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【宮沢賢治】ほんとうにいいこと、とは何か?(学者アラムハラドの見た着物)を読む

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「人間がどうしても止めることができないこと」とは? 今回は、宮沢賢治「学者アラムハラドの見た着物」を読んで考えたこと、を解説してみたいと思います。この作品に登場する「学者アラムハラド」は、自分の生徒に 「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」 と質問します。鳥が飛んで鳴くのを止めないように、人間がどうしても止めることができないこと、とは何だろう? と問いかけるのです。 生徒のひとりが「人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。」と答えます。アラムハラドはこの意見に、 「そうだ。私がそう言おうと思っていた。(中略)人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。」 (学者アラムハラドの見た着物より) と答えます。人間は「いいこと」をせずにはいられないし、正義を愛さずにはいられない、とアラムハラドは説明します。すると生徒のセララバアドが、何か言いたそうにしていることに気がつきました。アラムハラドが気がついて、発言するようにうながします。   「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」 (学者アラムハラドの見た着物より) セララバアドは「人間は『ほんとうにいいことを考えること』をやめられないのではないか」と答えるのでした。「いいこと」をするだけではなく「これは、ほんとうにいいことなのか?」と考え続けること。セララバアドはそのように答えたのでした。 ほんとうにいいこと、とは何か? この考え方は、現代の私たちにも大切な考えだと思います。わたしたちは自分たちが「いいこと」と考えることを実行します。しかしそれが「ほんとうにいいこと」であるとは限りません。ある人にとって「いいこと」でも、別の人には「いいことではない」ことがあります。世の中の仕組みが変化して、先月までは「いいこと」だったのに、今月からは「そうではない」ことも起きます。 自分は「いいこと」だと思っていても、大勢の人が別の意見を支持すれば、そちらに流されてしまうこともあるし、結果として誰かを傷つけたり誰かから「ほんとうに、いいこと」を奪ってしまうことだってあるでしょう。厳しいですが、これが現実。だからこそ、セララバアドは「ほんとうにいいこと、とは何だろう?」と考え続けることだと、答えたの

【文学】6月19日は、何の日ですか?【太宰治 桜桃忌】

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さて突然ですが、問題です。 本日「6月19日」は何の日でしょうか? すぐに答えられた人は、かなり文学に興味がある人かと思います。 6月19日は桜桃忌。作家・太宰治の遺体が発見された日 です。 太宰は6月13日に入水自殺します。しかし遺体が発見されたのは6日後の6月19日で、その日は奇しくも太宰の誕生日でした。これにちなんで6月19日を「桜桃忌」として、故人を偲ぶ日になったそうです。 最初は内輪だけの集まりだったそうですが、しだいに若い読者が集まるようになり桜桃忌が始まって10年後には200名以上の参列者がいたとのこと。そして、それほど多くの若者が集まれば、 口論や喧嘩も始まってしまい 会場は雑然とした雰囲気になったようです。 故人を偲ぶために集まったのに、喧嘩が始まってしまう。本来の目的で参列した人たちにはとんでもない迷惑ですが、太宰らしいといいますか昭和の気配を感じるエピソードではないか、と個人的に感じたりもします。 この「桜桃忌」という名称は、太宰治の「桜桃」という作品にちなんで名付けられたのですが、作品の中に主人公が桜桃をまずそうに食べる場面があります。おそらく太宰自身も、口論を始める若者たちに無関心を装いつつ、つまらなそうに桜桃を口に運んでいるのではないか、そんなことを想像してみました。 ちなみに私(佐藤)は桜桃忌に参列したことはありません。太宰の生家である青森県の 斜陽館 や 疎開の家 、弘前市の 太宰治まなびの家 には行ったことがあるのですが、桜桃忌には足が向きませんでした。学生のころに行っておけばよかったかな、とも思うのですが・・・今後の縁に期待してみたいと思います。 【関連】 太宰治疎開の家へ行く 太宰治まなびの家 (旧藤田家住宅)へ行く。 太宰治 斜陽館へ行く 「6月19日は何の日ですか?」 〰関連 「読書」に関する記事 「太宰治」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter 【参考】 Amazonで太宰治の本を探す 【佐藤ゼミ】6月19日は何の日ですか? ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【ゲーム】バーチャファイター再び【PS4でVirtureFighter e-sports】

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バーチャは「八段」になった 前回「 20年ぶりに、バーチャファイターで対戦した 」話を書いた。あれから10日ほど経過し、段位は「八段」になった。「八段」というと、バーチャをやったことがない人からすると「結構強いの?」という印象を受けると思うのだが、そういうわけではない。このあたりまでは、 対戦回数が増えれば自動的に昇段していく 感じだと思う。 段位が上がるにつれて、時々上位プレイヤーとマッチングすることも増えてきた。個人的に強いプレイヤーと対戦する時は、なんとなくテンションが上がる。「上手い人は、どんなプレイをするのだろう?」と、対戦というよりも観察してしまう。 そして実際には、隙のない技で動きを止められ、そこからは何もできずに一気にボコボコKOで終わる。 圧倒的な差を見せつけられると人間というものは謙虚になるもので 、悔しいというよりは「弱過ぎてスミマセン」というような気分になる。再戦を申し込む気にもなれず、そそくさと退場することになる。 体力は落ちるが、精神力は向上する そんな風にして10日間ほど、バーチャで対戦を繰り返してみた。100試合ほど終えたあたりで「あれ? 若い頃の自分より強くなっていないか?」と感じることがあった。もちろん反射神経や対応力は格段に落ちている。 それは間違いない 。画面を見ていて「次はこうなって、こうなるから、こうすれば・・・ああ、攻撃は見えているのに・・・」と頭ではわかっているのに、指が動かなくて攻撃をくらってしまうことも多い。 ただ、多少人生でもまれてきたことで、ややメンタルが太くなってきたため、以前ならば慌ててミスを連発したりするようなところでも、短時間でリカバリーして落ち着いて淡々と対応できる回数が増えてきたことに気がついた。なので負けた時も冷静に自分の試合を振り返って「あの場面はこうすればよかったのか」と考えられるようになっていた(もちろん、それを実行できるかどうかは別問題である)。 自分に「見切り」をつける 同時に自分の限界も見えるので「たぶん、ここから練習しても、このあたりが限界だろう」と、 自分に対する見切りもできる 。努力や挑戦をせずに諦めるのは問題外だが、自分の実力と向き合えずにいたづらにただ時間を費やしてはいけない。人生は限られているから、どこかで見切りをつけ、自分の力を発揮できる分野に時間を費やした方がいい。

【百人一首】春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山(持統天皇)

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百人一首を、よんでみよう。 今回は百人一首から、私(佐藤)が、この時期に「楽しんでみたい一首」を紹介します。 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山 (持統天皇) この歌の舞台は奈良県の香具山。「 山のふもとにある家に夏用の白い衣が干してあるのを見て、夏がやってくることに気が付いた」 というような内容です。私たちも、6月になると衣替えをします。街中で白いシャツを着ている人たちが歩いている様子を見て「あ、もうそんな時期か」と季節の移り変わりに気がつく事がありますが、その感覚に近いのかもしれません。 昔の人たちにとって「山」は神々しい存在でした。奈良県の大神神社では「三輪山」を御神体としていますね。そのような神々しい「山」と、生活感溢れる「衣」という組み合わせも、個人的におもしろいと感じます。あえて 真逆に位置するものを組み合わせることで、コントラストを強めていく。 そのような仕掛けがほどこされているところも、この歌をさらに印象深くしているのではないか、と個人的に考えています。 わかったつもりで、たのしんでみたい 私は、太陽の光が白いシャツに反射している様子を見ると、どこか開放的になるような、無性に遠くに行きたくなるような。高校生の時に原付バイクに乗って、むやみに遠出をしていた頃を思い出して、なんとなく元気になってきます。今から1300年ほど前の時代の人たちも、そのような感覚になったのでしょうか。ここちよい春の陽射しから、夏の力強い気配が近づいてくる。そんな感覚を、当時の人たちと共有できたような気がしたことを覚えています。 ・・・と、ここまでの内容を読んだみなさんは 「この人(佐藤)は、百人一首にくわしいに違いない」 と感じたかと思います。いや、いや、正直に書いておきますと、 全然くわしくありません。 「和歌 = 学校の勉強」という印象で、技法などを少し暗記はしたもののよくわからない。自分には遠い存在だと考えていました。 ところが、40代となったあたりから、ときどき「気になる歌」が目にとまるようになってきました。色々と調べていくと少しずつ 「わかったつもり」 になってきます。奈良へ旅をした時も「ああ、ここがあの・・・」と、初めて行った場所なのに妙に懐かしいような気分になったりもします。少しだけ視界が広がったような気分にもなります。 和歌という

【ゲーム】20年ぶりのバーチャファイター【PS4でVirtureFighter e-sports】

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PS4でバーチャファイター eスポーツを! 6月1日にPlayStation4で「 バーチャファイター eスポーツ 」がリリースされた。前回の記事に書いたのだが、筆者は偶然にもほんの10日ほど前にPS4を手に入れたばかりだった。まさにこれは「ひさしぶりにバーチャをやりなさい」というメッセージなのかもしれない。 これは、大学生の頃に「バーチャ」にはまっていた男が、 20年ぶりに「ネット対戦」に復帰参戦するまでの記録 である。 と、なんとなく大げさな前置きで始めたが、ここからの内容には「攻略法」的なものは含まれない。ただ、40代の筆者が当時を懐かしみつつ、PS4のネット対戦で「バーチャ」をプレイするまでの雑談である。「バーチャファイター eスポーツ」がリリースされたことで、おっひさしぶりにやってみるかな、と考えている 「同世代の元ゲーマー」 に向けて書いてみたいと思う。 筆者(40代)のバーチャ再体験 最初に筆者の「バーチャ体験」を簡単に書いておくと、熱心にバーチャで遊んだのは「VF2」のころである。当時はゲーセンに行くと「今日は何かのイベントですか?」というほどに人が集まっていて、とんでもない熱気の中で対戦が行われていた。次から次へと対戦者が表れてはコインが投入され、それを見ているギャラリーからも良いプレイには歓声が上がったりする。さらにはゲームの勝敗後にリアルファイトが始まったりして、まだ 昭和の気配がのこるような空間 だったように記憶している。 筆者は、せいぜい仲間内では強い方だったけれど、 ゲーセンではボコボコ にされるレベルで、時々連勝する度に「今日は連戦の自己記録更新ができるかもしれない」とドキドキしつつ、あっさりと負けるような感じだった。そこまでガチ勢ではないが、仲間内で攻略法を考えてゲーセンで試してみる程度に「はまって」いた感じである。 社会人になり「VF3」になったあたりから、ゲーセンには行かなくなった。そもそも家庭用のゲームもやらなくなった。そんな感じで、あっというまに対戦をやらなくなったまま、気がつくと20年ほど時間が過ぎていた。もしかすると、これを読んでいるあなたも、同じような感じではないだろうか。 今さら「対戦格闘ゲーム」なんて・・・ そのようなわけで 「今さら、対戦格闘ゲームをやったところで勝てるわけがない。ついていけないだろう」 と、

【太宰治】 (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)人間失格より

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今回は「太宰治 人間失格」から、一場面を紹介します。 (それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?) (そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ) (世間じゃない。あなたでしょう?) (いまに世間から葬られる) (世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) 【 人間失格 太宰治より 】 こちらは主人公の大庭葉蔵が友人の堀木に「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言われたことをきっかけに「世間とはなんだ?」と考察している場面です。大庭は 「世間ではなく、あなた個人が許さないのだ」 と考察していくのですが、この視点は現代を生きる私たちにも必要な視点だと感じます。 私たちは「一般的に」「常識的に」または「あなたのことを思って」などという意見を受けとることがあります。しかしその「一般」「常識」といった言葉が、本当に「一般常識」ではなく 「発言者個人の考え」であることが、少なくないと思う のです。 自分の価値観で切り取ったものを「一般常識」という言葉に置き換えて発言する。そして厄介なことは、発言者本人が「これは一般常識である」と思い込んでいる(または、そうでありたいと考えている)ため「あなたのために」と強烈に押し付けてくることです。 他者の意見に耳を傾けることは重要です。必要不可欠です。 個人的な視点では必ず盲点が生まれ、見落としが生まれてしまう からです。しかし、個人的な価値観を押し付けようとする相手に対しては、私たちも自分を守っていく必要があるでしょう。 (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?) さて、そのように考えた主人公は、友人に対してどのような反論をしたでしょう? そして、どのように振る舞ったのでしょう? この続きはぜひ「人間失格」を読んでみてください。主人公の振る舞いの中に「人間失格」が時代を越えて読み継がれている理由が表れていると、私は考えています。 太宰治は「人間失格」を脱稿した1ヶ月後の6月13日に、入水自殺します。本作品が文豪・太宰治の死の直前に書かれた作品である、ということを思い浮かべながら読んでみると、あたらしい発見があるかもしれません。 【佐藤ゼミ】太宰治「人間失格」を読む 〰関連 「読書」に関する記事 「太宰治」に関する記事 「6月19日は何の日ですか?」 ☝筆者: 佐藤

【ゲーム】中古のPlayStation4を手に入れたら、最初に確認したい設定

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前回、弟から 中古のプレステ4を譲ってもらった話 を書いた。しばらく遊んでから 「最初に確認しておけばよかった」 というポイントが2点ほどあったので、紹介してみたいと思う。身内からプレステをもらった人や、中古のプレステを購入して前の持ち主のIDが残っていた場合(実際には、そんなことはないと思うけれど)参考にしていただきたい。 PlayStation4には「ユーザー登録」が必要 昔のゲーム機だと「電源を入れて、ソフトを差し込めばOK」だったのだが、最近のゲーム機では「ユーザー登録」が必要になる。 PlayStationNetwork(PSN)でアカウントを登録し(無料)使用するプレステと紐づけ なければいけない。 私の場合は、弟のアカウントが残っていたので「初期化」するのも面倒な感じがしていたので、そのまま使っていた。「身内だし、特に問題ないだろう」と、気楽に考えていたのだが、 それは間違いだった。 最初に「自分のアカウント」に切り替えておくべきだったのである。以下、その理由をまとめておく。 アカウントごとに「セーブ」の情報が紐づけられる プレステ4では 「アカウントごとに、セーブデータ」が紐づけられる。セーブしたデータを別のアカウントに移行したり共有することはできない仕様なのだ。 私はそれを知らなかったので、最初に「弟のアカウント」でゲームを始めてしまい、後日自分のアカウントに切り替えてからゲームを始めたところセーブデータの移行ができず 「最初からのスタート」になってしまった。 せっかく、何時間かかけて進めたデータを移行できずに「はい、ではまた最初から」というのはモチベーションが下がるし「また最初からはめんどうだから、もうこのゲームはいいな」となってしまうかもしれないので(私は、そうなってしまった) 「自分のアカウントに切り替えてから、はじめよう」 と失敗談から強調しておきたい。 アカウントの登録は「複数」OK ちなみに、 PS4には「複数のアカウント」を登録 することができる。ゲームを始める時に切り替えればいいだけで「初期化」や「再起動」なども必要ないので、家族や数人で使う場合は、それぞれにアカウントを習得して登録しておけば良い。(詳しい解説は、 PlayStationのサポートサイト で確認を) セーブのデータをコピーしたり共有できないのは、少々面倒な気もす