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大崎八幡神社 どんと祭り 2013

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大崎八幡神社のどんと祭りへ行ってきた。ホームページの情報によると、どんと祭りの正式名称は「松焚祭(まつたきまつり)」で「三百年の歴史を有す、全国でも最大級の正月送りの行事」なのだそうだ。境内の一角に正月飾りなどが持ち寄られ、それらを盛大に焚き上げる神事で、その火にあたると「心身が清められ、一年間無病息災・家内安全の加護が得られる」という言い伝えがあるとのこと。 ちなみに今回「どんと祭り」についてwebで調べていたところ「どんと祭り」というのは宮城県を中心に呼ばれる祭りの呼称だということを初めて知った。そうだったのか。と、いうことは他の県の方に「どんと祭り」と言っても通じない場合があるわけですね。気をつけよう。 当日は記録的な大雪だったので「この雪では、延期になるのではないか?」と心配もしていたのだけど、祭りは予定通りに行われ、雪を軽々と吹き飛ばすかのような煌々とした炎と煙が空に向かって舞い上がっていた。「この火の熱を、身体の悪いところをあてるといいんだよ」と言われたので、円陣の最前列に行って前と背中に熱を、たっぷりと当ててきた。火の勢いがものすごいので、最前列に立つと「かなり熱かった」のだけど、この熱さを我慢するとご利益がありそうな気がしたので(実際に、そうだというわけではありません。個人的に、そう思っただけです)少しだけ辛抱して火にあたってきた。これで今年は無病息災だ。 炎に清めていただいたあとは、御社殿へ移動して新年の挨拶をする。ガラガラと鈴の音が鳴り響き、静かに祈りを込める参拝者の上に粉雪が静かに舞い降りてくる。参拝を終えた人達の表情は、みんなどこかすっきりしているように見える。「これで今年も大丈夫だ」というような自信がみなぎっているようにも見える。自分も列に並び、手を合わせて、今年一年間の目標を祈願してきた。お守りを買おうかと思ったのだけど、初詣の際に塩竈神社でいただいてきたので、今回は見送った。そのかわりに「おみくじ」を引いてみたのだが「恋愛」のところに「愛を押し付けないように」というような文言が書かれていて、思わず苦笑いをしてしまった。今年は愛の押し付けに気をつけよう。小出しにしよう。いや、これは違うか。まあ「普通の愛」でいこう。 参拝を終えたあとは、出店を楽しむのがお祭りの醍醐味だ。まずは縁起物の「甘酒」を飲んで温まってから、出店をのぞい

一生懸命に書いた文章が、届く場所。

一生懸命に書いた文章が必ず伝わるという訳ではないけれど、一生懸命に書かなかった文章が誰かの心を動かすということもないだろう。   僕たちの時間には限りがあるし、本当に伝えられるチャンスは、いつだって一回しかない。そして多くの場合「それ」に気がつくのは、すっかり通り過ぎてしまったあとなのだ。すべてが変化してしまってから、ようやく失ったことに気がつくのだ。   だから「伝わらなかった」ことを嘆くよりも、伝えようとした自分の勇気(のようなものを誇ろう)ってことです。それは自分が思っているよりも、ずっとずっとすごいこと、だと思うからです。 少し前にtwitterに上の文章を書いた。そしてつい先日、このことを実感するできごとがあった。 僕は、ある人に「自分のベスト」を尽くした言葉と文章で自分の考えを伝えた。ところが、その人の誤解を解くことはできず、ただ冷たい文章が返ってきただけだった。僕が知りたかったことは、そこには何も書かれていなかった。 ところが、その時の自分は不思議と冷静でいられた。 「自分のベスト」を尽くした言葉で文章を書き、それを読んでもらっても駄目なら、それはそれで仕方がない。僕には、できるだけ正直に、いじわるをすることなく、自分の考えを伝えた確信(のようなもの)があったし、これで駄目なら 「もう、この人とは縁がなかったのだ」と思える気がしたからだ。 そう思った直後、その様子を見透かしたかのように、別の方からあたたかいメールが届いた。しかも2人連続で届いた。何か「見えない歯車」がカシャンとはまったような気がした。「それで間違っていないよ」と言われているかのようだった。これは不思議な体験だった。 いつも自分の考えが正しいわけではない。間違っていることの方が多いだろう。それを痛感しているからこそ、僕たちは「どこかに、完全なものがあるかもしれない」と思い逡巡してしまったりもする。そしてそれを見つけることができずに、深い困惑の中に戻ってしまうこともある。 それでも「その時の自分のベスト」を出すことができたのなら、それでいいのだと思う。それで駄目なら仕方がない。それよりも「逃げずに、精一杯考え抜く」ことが大切なのだと思う。そして「不完全でもいいから、それを言葉にして、精一杯相手に伝えようと試みる」ことが大切なのだと思う。 たとえ誤解さ

効果的な読書の方法とは?( その4)読んだ本の内容を手書きでメモせよ

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・前回のつづき 「読みたいと思った時に、できるだけ早く最後まで読む。読み終わったら、すぐに目次を活用して全体像を確認&補完。もう少し『読み込みたい本』の場合は、ノートに手書きでポイントを書き出してみる。そして、時間をあけずにメモを何度か読み返す。それを積み重ねていくと蓄積した情報がつながって『何かがわかる』瞬間がくる」 と、いうところまで解説してきました。このようにまとめてみると、我ながら非常にあっけない内容のように思えなくもないですが、4回に分けて書くような内容だったのかな、とも思いますが、まあ、つまりそういうことです。 さらに付け加えるならば、自分の場合は「これはすごく面白い。自分の中に新しい視点ができた」と感じた本は 「2年後」くらいに読み返してみる ようにしています。なぜそんなことをするかというと、年数を経てから読み返すと、 一度目は見逃していた(もしくは理解できずに素通りしていた)部分が理解できるようになったり、軽く読んでいた部分が実は深い内容だったことを発見する場合が多いから です。 「なんだ、ずっと探していた答えは、この本に書いてあるじゃないか」 ということも少なくありません。なぜそのようなことが起きるのかという理由は、なかなか面白いところなので、じっくり説明していきたいところですが、さらに4回分くらいの解説が必要になりそうなので、また機会があれば書いてみたいと思います。今回は「そういうことがある」と思っていただければ大丈夫です。 ちなみに、2年後に読み返す際に、当時まとめたノートなどを一緒に読むこともあるのですが、自分で書いた文章にも関わらず、予想以上にわかりにくいことが多いものです。「たしかに、ここは重要だ」と感じるところもありますが逆に「なぜ、ここが気になったんだろう」と疑問に思う部分もあります。 いかに人間の興味や関心というものは、その時の精神状態や環境に左右されるのだな 、と思いますけれど、当時の自分の状況などを思い返して、しんみりしてみたりもしますけれど、このように当時の自分の思考を分析してみるのも楽しみのひとつかと思います。 さて、最後に、ちょっと偉そうな言い方になりますが、いわゆる一般的な「読書法」の目的は 「いかに効率よく情報を収集&整理していくか」 という部分にあるのではないかと感じています。読んだ本の

効果的な読書の方法とは? (その3)読んだ内容を効率よく覚えるコツ

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・前回の続き さて、気がつくと「その3」まで続いてしまいましたが、さすがに今回でまとめていきたいと思います。思っているだけで、実際はどうなるかわかりませんが、今の段階ですでに「その4」への気配を感じておりますが、まずは3でまとめる方向で書き始めてみたいと思います。それから、ここの記事から目にされた方は「とりあえず、 その1 から読んだ方がいいかもしれませんよ」と、一応お伝えしておきます。 さて(←2回目)何か本を読もうとする時は 「読みたいと思った時に、できるだけ早く最後まで読み通す。読む前に目次に目を通して全体像を把握すると効果的」 という流れをお話ししました。ここで注意していただきたい点は、自分はいわゆる 速読を進めているわけではない ということです。 つまり 「早く読むことが目的」ではなく「途中で読むのを止めるくらいなら、多少読み飛ばしてでも最後まで読んだ方がいい」 ということです。あくまでも「速読ではなく、速読に似た形式になってしまった」ということです。そんな微妙な違いを強調しなくても、と思われるかもしれませんが、微妙な違いでも積み重ねると、大きな違いになりますので、あらためてここで確認させていただきました。 「同じように見える表現でもコンセプトが異なれば、それは異なった表現である」 ということですね。そこから生まれ、発生していくものは別の方向へ進む(可能性がある)と、いうことです。 さて(←3回目)本題に戻しますが、有名なエビングハウスの忘却曲線などを見ますと、すでに記憶した1時間後くらいから急速に記憶の質が低下していくというデータがありまして、学生の頃に初めてこのデータを知った時は「こんな急速に? それはおおげさなのではないか?」と感じましたけれども、実際に進学塾で講師をしてきた自分の経験と照らし合わせてみますと、ここまで極端ではないにしても 記憶の質と量は急速に損なわれていくものだ と感じています。 むしろ 「損なわれたことに、気がついていない」だけで、多くの人がこのデータのように、吸収した(つもり)の情報を、わずか数時間で大量に失っているのだ と思います。気がついていないだけなんですね。 そのように考えますと「勉強する意欲が失せる」といいますか「読んだそばから忘れるのなら、せっかく本を読んだって、ねえ」という気分にもな

効果的な読書の方法とは?(その2)読む前に目次を読む

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・前回のつづき 「読みたいと思っている本を、読みたい時に、一気に最後まで読む」 というルールを設定したところ、読みかけ本の在庫が一掃されて、いい循環が始まったという話をしました。 前回の文章を読んだ方の中には「そんな読み飛ばしただけでは、内容も頭に入ってこないだろうし、無駄なことをしているだけ」と感じている方も多いかもしれない。実は、自分もそう思っていた。 「めくっている時間だって、バカにならない」 とさえ、思っていたわけです。 ところが実際に試してみると 「思っていたよりも、情報を吸収できている」 ということに気がついたわけです。 おそらく自己分析してみるに、今までは「一字一句たりとも読み落したくない」ではないですが、理解できなければ先に進まない、というような意識で読んでいたわけですけれど、その方法だと自分のレベルの理解力の場合、 かなり立ち止まりながら読むことになる→ 途中で集中力が落ちる→ 読むのを止める。 という悪循環の原因になっていたわけです。それ以前に 理解力&記憶力には限界があるわけで、どんなに丁寧に読んでいる(つもり)でも読み落しは生じる ので「止まるくらいなら飛ばして、先に進む」この方法が合っていたのだと思います。 以前、あるパソコンソフトの初心者セミナーに参加した人から聞いた話なのですが、まず最初に 「おおまかな全体像を掴んで、簡単な処理を最初から最後までスムーズに作業ができるようになる」 ことを学ぶべきなのに「ここの線を消すにはどうしたら?」などと、細かな(つまり部分的なテクニック)に関する質問ばかりして先に進めない人がいたそうです。たしかに、その気持ちはわかりますね。 気になるものは気になる。それは仕方ない。でも、 まずは最後まで一通り流れを学んだ後から細かな部分を補足して行く方が、結局理解度も高まるわけだし、それが基本を学ぶということ だよなあ、と思ったわけです。まずは、細かいところはわからないままでも、全体像を把握することを優先する。そうじゃないと「今、自分が学んでいることは、どこの部分でどんな役割をするのか」がわかりませんから、基本の柱が立ちません。 初心者の場合は、特にこれが大切になってくるよなと思ったのです。そして、読書も同じだと思ったのです。最後まで通してみてから、細かい部分を補完していった方が理解度も習

効果的な読書の方法とは? (その1)流し読みでOK 最後まで読むことが大切

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仕事関係の方から「どのような本を読めばいいですか?」「忙しいのに、いつそんなに本を読んでいるのですか?」と、いうような質問を定期的に受けます。 そんな時は 「読まなければならない本、ではなく、その時に読みたいと思った本を読む」「読み始めたら、最後まで一気に読む」 の2つを答えるようにしています。 これは最近自分が体感していることなのだけど、年齢を重ねるごとに「集中力&持続力」が格段に弱くなっていることを実感することが多くなりました。中学生~高校生くらいの時は新書だと2~3時間程度で一気に読み終わり「ああ、もう読み終わってしまった」という感じだったのだけど、最近では気がつくと新書を3〜4日くらいかけて、ようやく読み終わるというようになってしまっていたのです。しかも読み終わるのはまだ良い方で、最初の数ページだけをパラパラとめくり「続きは後で読もう」と、数日は横においておくのだけれども、そのうち書店で新しい本を買ってしまい読みかけの本は棚の隅の方へ、を繰り返すようになってしまっていたのです。これでは 「本を読むのが好き」というよりも「本を買うのが好き」 という感じです。買った段階で満足してしまっているのですね。 そこで自分に設定したルールのひとつが 「読み始めたら、できる限りその日のうちに最後まで読む。とにかく読み終えることを重視する」 ということなのです。購入した時点が「その本を読みたいという感情のピーク」なわけで、そこからは急速に下降していくわけなので「興味の感情が高いレベルを維持しているうちに、最後まで読んでしまおう」と思ったわけです。勢いを重視する、ってことです。だからこそ「読まなければならない本、ではなく、読みたい本」である必要があるわけですね。 ただ、この方法だと今度は 「最後まで読まなければいけない、という苦痛」 が生じるので、楽しいはずの読書が宿題が終わらなければ遊びに行ってはいけません、と同じになってしまうので、さらにひとつ 「今の自分が興味がない、今ひとつ理解できない、と感じた部分は流し読みをしてもよい」 というルールを設定しておきました。そもそも興味がない部分や理解できない部分は、時間をかけて読んだとしても「今の自分には残らない」場合が多いので、本当に必要な部分以外は、さっさと飛ばし読みをすることにしたわけです。本を読むのが

2013年 書き初め

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そして今年も、恒例の書き初めをしてみました。 と、書くと、本物の墨と筆を使って書いたようにも聞こえるけれど、実はこれ「習字ソフト」を使って書いたものです。つまりマウスを使って書いたのだけど、筆圧の具合などが良い感じで反映されるので、ちらりと見た感じでは、あたかも本物の筆で書いたかのように見えるってわけです。 ちなみに今年は「希望」の「希」の字にした。なぜこの文字にしたかというと、実は頭に浮かんだ文字を、とりあえずさらさらと書いてみたら、いい感じだった、というのが実際の理由です。何か重々しい口ぶりで「この文字には・・・」と語りたいところだけど、その方が格式があがるような気もするけれど、しょせんソフトを使って書いているにすぎないので、本当のことをここに書いてみました。