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2012.11.24

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秋の気配 3種

iphone5Sに機種変更する。

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先日iphone5sに機種変更してきた。これまで「3GS→4S→5S」と2年ごとに機種変更をしてきたので、この5Sが自分にとって3代目のiphoneということになる。さすがに3代目のiphoneとなると、予約の段階でも冷静になっていて「4sでも特に不満はないけれど、とりあえず機種変しておくか・・・」程度の感覚でいたのだけれど、実機を手にしてみると「おおっ、やはり新しいのはいいなあ」という気分になった。誰もまだ滑っていない新雪の上を滑降している時の感覚に似ているような気がした。爽やかだ。実に爽やかだ。 思い出してみると、一代目のiPhone3GSを購入した時は「なんて美しいデザインなのだろう。想像以上だ!」と、女性がキラキラした目で宝石を眺める時と同じような気分になったものだった。ショップの店員さんが白い手袋をつけて慎重に作業している様子も高級感を盛り上げてくれて、おおげさにいえば未知の世界に一歩踏み込んだような感じさえあった。「こんなすごいのを購入してしまって、使いこなせるのか? 大丈夫か自分?」とも思った。いやはや、あの時はワクワクしたぜ。 二代目の4sの時は「ジョブズ氏が亡くなった直後にリリースされたiphone」という感慨深いものはあったものの、感情の振れ幅は3GSの時の半分くらいだったような気がする。もちろん誤解がないように付け加えると、icloudの便利さには驚いたし、カメラの性能は「コンデジはいらない」と思うレベルだったし、携帯端末としてデザインも機能も完成度が高かったので製品に対する満足度そのものはかなり高かった。ただ「ワクワク感」が、さほど盛り上がらなかった、ということだ。 それはもしかすると、製品そのものに原因があるのでははく、ジョブズ氏がいなくなったappleに不安を感じたからなのかもしれない。そして同時に「この4Sで、iPhoneの完成型に辿り着いたのではないか。4S以降は、薄く軽くしてカラーバリエーションを増やす感じになるのでは・・・」と、新しいiPhoneに対する期待値が下降気味だったからなのかもしれない。つまり、iPhone4Sはすばらしいアイテムだ。でも・・・という、なんだかややこしい気分になっていたのだと思う。 今から15年ほど前、 僕がMacを使っていたのを見て「Macを使っていると、ビジネスチャンスを逃すよ

ラシーンオイル交換。

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ラシーンのオイル交換をした。 前回「5w-30」のオイルにしたところ、オイル漏れ(にじみ)がひどくなったので、今回は「10w-30」にすることにした。一段階固いオイルにして様子を見てみようというわけだ。 オイル漏れ止めの添加剤を試してみることも考えたのだけど、なにせ古い車だし、添加剤を使用して万が一別の不具合を誘発するようになっては意味がないので、小まめにオイルの油量等をチェックしながら走ろうと思う。 ちなみに現在の走行距離は「147.956km」である。このペースだと年内に15万kmを突破するかどうか、といったところ。ちょうど14万kmを越えたあたりからメンテナンス費用がかさむようになってきたので、このままなにごともなく15万kmを突破してもらえたらと思っている。

旅情をそそられてしまう、ということ。

深夜にコツコツとひとりで作業をしていた。あとひと息なのだけど、なかなか先に進まなくて同じところをぐるぐると逡巡していたら、ふと「どこかもっと遠くへ行こう」という台詞が喉の奥から捻り出てきた。そうか、これが旅情をそそられるってやつなのかな、と思った。 集中が途切れたので、おもむろに、本でも読んで軌道修正をしようと考えた。床の上に積んである本に手を伸ばしたところ、志賀直哉の文庫本が手に触れた。「城の崎にて」を読むことにした。名作である。一気に読んだ。そして水を飲んだ。うまい。 読み終わったあと「なんかこう、よくはわからないけれど、正直に生きていこう」と思った。なぜそう思ったのかはわからないけれど、そう思った。普段そんなことを考えることはないので、記録としてここに書いてみた。書いてみたら気が済んだので、また作業に戻ることにする。おわり

ひたすら遠くまで移動すること。

お伊勢参りのお土産に「赤福」をいただいた。うまい。伊勢神宮へは学生の時に一度だけ行ったことがある。夜行電車を乗り継いで、ひたすら移動するという絵に描いたような貧乏旅行だった。懐かしいぜ。 あの頃は、0泊3日などの日程で、電車の中や道端のベンチなどで仮眠をしながら旅をしていた。今考えると、とんでもないエネルギーだな、としみじみ思う。計画もなしに好奇心に従って行動して、見た目はボロボロ目だけはギラギラ、だったような気がする。 最近でこそ、旅先で「そこでしか食べられないもの」を探して食べたりするようになったけれど、学生のころはコンビニでパンを買ったり、マクドナルドでハンバーガーを食べたりしていた。「旅先でも、いつもと同じものを食べるのがいいんだ」と、わかるようなわからないような理屈で、そんなものを食べていた。 たぶん、その時の自分は「ただ、ひたすら遠くまで移動すること」が楽しかったのだと思う。手持ちの侘しい費用をかき集めて、できるだけ遠くへ少しでも長い時間、移動していたかったのだと思う。目の前の風景が早足に過ぎ去っていく様子を、ひたすら眺めているのが楽しかったのだと思う。 そして今でも自分は、同じように旅を繰り返している。学生の頃よりも、ささやかながら豊かになった資金をかき集めて、オンボロの車にカメラや本を積み込んで移動を繰り返している。ずっと旅をしていられたら、とも思うけれど本当にそうなったら旅が嫌になるのかな?

ipad2をios7にアップデート。

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ipad2をiOS7にアップデートした。 なぜ今までアップデートをためらっていたかというと「ipad2をiOS7にすると、動作がもっさりする」という情報を目にしていたからである。わざわざ最新のOSにアップしたのに動作が遅くなるのでは意味がないので、しばらく放置していたというわけだ。 今週末、急に料理が作りたくなり、ipadでレシピを見ながら作業をしていたのだけれど、野菜を煮込んでいる時に「待っている間、ひまだからiOS7にしよう。この暇な時間を少しでも有効活用しよう」と、ふいに思い立ちアップデートすることにした。と、今、ここまでの文章をざっくりと読み返してみて「2段落目は全部不必要な内容だな」と思ったのだが、せっかく書いたのでこのまま残しておくことにする。と、いうこの文章も不必要ではあるが、まあ残しておくことにする。 さて、実際にiOS7にしてみてしばらく使ってみたのだけど、今のところ不具合もないし、iOS6の時と、さほど変わらず動作している。ひと安心である。このiPad2は主に家族が使用しているので、もしも動かなくなった場合は文句を言われるだろうな、と表面的には平静さを装っていたが内面はひやひやしていたので、ほっとした。近々iPad5(?)が発表されるという噂もあるけれど、しばらくはこのipad2に、現役でフル活動してもらおうと思っている。

伝承園から遠野市立博物館へ 遠野をめぐる旅(完結)

遠野の旅も、のこり2時間 遠野ふるさと村を出た時点で、時刻は午後3時を少し回ったところだった。閉館までの残りは「あと2時間」。長くはないが短いわけでもない。さて、どうしようか。できれば最後に 遠野市立博物館 へは立ち寄りたい。しかし移動の時間などを考えるとギリギリか・・・などと考えている時間さえもったいないので次の施設へ移動することにする。手間や面倒を惜しまずに「とりあえず行ってみる」ことが、旅先では大切なことのひとつなのだ。たぶん。 伝承園でオシラサマと対面 そんなわけで、次に向かったのは「 伝承園 」。 入口で入場券を求めた際に、受付の人が後ろを指差し「よろしければ、ご利用ください」とひとこと。おおっ。さきほど、かっぱ淵で見かけた 観光客がかぶっていた不思議な麦わら帽子 (頭の上にカッパのお皿がついている。写真を撮るのを忘れました)はここにあったのか。 このカッパコスプレ帽子(正式名称は「河童の皿」らしい)をかぶれば、強い日射しの下でも遠野の町をカッパ気分で歩けるというわけだ。少し迷ったが、結局カッパに変身することは止め、人間のままで観光を続けることにする。 ここ伝承園での見所のひとつは「 御蚕神堂 」である。このお堂には 「オシラサマ」が千体展示 されているという。案内板を見ながら、曲がり屋の薄暗く細い建物の廊下を歩き、右に折れ、おそるおそる覗き込んだ部屋の壁一面に、たくさんの人達が願いをかけた「オシラサマ」の姿があった。 ここにこうやって立っていると、人の祈りが集結すると独特の気配が生まれてくるのだ、ということを実感する。誰もいないのに、誰かがいるような感じがする。軽口を叩くことは許されないような、神妙な祈りの念が色濃く詰まっている空間。その力に上から押さえつけられているような感覚がして、部屋の中が実際よりも狭いようにも感じられる。もしも入口付近に「座敷わらし」が立っていたとしても「ああ、座敷わらしか・・・」と普通に受け入れてしまうような雰囲気の場所でした。そんな余韻を残しながら施設の外へ出る。ここで残り時間は1時間を切ったところ。まだ間に合うぞ。さあ締めくくりの遠野市立博物館へ向かおう。ゆっくり急げ。 締めくくりは、 遠野市立博物館 遠野市立博物館 へは閉館の30分前に到着した。受付で入場券を求めると「閉館まで30分ほ