだけど、実際に暑くなってしまうと「やはり昨日までのような気候が、一番だよな」と、思ってしまう。勝手だよなあ、と思いつつ、これから外出予定なので、もう少し陽が翳らないかなと考えながら、撮影した写真がこれ。