投稿

祖母の教え「カミナリが鳴ったら線香を立てよ」

イメージ
祖母の教え「雷が鳴ったら線香を立てよ」 子供のころ、雷の音に怯えていると 「仏壇に線香を立てなさい」 と祖母に言われたことがあった。「雷様は、線香を立てている家を避けてくれる」という理由だったと思う。   先日連れに「雷が鳴ったら線香を立てよ」の話をした(なぜこの話になったのかは、覚えていない)。僕としては「うちの祖母も似たようなことを言っていたよ」と、同意してもらえるものと思っていた。 ところが予想に反して 「そのような話は聞いたことがない」 と返ってきた。僕はこの「まじない」は、宮城県出身の人たちは知っているものだと思い込んでいたので、意外に思ったのだった。 あらためて考えてみると、祖父は宮城県の出身だけれども、祖母は神奈川県の出身だった。という事は「雷が鳴ったら線香を立てよ」は神奈川方面の風習なのだろうか? それとも、祖母オリジナルの「まじない」だったのか? などと考えながら検索してみると、 いくつかの地域で、同様の風習が存在しているようだった。少なくも祖母のオリジナルでないことはわかった。 連れに「他の地域でも、同じような風習があるらしい」と話すと「そういえば子供の頃には、家に仏壇がなかったと思う」と返事が戻ってきた。なるほどそうか。 仏壇がない家では、そもそも「線香を立てようがない」 。つまり、この風習を伝える場が存在しないのだ。これは盲点だった。 将来、実家にいる時に雷が鳴ったら「 線香を立てろ!」と、子供たちに教えていこうと思う。「そんなの迷信だ!」と反論されたとしても「これはお婆ちゃんから教わった『まじない』なんだぞ」と説明していこうと思っている。 ・Amazonで探す  知れば恐ろしい 日本人の風習: 「夜に口笛を吹いてはならない」の本当の理由とは 佐藤ゼミでは、 文学作品を通して「考えるヒント」 を提供していきます。夏目漱石・芥川龍之介・太宰治・宮沢賢治など、日本を代表する文豪の作品から海外文学まで、私(佐藤)が読んできた作品を取り上げて解説します。ぜひご視聴ください。そして何か気になる作品がありましたら、チャンネル登録(無料)&高評価で応援お願いします。 ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「オンライン文学講座 佐藤ゼミ」

文学作品を「マンガ」で読むのは「あり」なのか?

イメージ
「文学作品をマンガで読むことに反対!?」 私は読書が趣味なので、時間がある時は文学作品を読んでいることが多い。同時に、マンガも読むし映画も見るし音楽も聞く。山に登ってキャンプもする。 以前、文学作品を原作にしたマンガを読んでいたところ「意外ですね!」と言われたことがあった。くわしく話を聞いてみると「(サトウさんは) 文学作品をマンガで読むことに反対している人 だと思っていた」とのこと。 とくに反対運動をしたこともなく、その人の勝手なイメージなのだが、そのように思われていたことが意外だった。とりあえず自分は「文学作品をマンガで読むこと」も少なくないし、どちらかというと推奨したい方である。その理由を、今から考えながら書いてみたい。 ストーリーを把握してから、原作を読む とはいえ、そこまで深い考察をする訳ではないので、結論から書いてしまう。未読作品の中に「興味はあるけれど、ちょっと手が出ない」という作品があると思う。難しそう、とか、長いから、とか、理由は色々だと思うけれど、あなたにもたぶんあると思う。 そんな時、もしマンガ版があるならば、 私ならば先にそちらを読んでみる。 マンガで全体のストーリーを把握してから、原作を手にとる わけだ。このようなことを書くと「ストーリーがわかっていたら、読んでいてつまらないのでは?」と感じるかもしれない。 いやいや、 優れた文学作品は「ストーリーを知っていても、面白みが色あせることはない」 と私は考える。例えば、気に入った映画は「1回目はストーリーを楽しみ」「2回目は詳細な部分を掘り下げながら楽しむ」そして、さらに興味が続くなら3回・4回と繰り返し見るわけだけど、それでも面白みが色あせることはない。私は数年前に、 ストーリーを追う「読書」から、自分自身を映す「読書」 という記事を書いたことがあるのだが、つまりそういうことである。もちろん、 最初から原作を読むにこしたことはない 。 マンガは「絵」で表現されるため、作家の解釈が大きく反映される。 原作とは異なった印象を受けてしまうことは避けられない。この点は意識しておく必要がある。 しかし「未読のまま放置」しておくよりも「一度触れてみる」方が得られることが多いだろう。そこから「よし、原作を読んでみよう」という気持ちになれたのなら

青森土産に「太宰弁当」を、いただいた話。

イメージ
おみやげに「太宰弁当」を 先日、連れが仕事で青森に出張へ行ってきた。帰り際に「おみやげに 太宰弁当 があるよ!」とメッセージが届いた。「太宰弁当?」そのメッセージを見て、私の頭に浮かんだのは「 桜桃 」だった。しかし桜桃と弁当の組み合わせはメインになりにくいだろう。 他には・・・そういえば、以前 斜陽館へ向かう 途中に 「太宰は根曲り竹が好きだった」 という文章を、どこかで見た記憶がある。根曲り竹なら弁当の具材に最適な気がする。などと、弁当の名前から想像を膨らませつつ連れの帰りを待った。そして、渡されたのが、こちら。 ネーミングは「 太宰弁当 」キャッチコピーは 「 太宰治の好物がたくさん詰まっている 」。パッケージは、コートを着用し、物憂げな表情を浮かべて木の前に立つ太宰の写真。なるほど、と、何がなるほどなのかわからないのだが、蓋を開けて中を見てみる。 「 太宰治の好物がたくさん詰まっている 」 若おいおにぎり、貝焼きみそ、けの汁、馬肉のみそ煮、紫蘇巻き梅干し、紅鮭他と、太宰の好物がしっかりと詰め込まれている。美味しそうである。もちろん「 根曲り竹」も入っていた。 「けの汁」も入っていたのだが、汁がないので煮物になってしまっていた。「やはり『けの汁』は外せませんよね?」「そうだね。でも汁ものだから、どうしようかねえ」「汁を抜いて中身だけにするのはどうでしょう?」「それだと『けの汁』じゃなくて『け』になるねえ」などと、失笑しながら企画会議を進めている様子を想像してみる。 「では、 ひきわり納豆はどうします?」「うーん。『ひきわり納豆』は津軽発祥だから、そういう意味でも入れたいけどね」「でも、弁当に納豆が入ると気になる人は気になるでしょうし」「よし、今回は『けの汁』採用『ひきわり納豆』は却下でいくか」などと、 議論が交わされたりしたのだろうか? そんな舞台裏を勝手に想像しながら食べた。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 ちなみに、数年前に弘前へ旅に行った時、個人的に気に入ったのが「けの汁」だった。帰宅後、青森出身の知人に話したところ「今度作ってみますよ。ちょっと待っていてください!」と言われたまま、数年が過ぎてしまった。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 とりあえず気長に待っているの

kindle オーナーライブラリーの使い方が、わからない!?

イメージ
Fire7で「Kindle  オーナーライブラリー」を利用したい。 昨年のアマゾンプライムデーで、 Fire7を購入した ことは以前にも書いた。ほぼ衝動買いで「もしかしたら、あまり活用しないかも」と考えていたのだが、今のところKindle専用端末として活躍してもらっている。 先日「そういえば、Fireタブレットを持っていると、 毎月一冊無料で読める とどこかで目にしたような・・・」と考えた。調べてみるとそれは「 Kindleオーナーライブラリー 」という名前で確かに存在した。Amazonの解説ページによると、 「 Amazonプライムにご加入で、Kindle電子書籍リーダーまたはFireタブレットをお持ちのお客様は、ベストセラーやコミックを含む、2万冊以上の和書、60万冊以上の洋書の対象タイトルの中からお好きな本を、一か月に1冊 無料でお読みいただけます。  (amazonホームページより)」 とのこと。Fire7を使っていても、特にそのような案内が表示されなかった(見落としていた?)ので、気がつかなかったのだ。今更ながら利用してみることにする。 kindle オーナーライブラリー対象本を探す手順は? しかし、ここでまた壁に突き当たる。 「オーナーライブラリー対象本」の探し方が、わからない のだ。Fire7で「Kindleストア」のページへ進み、ざっくりと見渡してもそれらしきページがない。仕方がないので探し方を解説しているブログで情報収集してみたところ、 「 PC版のamazonで対象本を検索したあと、Fire7で検索して利用する」 という方法が良さそうだ、ということになった。 さっそく、PC版のamazonで検索し、気になった本をFire7で検索してみると・・・おお、確かに「オーナーライブラリー対象」の表示がある。この時点で、なかなかの達成感だった。一冊無料で読めるということは、それなりの労力が必要だということを教えてくれているに違いない。たぶん・・・。 ※ちなみに、ブログ等で紹介されている方法を試してみたところ、当方の環境では実行できない方法がいくつかあった。なので混乱を避けるために、具体的な手順は各自 検索し探してみていただきたい。 オーナーライブラリーは、iphoneのKindleで

絵本をつくりました「わたしはあなたでみんなはわたし」

イメージ
絵本をつくりました。 コピーライター(サトウ)とイラストレーター(さとう)の二人で絵本を作りました。二人で作った初めての作品です。たくさんの人に、ご覧いただけるとうれしく思います。 絵本「わたしはあなたでみんなはわたし」は、noteにて全ページ無料掲載中です。 ↓こちらをクリック↓ 🎥こさえる ミニムービー「こんにちは こさえるです!」 🌐こさえるホームページ ↓

uniqloジーンズの色落ち(四年経過)

イメージ
uniqlo セルビッジデニムの色落ち記録 昨年「 このユニクロジーンズの色落ち記録は、今年で終わりにする 」と書いた。なぜ終わりにしようと考えたかというと、実は別のジーンズを購入してしまったため、使用回数が少なくなるだろうと考えたからだった。 ところが、実際に一年過ごしてみると、わりと棲み分けのようなものが出来ていて、それなりにこのジーンズも使用する時間があった。特に、新しく購入したジーンズがやや厚手の生地だったので、夏場などはそれなりに活躍してもらった。 そんなわけで、せっかく相棒として頑張ってくれているし、このブログの中でも「色落ち記録」の記事はそれなりにアクセスもあるし、 ユニクロデニムの色落ち記録を四年間継続している人は少ないのではないか 、と考え今年も掲載しておくことにした。予定は未定。作者の気持ちひとつで、ころころと変化するのである。 使用回数は、今までよりも減ったものの、こうして確認してみると、それなりに育っている気がする。成長期なのかもしれない。4〜5回履いたら、普通に洗濯しているので、メリハリのある色落ちではないが、静かに淡々と成長してくれたと思う。親はなくとも子は育つ、というやつだろうか。使い方を間違っているかもしれないが、つまりそういうニュアンスである。 裾はこのような状態である。波打ったかのような文様が、まるで手で描いたかのように刻まれている。(ちなみに裾は新品時から切っていない。軽くひとまくりすると、ちょうどいい長さだったので、そのまま履いていた)。ちなみに、若い頃はジーンズの裾が長めでも気にならなかったが、年齢を重ねてくると「だらしがない」ような印象になるので、最近は 古着でも、ジャストサイズに裾上げすることが多い。 こちらの写真は、膝の周辺部分。普段はあまり気にかけることがなかったのだが、こうして改めて写真を撮ってみると、それなりに綺麗なグラデーションになっていた。右足の方が色落ちが大きいのは、足を組む時に右足を上にしてその上に手を置いている事が多いからだろう。 そんなわけで、これが私が四年間「育てた」ユニクロデニム(レギュラーフィット)である。 自己主張は控えめだけど、とりあえず淡々と生活している 、ような雰囲気に育ってく

文学を勉強しても、意味がない?

イメージ
文学を勉強しても、意味がない? 以前、といってもだいぶ昔の話。僕が「大学で日本文学を勉強した」と自己紹介したことに対して 「文学なんて個人が好きに読めばいい。わざわざ大学で勉強するものでもない」 と、批判してきた人がいた。 その時僕は「いや、でもしかし・・・」と、戸惑いつつも言葉を返すことができなかった。今よりもずっと若く、理屈よりも感情の方が強かったし「この人は、どうしてわざわざそんなことを言うのだろう?」と不快感や、人前で批判されたという恥ずかしさもあり、冷静に考えることができなかったのだった。 文学作品を、研究するということは 先日、ある本(文学についての研究書籍)を読んでいて、ふとこの出来事を思い出した。そしてあらためて 「文学作品について研究(考察する)こと」 について考えてみた結果、今私はこんな風に考えている。 作品を読んで「どこかモヤモヤした」感覚になることがある。それは、作品に対して「 自分が把握している言葉では、うまく説明できない感覚 」を抱いたということだろう。そのモヤモヤをモヤモヤのままにして、作品を楽しむ人もいる。同じ作家の別の作品を読んで、モヤモヤの中を進んでいこうとする人もいる。 私は、どちらかというと「どうして自分は、この作品に〇〇を感じたのだろう」と、少し立ち止まって考える事が多い。そして文学(小説)だけでなく、映画や絵画において同じような事を考えてみたりもする。 そんな時、作品や著者について解説された書籍を読み、 新しい情報や見解を得ることで「 そういうことだったのか」と、霧が晴れていくような感覚 になることがある。モヤモヤが言語化され、疑問が晴れていく爽快感(のようなもの)もある。 そして作品を読み返してみる。納得したり、新しい視点が生まれたり、また別のモヤモヤが見つか る。 こうして出会った作品と解説のおかげで「ものごとに対する自分なりの見方」を育てていくことができたと思う。そこに社会に出て実体験を加えることで、今自分が取り組んでいるような仕事の基盤を作ることができている。これは 間違いなく「そうだ」 と言える。 必要とされているならば、そこには存在する意味がある。 文学作品を読む、ということは個人的な行為である。しかし私のように、 読んだ 作品に対して 「わからないこと