一生懸命に書いた文章が、届く場所。
一生懸命に書いた文章が必ず伝わるという訳ではないけれど、一生懸命に書かなかった文章が誰かの心を動かすということもないだろう。
僕たちの時間には限りがあるし、本当に伝えられるチャンスは、いつだって一回しかない。そして多くの場合「それ」に気がつくのは、すっかり通り過ぎてしまったあとなのだ。すべてが変化してしまってから、ようやく失ったことに気がつくのだ。
だから「伝わらなかった」ことを嘆くよりも、伝えようとした自分の勇気(のようなものを誇ろう)ってことです。それは自分が思っているよりも、ずっとずっとすごいこと、だと思うからです。
少し前にtwitterに上の文章を書いた。そしてつい先日、このことを実感するできごとがあった。
僕は、ある人に「自分のベスト」を尽くした言葉と文章で自分の考えを伝えた。ところが、その人の誤解を解くことはできず、ただ冷たい文章が返ってきただけだった。僕が知りたかったことは、そこには何も書かれていなかった。
ところが、その時の自分は不思議と冷静でいられた。
「自分のベスト」を尽くした言葉で文章を書き、それを読んでもらっても駄目なら、それはそれで仕方がない。僕には、できるだけ正直に、いじわるをすることなく、自分の考えを伝えた確信(のようなもの)があったし、これで駄目なら「もう、この人とは縁がなかったのだ」と思える気がしたからだ。
そう思った直後、その様子を見透かしたかのように、別の方からあたたかいメールが届いた。しかも2人連続で届いた。何か「見えない歯車」がカシャンとはまったような気がした。「それで間違っていないよ」と言われているかのようだった。これは不思議な体験だった。
いつも自分の考えが正しいわけではない。間違っていることの方が多いだろう。それを痛感しているからこそ、僕たちは「どこかに、完全なものがあるかもしれない」と思い逡巡してしまったりもする。そしてそれを見つけることができずに、深い困惑の中に戻ってしまうこともある。
それでも「その時の自分のベスト」を出すことができたのなら、それでいいのだと思う。それで駄目なら仕方がない。それよりも「逃げずに、精一杯考え抜く」ことが大切なのだと思う。そして「不完全でもいいから、それを言葉にして、精一杯相手に伝えようと試みる」ことが大切なのだと思う。
たとえ誤解されても、自分の言葉が「相手に対する思いやり」から発した言葉ならば、きっとそれは大丈夫。いつか、その言葉を必要としている他の誰かのところに届くはず。今、自分はそんな風に考えています。
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