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磐梯山は、宝の山。

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福島県の磐梯山に登ってきた。 高速道路を走っている時に、横に見える、凛々しい山の姿を眺める度に「一度登ってみたい」と思っていた山なので、今回はとても楽しみにしていた。 磐梯山 といえば「会津磐梯山は、宝の山よ」という、民謡にも登場する山。さらに深田氏の「日本百名山」にもなっているので、全国の山好きからも人気のある山だ。 今回は、 一番短い距離で登れる「八方台登山口」 から登ったのだが、登山口にある駐車所の車のナンバープレートを見ると、関東方面はもちろんのこと、関西からも、たくさんの登山客で賑わっていた。自分が到着した、午前6時には、すでに駐車場の半分くらいが埋まっていたので、休日に出掛ける方は、早めの到着をおすすめします。 さて、肝心の磐梯山の様子なのだが、残念ながら自分が登った時には、濃いガスと風で、ほとんど視界を得ることができなかった。360度、真っ白の頂上に立ちながら、本当ならば、この方向に湖などが、ばっちり見えるんだろうな、と想像だけして帰ってきた。まあ、登山には「よくある話」だ。天気予報を確認して、日程を調整して、何時間かけて登っても、曇る時は曇るし、晴れる時は見事に晴れる。自然を相手にしているのだから、これは仕方がない。 そこで「あれ? 写真はとても良く晴れているけど・・」と、感じた方もいらっしゃるだろう。そう、山からおりて、周辺を観光していると、数時間後にはこのように「見事に晴れ」てしまったのだ。ここまで天候が急変すると、もう笑うしかない。今回は、山の神様に「また、おいで」と言われたのかもしれない。

日本三景といえば?

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日本三景といえば、厳島、天橋立、松島の3つ。その中のひとつである、松島が地元にあるというのは、よくよく考えるとすごい確率だし、自慢のような気がする。 今年の夏休みは、松島の近くを通った知り合いによると「見た事ないほどの大渋滞」だったそうだ。これがいわゆる「高速道路 1000円効果」なのだろうか。実際のところ、市内を走っている車のナンバーも、関東方面はいうにおよばず、関西方面のものも、多く見かけた。ETC割引の波紋は、プラス面マイナス面、色々あると思うけれど、こうやって自分たちが今まで行ってみたかった所へ、出掛けてみるきっかけにするには、良かったことだったのではないかと、思う。 ちなみに地元の人間にとっての松島は、仙台市内から、車で4〜50分程度で行く事ができる、「気楽な日帰りドライブ・スポット」だ。あまりにも気軽すぎて、逆に「足が向かない」場所になりつつある。うちの両親も「松島の遊覧船に乗ってみたいな」と、折々につぶやいているが、そうかといって「じゃあ、行ってみるか?」と誘っても、彼らは「つかれるから、いいよ」と拒否すると思う。いつでも行ける、ということは、なかなか行けない、ということなのかもしれない。 まあ、奥の細道も、江戸から松島を目指すから、その過程がドラマティックになるのだろうし、遠ければ遠いほど、思いも募るものだろう。 そんなことを考えつつ、お盆休みを少しずらした松島に出掛けてみると、中心部の繁華街以外は、案の定ガラガラだった。観光客はもちろん、地元の人すらいない。せっかくなので、島のひとつを独り占めして、撮影した写真がこれ。

爆音が嬉しかったころ

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最近、久しぶりにギターを弾いたりしている。今は、ネットで検索すると、歌詞もコードも、全部表示してくれるサイトがあるから、すごく便利だ。 自分がギターを始めたのは、中学3年生の時で、父親からもらったアコースティックギターが「最初の一本」だった。周りに教えてくれる人がいなかったので(当時は、ネットもなかったし)自己流で練習していた。なので、本などに掲載されている「Cというコード」を押さえても、本当に「この音でいいのか? なんだか、レコードの音(CDではなくレコード!)とズレていないか?」という、段階からのスタートだった。 どんなに練習しても、チューニングがおかしければ、正しい音になるわけがないのだが「これは、自分の押さえ方がおかしいのではなく、ギターそのものがおかしいのだ」と、思ってしまうあたりが、自分のズレているところである。(もちろん、今でも基本的な部分は変わっていない) 結局「いい音で鳴らないのは、アコギだからだ」という結論に達し、すぐにエレキギターを買って、バンドを組んで、バイト代を全額つぎこんで器材を買い込むくらいにまで、夢中になるわけだけど、結局、テクニックそのものは、うまくならなかったな、とか、あの頃一緒に練習していた仲間は、何をしているのだろうか、とか、ギターの弦が切れても、今ではネットで買えるから便利だよな、などと考えたりしました。

源氏車に、乗ってみたい。

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お盆で、墓参りとくると、普段はほとんど目にする機会がない、家紋が目に飛び込んでくる。お寺の中を歩きながら、他家の家紋を眺めてみると、そのデザインの奥深さや、バリエーションの豊かさに、ついつい見入ってしまったりする。 ちなみに、うちの家紋は「源氏車」。家紋の名前から連想できるように、平安時代の「貴族専用の牛車」の車輪をベースに図案化したもので、複数のバリエーションが存在するらしい。 以前、家紋に少し興味があって、いくつか資料を調べた時に「伊勢信仰が広まった際に、佐藤氏が諸国に神官として散らばった」という説を見つけたことがあった。自分の実家(本家)の方で、御先祖が神社関係の仕事をしていた人がいた、ということを聞いたことがあったので(本当かどうかは、わからない。かなり怪しい)もしかすると、この流れなのかな、と考えたことがある。 実際のところ、自分の「佐藤」という名字は、日本で最も多い名字なわけだし、多いということは、一般市民だったということだろうから、数の少ないであろう「神官」などの職業についたという確率は極めて低いことだろう。神社の近所に住んでいて、その神社の「佐藤さん」の手伝いをしているうちに、いつの間にか自分も佐藤を名乗るようになったのかもしれない・・・などと、想像してみると、妙にしっくりくるのは何故だろう(笑) 正確なルーツはともかく、自分にも先祖があったわけだし、実際に、この家紋が受け継がれてきたのは、まぎれもない事実だ。そのように考えながら、改めて家紋を見てみると、庶民は庶民ながらに、時間の流れが積み重なってできる重さなどを感じてみたりして「こんな自分では、御先祖様に、申し訳が立たない」と、どこかで聞いたようなフレーズを反芻してしまいました。

あの光るのが・・・

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阿武隈川に行ってきた。 「あれが阿多多羅山  あの光るのが阿武隈川」 と、高村光太郎の「樹下の二人」にも詠み込まれている川だ。自分が行ったところは、だいぶ下流の方なので、川幅も広く水量も多かったから、かなりゆったりとした流れの風景だった。 自分は、川の流れを眺めていると、とても心が落ち着くというか、癒されるような感覚になる。川へ行くのは、釣りが目的なのだけど、もしかすると本当は、この「癒されるような」感覚を得たくて、川に行っているような気がするくらいだ。これは、子供の頃にキャンプに行った時や、釣りに行った時に、川でじゃぶじゃぶと遊んでいた時の記憶が、よみがえるからなのだろうか? などと考えていた。 先日、脳に関する本を読んでいた時に「海や森を眺めると気分が落ち着くのは、太古の遺伝子記憶がよみがえるからと考えられている。」(参考:男の脳にとり入る法 女の脳につけいる法 大島清)という情報を見つけて、なるほど、すると自分のこの感覚は、子供の頃の記憶だけではなく、太古の記憶ともリンクしていたのか、と妙に納得してしまった。 すると自分の先祖は、海沿いではなく、川沿いで生活していたのだろうか? 登山も好きだから、山沿いの川近くで生活していたのかもしれない。ちょうどお盆の時期に、そんなことを考えたりするのも、これは何かのメッセージなのか? などと普段は信仰深くない自分にも、そのようなことを考えさせる川の流れには、やはり何か不思議な「遺伝子レベルの記憶」があるのかもしれない。 そんな訳で、先祖供養のかわり(?)に、太古の記憶に思いを馳せつつ、お盆を過ごしました。 ※ 阿多多羅山は、現在の表記だと「安達太良山」となる。数年前に登ったことがある。ゴツゴツした岩肌と、ゆるやかな稜線が印象的な山でした。