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組写真:「一日歩き回った、日(秋)」

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新しい写真をホームページにアップしてみた。 今回のタイトルは「一日歩き回った、日(秋)」で、その名の通り、近所を散歩しながら撮影したものの中から、8枚を選び組写真にしたものだ。 使用したカメラはiphoneで、アプリを使って手を加えてみた。撮影から編集まで、ちいさなiphoneひとつでできる、というのは、とても気軽で便利だ。そして、なによりも楽しい。 ほんの10年くらい前までは、Macを立ち上げて、デジカメを接続して、重たい画像編集ソフトでコツコツと作業をしていたのに、今では、ちいさなiphoneで、当時と同様のことができる。いや、こちらの方が(いろいろな意味で)優れていると言っても、言い過ぎではないかもしれない。 あとは、本人の感覚と技術を磨くだけ。こればかりは、ワンクリックでアップデートできないですからね。継続は力なり。 写真のページは、こちら >>>

facebookを、はじめてみる。

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11月になったので、facebookを始めてみた(←深い意味なし)。 始めてみた、というのは、実はちょっと正確ではなくて、以前に登録していたアカウントを、再開したというのが正しい表現になる。そう、つまり「一度、始めようと思ったけれど、なんとなく放置していた」ものを、やり直そうということだ。 手始めに、まずは、twitterと連動させてみる。簡単な手続きで、あっさりと連動に成功。試しに、twitterからツイートしてみると、すぐにfacebook上にも反映される。これは、いい。なんとなく活気が出てきた。 次に、iphone用のアプリをインストールして、iphoneからもアクセスできるようにしてみた。ついでに、一通りプロフィールなども書き直して表示させてみると、なぜか一番目立つところに「〜さんは独身です」と表記された(画像参照)。なぜだろう? 自分の一番のアピールポイントは「独身である」と、facebookに判断されたのだろうか(まさかね)。 まあ、確かに独身ではあるのだが。でも、そこは別に強調したい部分ではないのだが、などと、ちょっとセツナイ気分になりつつ「友達」のページを見てみると、今度は「友達がいません」と、表示されていた。 そうだよ。独身だし、友達もいないよ。でも、そんなにはっきりと言わなくてもさ、とさらにセツナイ気分になった。どうやらfacebookは、孤独な人間は冷遇される仕様らしい(笑)そしてすでに、今回もこのまま放置してしまいそうな予感がするわけです。

怖い、電話。

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ちょっと、怖い(?)話。先日、カード会社から「あなたのカードが不正利用されている可能性がある」と電話がきた。その時に頭に思い浮かんだのは「この電話自体が、怪しいのではないか?」と、いうことだった(←当然だ) そこで、冷静さを装いつつ、慎重に話を確認したところ、安全のために「新しいカードを、再発行する」ということになった。新しいカードは、10日ほどで届くという。 そこでもまだ、疑っていた自分は (結構、疑り深い性格なのだ) 、電話を切ってから、ネットでカードの登録内容を確認してみることにした。・・・うむ。確かに「使えなく」なっている。どうやら、正しく手続きが行われているらしい。こちらからは、カード番号などの情報は一切言わなかったし、先方の質問に答えただけだから、さきほどの電話は、カード会社からの電話だったと考えて、間違いないであろうと判断する。 とは言うものの「本当に、新しいカードがくるまでは用心だ」と、そしらぬふりをしながらも、ひやひやしていたところ、昨日になって、ようやく新しいカードが届いた。おもむろに封筒を開けて、実物を見て、ほっとひと安心する。カードのデザインが新しくなり、かっこよくなっていたので「カードが、カッコよくなって、よかった」と、よろこんでみる。トラブルに巻き込まれた後は、ささやかなことでも、心から喜ぶことである。ちいさな喜びが、大きな歓喜を呼び込むからだ(と、自分に言い聞かせてみる・笑) それにしても、どこからカード情報が流れたのか? そこが一番の不安要素だ。一度流れた、ということは、また同じ事が起きる可能性が、あるからだ。今や、カードがないと不便な世の中。毎月の支払いも、クレジットカード経由のものが多いから、切り替えの手続きも大変だ。色々な意味で、恐ろしい世の中ですよ。怖いね。

新しい、テレビ。

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「まもなく、エコポイント対象商品が、うんぬん・・」という情報を聞いたので、ようやくテレビを買い替えることにした。 普段、テレビをほとんど見ないので「このまま、テレビのない生活に移行してもいいかな」と思っていたのだけど、それはあまりにも意固地だろうか、と考え直し、買い替えることにしたわけだ。ないよりは、あった方がいいし「絶対にテレビは見ない」という信念がある訳でもないので、お得なエコポイントがあるうちに、という訳である。 最初は、20インチくらいのものでいいかな、と思っていたのだけど、実際に店舗で商品を見てみると、32インチでも5万円台のものがある。安い。実家のリビングに設置してあるテレビは、確か20万円くらいしたような気がする。こんなにも値段が下がったのか、と驚いてしまう。 店員さんに話を聞くと「一日、千円下がっていくような感じで・・・」と、値下がりの大きさを表現してくれた。ここまで値段が下がってしまうと、メーカー側としては寂しいだろうな、と思いつつも、ユーザー側としては安さにホクホクしながら、32インチのものに決めた。メーカーはTOSHIBAでREGZAという機種だ。 さっそく持ち帰って、セッティングを行う。電源を入れて、アンテナのコードをつないで、後は自動設定してしまえば、終了だ。簡単だ。一通り、操作してみて、ちゃんと映るのを確認して終了。これで、地デジへ移行しても大丈夫。ひとしきり、満足する。 翌日、古いテレビを同じ店舗へ持って行って、処分してもらった。カウンターまで運んでいく途中で、パーツの一部が取れてしまった。店員さんがそれを拾って、無造作にゴミ箱へ捨てた。もう使わないものなのだから、ゴミ箱行きは当然のことなのだけど、ずっと使っていたものが、あっさりと処分される様子を見るのは、寂しいような気がした。なにせ、学生の頃から10年以上も使ってきたテレビだ。あんな番組や、そんな映画もこの小さなテレビで観てきた。ゲームもしたし、当時の彼女と一緒に明日の天気予報も見た。 おそらく、あの時以上に、テレビを観ることはないだろうな、と考えてみたりする。大学生の4年間で、30代に見る分を一度に観てしまったのではないか、と思ったりする。子供の頃に、家に新しいテレビが届いた時は、一大イベントだったし、テレビの前で家族そろって写

痛み、について考えてみた。

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ようやく、痛み止めを飲まなくても、ぼちぼち作業ができるようになってきた。ほんの一週間前の状態から考えると、驚きの回復だ(と、言ってみたい)。数年前に、体調を崩して寝込んだ時から、それなりに食事を整えたり、山に登ったりしてきたけど、予兆を無視して走った結果が、このありさまだ。 痛みを感じている時は、意識がそこにばかり集中してしまうから、マイナスの方面へと思考が深まりがちになる。次第に、過去の記憶の中から(普段は思い出すこともなかった)、最も悲しい記憶を掘り出し、それを何度も繰り返し考えるようになる。さらに(マイナスな)情報を、かきあつめるようになる。 やはり「身体は痛んでいても、脳だけはポジティブに動く」と、いうわけにはいかない。痛みが気になるからなのか、脳が痛みに対応することに忙しいからなのか、それはわからない。わからないけれど身体と脳は、しっかりと連動している。痛い時は「それ」しか考えられない。脳も痛い方向へと傾いていく。 でも、痛みの原因が明確になれば、それを解消するには「何をするべきか」が、具体的にわかる。わかってしまえば(そこへ留まるか、先へ進むかは、個々人の選択にはなるわけだが)次は行動するだけだ。もちろん恐怖は残るが、同じくらいの希望も育ってくる。それは、とてもあたたかく、力強いものだ。 原因がわかれば、痛みは怖くない。 現在、午前2時。他のみなさんが、眠った時間を見計らって、思いついたことを連続でツイートしてみた。書いているうちに、いつの間にか「身体の痛み」から「心の痛み」へと内容がスライドしてしまっていた。自分で読み返してみて、なんだかおもしろかった。本日の仙台は「曇りのち晴れ」らしい。合掌。 ・・・以上、twitterに投稿したものを、ここにまとめてみた。 通常は、twitterの内容をまとめるようなことは、ないのだけど、体調不良で情緒的になっていたせいか、いつもの自分なら絶対に書かないだろう、という内容だったので、あえてここにも記してみることにした。 普段、痛みとか病気といったものと、全く無縁の生活をしてきたせいか、今回の体調不良は、思いのほか色々なことを考えるきっかけになった。病気は恐ろしく、絶望を感じるものだけど、立ち止まる(立ち止まざるを得ない)状況になることで、何かわかる

宮城県美術館「新しい美術の系譜」

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宮城県美術館の「新しい美術の系譜」へ行ってきた。 今回の目的は、ロレッタ・ラックスの作品を観ること。ある雑誌で、彼女の作品を目にしてから、ぜひ一度本物を観てみたいと思っていたので、今回は、とても楽しみにしていた。 展示されていたのは「ドロテア」と「アイルランドの少女たち」の2作品。ちらっと観ると、絵画のように見えるけれど、良く観ると写真。かわいらしい女の子が描かれているように見えるけど、しばらく見ていると、妙に不安を感じる作品。やわらかだけど、硬質なトーン。ずっと見ていたいような、すぐに目を逸らしたくなりそうな世界観。そんな、矛盾した雰囲気が同時に存在する、不思議な作品だった。 自分のレベルでは、この作品に、どのような画像処理がほどこされ、仕上げられているのかは、わからない。わからないけれども、とにかく、膨大な時間がかけられ、丹念に仕上げられているということが、ひしひしと伝わってくる。その、絶対的な作業量が、自分が感じた「不思議な感覚」の源泉となっているのかも、しれない。 平日の閉館まぎわの時間帯と、いうこともあり、観客がまばらだったので、作品を独り占めして、じっくりと楽しませてもらった。この2作品を観るだけでも、充分に足を運んだかいがあったと、思った。あまりにも、離れがたくて、閉館ギリギリまで粘ってしまい、あやうく次の予定に、遅れてしまうところだった。 美術館を出て、近くの高校の前を車で通ったところ、校門の近くで、ダンスの練習をしている女子高生の姿が目に飛びこんできた。体を左右にリズミカルに揺らし、飛び跳ね、ニコニコと笑いながら、そばに立って見ている友達と話をしていた。何かのイベントで発表でもするのだろうか。それとも、ただ踊っていただけなのだろうか。美術館と、女子高生のダンスの組み合わせは、自分の中にある、遠い遠い昔の記憶を、呼び起こしてくれるような、 ロレッタ・ラックスの作品を見た時に感じたものと、どこか つながるような、そんな不思議な感じがした。 ロレッタ・ラックスの写し出す子供たちは何を見つめているのかLORETTA LUX  ロレッタ・ラック...

ラシーン発進。

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夏がおわった。 涼しくなってきたので、ラシーンの調子が良くなってきた。オンボロ車(平成7年式)には、今年の猛暑はキツかったはず、おつかれラシーン。 僕は、車やバイクが好きで、16歳の誕生日の一週間後に原付の免許を習得してから、ずっと車やバイクを運転し続けてきた。レストランで皿洗いのバイトをして、コツコツ給料を貯めて(その当時の時給は、580円くらいだった/高校生)ヘルメットを買ったり、グローブを買ったりしながら、バイクを自分好みにアレンジしたりして、少しずつステップアップを、したものだった。 車は、自宅にあった(父親が所有していた)ニッサンのスカイラインが最初で、それから2台スカイラインを乗り継ぎ、今のラシーンに至っている。 どの車も初期登録から10〜12年ほど乗って廃車にしてきたけれど、ラシーンの場合は、今年で16年目。今まで乗ってきた車の中で、最年長となる。 実際のところ、年々パワーも落ち、燃費も悪くなってきているのを感じるのだが、それでもこのスタイル(レトロモダン風)が気に入って、まだしばらくは乗ろうと思っている。高速に乗ると、四角いボデイがものすごい空気抵抗となり、軽自動車にも楽々抜かれることも多いのだけど「これは、速く走る車ではない」と、割り切って、一番左側の車線をトロトロと走るようにしている。 自分が子供の頃には「車は10年で廃車」のような、雰囲気があったけれど、ラシーンに関しては、このままトラブルがなければ、17年目に突入するのも決して夢ではないと思っている。もう一度、車検を通すことができれば(メンテナンス費と、維持費との兼ね合いである)19年目を目指すことになる。はたして、どこまで乗れるものなのか、自分としても、とても興味があるところだ。 たとえば、今から70歳くらいまで車を運転するとすれば、これまでの自分のペースでいくと、生涯で8〜9台の車を乗り継ぐ、といったペースになるかと思う。せいぜい10台と、いったところだろう。どんなに多くても、11台目に乗るか乗らないか、といった範囲に収まると思う。 そう、わずかに10台である。生涯で乗れる(自分がオーナーになれる)車は、そんな程度しかないのだ。 この短い人生の中で、どうせなら、少しでも自分が好きな車に乗りたい。自分の好みに合って、大切にで