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【人生哲学】世間が必要としているものと、 あなたの才能が交わっているところに天職がある(アリストテレス)

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今日は「仕事」について考えてみたいと思います。 誰しも「自分に合った仕事がしたい。自分の力を生かした仕事がしたい」と考えると思います。1日の大半を仕事に費やすわけですから、これは当然のことです。もちろん私もそう考えています。 哲学者のアリストテレスは「仕事」に対して、 世間が必要としているものと、 あなたの才能が交わっているところに天職がある (アリストテレス) と表現しています。自分ができることと、世の中が求めるものが合わさったところに天職がある。確かに、どんなに「オレは、これを仕事にしたい!」と思ったとしても、お金を払って頼みたい人がいなければ、 仕事として成立しません 。 そして「仕事」について考える時、 この部分が的外れになっている人が少なくない ように感じます。ポイントをはずしたままで思考を繰り返しても、本質から離れていくばかりです。アリストテレスの言葉を噛みしめつつ、考えてみたいものです。 「自分には向いていない」場所に、ヒントあり? また、逆の視点から考えてみるならば「自分には向いていない。才能がない」と思えることであったとしても、 世間から要望がある場合は、それが「天職」になる場合 もあると思うのです。 実際に私の場合は「自分には向いていない」と感じている仕事が、天職であったと体験から感じています。私が大学を卒業して最初に就職したのは学習塾でした。正直なところ、私は人前で話したりするというのは「そこまで得意」なわけではありません。苦手ではないけれど、向いているとも思えない。とりあえずがんばれるだけ、がんばってみよう。そのような気持ちで始めたのです。 実際の授業は大変でした。大きな声で説明していると、すぐに声が枯れてしまうし、授業のあとに生徒と「雑談」をするのも苦手だったので、授業が終わったらすぐに職員室に逃げ込むようなタイプの先生で、授業をすればするほど「この仕事は、自分に向いていないのでは」という気持ちが強まっていきました。 ところが、私の授業を休まずに受けてがんばっている生徒と過ごしているうちに「みんなの力になりたい」と思うようになりました。こちらが全力で向き合うと、生徒からも全力の気持ちが返ってくる。受験生を相手にした授業では、そのような熱量が限界点にまで高まっていく瞬間があります。 そんな環境に身を置きながら、がむしゃらに5年

【哲学】常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである。(アインシュタイン)

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最近 「自分の人生に、影響を与えたこと」 について考える機会があった。私の場合「中学・高校の頃に出会ったこと」に影響を受けていることに気がついた。結局のところ、その当時に興味を持ったことを(自分の中で、流行り廃りはあったものの)ずっと続けてきたのだった。 アインシュタインの言葉に、 常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである。 (アルベルト・アインシュタイン) というものがあるけれど、まさにこの感じ。意識的(または無意識的)に10代の頃に出会った情報や経験が「偏見」となって、 私の「ものの見方」を決めていた 。私が今までに行ってきた選択の多くは、この当時に身につけてきた「偏見」によって決定し実行してきたことは、疑いようのない事実であると思う。さらに経験を重ねることによって、それを強めてきたように感じる。 また、アインシュタインは、 原子を割るよりも、偏見を割るほうが難しい。 (アルベルト・アインシュタイン) と言っているけれども、このようにして身につけた偏見を変えることは極めて難しい。原子を割るより難しい。つまり「ほぼ不可能」ということである。 私もあなたもあの人も「偏見」というフィルターを通して世界を見続けていく。 しかし逆に考えるならば、自分の思考が「どのような偏見で構成されているのか?」を観察することができたのならば、多少は偏見の幅を広げられるかもしれない。割ることはできなくても、光を当てる角度は変えられるかもしれない。 そしてこのように考えることも、私の偏見が生み出すものなのだろう。そんなことを考えていくと、何が何だか分からなくなってしまうが「私の偏見コレクション」を眺めつつ、何かを表現していくことを試みていこうと思います……。 【佐藤ゼミ Youtube版】 【佐藤ゼミ ラジオ版】 〰関連 「人生哲学」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【読書術】 良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。(デカルト)

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「モーパサンは馬鹿ニ違ナイ。」 今からかれこれ10年以上前のことなのですが、地元の文学館で開かれた「夏目漱石展」で漱石の蔵書を見たことがありました。漱石は本を読みながら、余白に書き込みをする習慣があったのですが、その時展示されていた蔵書には漱石の筆跡で 「モーパサンは馬鹿ニ違ナイ。」 と書き込まれていたのでした。 批評というよりは、モーパッサンに喧嘩を売っているかのような漱石先生。よほど気に入らなかったのでしょうか。貴重な書籍に、そのようなことを書き込んでしまう漱石先生の様子を想像すると、どこか滑稽にも見えてその資料見ながら思わず笑ってしまったことを覚えています。 哲学者のデカルト曰く、  良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。 (ルネ・デカルト 方法序説より)   という一文があるのですが、まさに漱石先生は、 読書をしながら作者と会話をしていたのではないか と想像します。そして「馬鹿ニ違ナイ」と考えていたことを、そのまま書き込んでしまったのではないかと思うのです。 作者と会話をする「読書」 私もこの漱石先生の書き込みを見てから、読書をする時はペンを持って、 アンダーラインを引いたり、自分の考えを書き込んだりしながら読んでみる ようにしてみました。この方法ですと、読書のスピードは格段に遅くなるのですが、その分じっくりと読み込んだ気分になりますし、作者と会話しているかのような気分にもなります。 さらに、数年後に同じ本を読み返した時、 当時の自分の考えなどを思い出したり して「当時のオレは、こんなことを考えていたのか?」などと、懐かしいような恥ずかしいような気分になるのも、なかなか面白いものです。 皆さんも「しっかりと読み込んでみたい」と感じる本と出会えた時は、漱石先生のように書き込みながら読み込んでみると、何か新しい発見があるかもしれません。試してみてください。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【読書】決して読まないのに多くの本を所有したがるのは……【ヘンリー・ピーチャムの言葉】より

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子供のころは「本屋さん」に、なりたかった。 皆さんは、子供の頃になりたかった職業は何でしたか?  小学生の頃の私は 「本屋さんになりたい」 と思っていました。なぜそう思ったかというと、近所に小さな本屋さんがあったのですが、そこへ行くと店主らしき人がいつもカウンターの横にある椅子に座って本を読んでいたのですね。 その頃の私は 「もっと本が読みたい。好きなだけ本を買いたい!」 と熱烈に思っていたのですが、小学生のこづかいでは月に一冊買うのがやっと。当時の私は、店内にある本は全部お店の人のだと思っていたので、本をたくさん持っていていいなあ、うらやましい。大人になったら、このような仕事がしたい、と思っていたわけです。 読まない本が、山積みになっていく。 社会人になると、少しだけお金に余裕が出てきました。私は週末になると帰宅時に書店に寄り、気になる本を数冊買って帰るのが習慣になりました。書店に並んでいる表紙を眺めながら 「土曜の夜にはこれを読もう」などと考えながら本を選ぶ時間は楽しいもの です。しかも、数冊くらいならば購入できる余裕もあります。私は選んだ本を抱えながら、ほくほくした気分で家に向かうのでした。 ところが、本を買ったはいいけれど、実際にはなかなか読む時間がないんですね。気がつくと、私の部屋には 未読の本が山積みになっていました。 その当時は実家にいたので、親からは床が抜けるからなんとかしなさいと怒られる。それでも本を買う事は止められず、未読の本が壁になっていく。しまいには、同じ本を2冊買ってしまう。そんな時間が続いていたんですね。 趣味「読書」ではなく「本を買うこと」!? そして、ある時私は「もしかして自分は、読書が好きなのではなく、本を買うことが好きなのではないか?」と気がつきました。趣味は「読書」ではなく「本を買うこと」ではないのか? ヘンリー・ピーチャムの著作の中に、 決して読まないのに多くの本を所有したがるのは、 寝ている間も蝋燭をつけておきたがる子供のようなものだ (ヘンリー・ピーチャム「完全なるジェントルマン」より) という一文があるのですが、まさにこれだ、と。自分は「蝋燭をつけておきたい子供」だ。買うことで満足してしまっている。 読みもせず、部屋に帰って山積みにした段階で目的を達した気分 になっている。まさにこの状況になってしま

「ネタ」の情報源は、過去の記憶にあり。

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私の「情報収拾」の方法とは? 私の講義を受講した生徒の皆さんから 「よくネタが続きますね。どうやって探すのですか」とか「先生は忙しそうに見えるのに、どのようにして勉強しているのですか」 と質問を受けることがあります。 おそらく、このような質問される人は「何か特別な勉強方法」や「情報収集の仕方」があるのではないか、と考えていると思うのですが、 残念ながら特別なことをしているわけではありません 。 ネタが尽きるか、私の寿命が尽きるか。 例えば「読書」に関する話題でしたら、 子供の頃からずっと読んでいた本を順番に紹介しているだけ なのです。昔の記憶をたどり、そこに今自分が何を考えているかを考察し付け加えたりしたことを、書いたり話してるだけなんですね。 子供のころから40年以上もコツコツと本を読んできたわけですから、当分の間は「ネタ」は尽きないでしょう。そしてネタが尽きる前に、私の寿命の方が尽きてしまう可能性も否定できません(笑)  【スタインベック】の言葉 スタインベック【ジョン・スタインベック(1902-1968)】というアメリカの作家がいますが、この作家の言葉を借りるのであれば、 「天才とは、蝶を追っていつの間にか山頂に登っている少年である」 といった感じでしょうか。もちろん私は天才でもないし、山頂まで登ったわけではありませんが 「子供の頃に夢中になっていた世界をずっと追いかけていたら、それなりに積み重なっていた」 ということだと思います。そして 誰しも「そのような分野」がある と思うのです。ただ忘れてしまっているだけだと思うのですね。 もしも皆さんが、これから情報発信をしようと考えているならば「あたらしく勉強して身につけたことを発信する」という方向だけではなく、 「今まで自分が積み重ねてきたものを整理して表現してみる」 という方向も、楽しいのではないかと思います。そのような作業を繰り返していくことで、新しいヒントが見つかるし、より奥深いものができるのではないかと思うのです。 【ラジオ版】「ネタ」の情報源は、過去の記憶にあり。 〰関連 「人生哲学」に関する記事 「読書」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」