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夏目漱石が教える「伝わる話し方」とは?

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自分の考えを誰かに説明する、伝えるのは難しいですよね。自分では一生懸命準備をして、情熱をこめて説明したつもりなのに、後で確認してみると全く理解してもらっていなかった。そのような体験をしたことある人も少なくないと思います。 今回は 夏目漱石が「自分の考えを他人に理解してもらうために必要な事」 という内容で説明している一節がありますので、そこを抜粋して紹介したいと思います。 まず最初に漱石は 「自分の頭に浮かんだことをそのまま誰かに伝えたとしても、決して理解してもらえるものではない」 と説明します。それならば、理解してもらうためにはどうしたら良いかといいますと・・・。 丁度学校の講義だとか外国の書物などに能くある通り、判り切た事を幾度も繰返す。もう大抵でよせばよいと思う程に馬鹿馬鹿しくくだらぬ事を明細に説明して居る。併し之は事理を人に知らしめんとするには皆此の様にせねば人をして能く理解せしむる事が出来ぬからであつて、自分の思ひ付きを人に知らしむる為めには是非必要な事である。単に其骨子丈けを云ふても解せらるるものでない。 (夏目漱石「物の関係と三様の人間」より) 自分の頭に浮かんだことを、ただ一度話したところで理解してもらえるようなものではない。学校の授業や外国の書籍のように、 わかりきったことを何度も何度も繰り返し粘り強く説明する必要がある。 自分の考えを理解してもらうためには、そのようなことが必要になる。単にポイントだけを話しただけでは理解してもらえないんだよ、と解説しているんですね。 このアドバイスには、私も非常に共感するところがあります。私は20年以上、教育に関する仕事をしてきました。今までに数百回以上、授業や講義をしてきたのですが、最初の頃は自分なりに準備をして授業をしたにもかかわらず、なかなか生徒に理解してもらえなくて試行錯誤を繰り返していたんですね。 そこで 「大切なところを何回も繰り返す」という授業のスタイルに切り替えてから 、生徒の理解度が向上してきたという体験があったのです。まず授業の最初に「今回の授業のテーマ(ポイント)」を説明してから、実際に問題を解いてもらう、テストをする、生徒に内容を復唱してもらう、など、様々な角度や方法でポイントを授業の中で繰り返していくのですね。このような私の授業スタイルと、漱石先生のアドバイスとの間には少し共通点

夏目漱石の小説執筆術「人工的インスピレーション」とは?

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文章を書く時に 「何かよいアイディアはないか? インスピレーションがひらめく方法はないかな?」 などと考えてしまうことがありますよね。そこで今回は、文豪・夏目漱石が「人工的感興」の中で、インスピレーションについて語った部分がありますので紹介したいと思います。 世にインスピレーシヨンが起らねば筆が執れぬといはれて居るが、インスピレーシヨンは必ずしも待つて、出てくるとは限らない。 (中略) 其意味は気が乗らなければ書けぬといふ事は、事実に相違ない。それは事実には相違ないが、併し気が乗るのを待つてゐなければ書けぬといふのは嘘であらうと思ふ。言ひ換へると、自分が気が乗らなければ、自ら気が乗るやう仕向けるといふことが必要ではあるまいかと思ふ。いはゞ人工的インスピレーシヨンとでもいふものを作り出すやう力めなければなるまいと思ふ。 (中略) 併し人工的インスピレーシヨンの出来し方はどうしたらよいかといふは問題である。これはわからないと答へるより仕方がない。唯自分はどうしてインスピレーシヨンを作るかといふ事だけは語られる。 (中略) そこで自分が小説を作らうと思ふ時は、何でも有り合せの小説を五枚なり十枚なり読んで見る。十枚で気が乗らなければ十五枚読む。そしてこんどは其中に書いてあることに関聯して、種々の暗示を得る。斯ういふことがあるが、自分ならば、これを斯うして見たいとか、これを敷衍して見たいとか、さまざまの思想が湧いてくる。それから暫くすると書いて見たくなる。それをだんだん重ねて行くと、だんだん興が乗ってくる。 夏目漱石「人工的感興」より 一部抜粋 インスピレーションは、ただ待っていれば良いものではないのだ。気持ちが乗らなければ インスピレーションが生まれるように仕向けていく努力 が必要になってくる。それを漱石は「人工的インスピレーション」と名付けているんですね。 そして「人工的インスピレーション」を起こすにはどうしたら良いかと、小説を書こうとするならば、適当な小説を5枚、10枚と読んでみる。それで駄目なら15枚読む。読みながら、その中に書いてあることについて、 色々と考察していくうちにアイデアや「書こうという気分」が高まってくる。 そうなれば適当なところで筆を取る、ということなんですね。漱石が執筆に向けてインスピレーションを高めていく様子がわかって、面白いですよね。

夏目漱石が教える【英語の学習方法】とは?

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これから英語の勉強をしようと考えている皆さんに向けて、夏目漱石が英語の勉強法についてアドバイスしている一節を紹介してみたいと思います。 英語を修むる青年は或る程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山と読むがよい、少し解らない節があつて其処は飛ばして読んで往つてもドシドシと読書して往くと終には解るやうになる、又前後の関係でも了解せられる、其れでも解らないのは滅多に出ない文字である、要するに英語を学ぶ者は日本人がちやうど国語を学ぶやうな状態に自然的慣習によつてやるがよい、即ち幾遍となく繰返へし繰返へしするがよい、チト極端な話のやうだが之も自然の方法であるから手当たり次第読んで往くがよからう 夏目漱石「現代読書法 多読せよ」より一部抜粋 この学習方法には、私も共感するところがあります。私は20年以上、教育の仕事をしてきました。生徒に教える時は、まず最初に「基礎の部分を丁寧に繰り返し」教えていきます。そしてある程度基礎が出来上がったならば、次は「問題演習量を増やす」カリキュラムに変えていくんですね。 基礎を復習することと同時並行で、問題を徹底的に解き続けていく時間を確保していく。受験勉強をしていると、色々と考えてしまって不安になることもあるけれど、まずは問題集を一冊、また一冊と終わらせていくことを目標にする。量をこなすことを優先して問題に触れている時間を増やしていこう、と指導をしていたんですね。 そのようにして学習を進めていくと、6ヶ月とか10ヶ月ぐらい過ぎたあたりで、いつのまにかレベルアップしている自分に気がつく。「なんだか最近、わかる問題が増えてきた」というような生徒が増えていくので、私は現場での指導体験を通してこのような授業をしていたのです。そのようなわけで、漱石先生がこのようなアドバイスをしている、ということを知った時は、すこしだけ自分の指導方法と共通点があるようで嬉しく感じたことを覚えています。 ちなみに「なぜ漱石が、英語の勉強方法について話をしているのか?」と気になった方がいらっしゃるかもしれないので付け加えておきますと、夏目漱石は大学では「英文科」に進学しています。卒業してからは、松山と熊本で英語の先生として教壇に立ちます。その後留学したイギリスでは「英語に関する研究」をして、帰国してからは東京帝国大学の英文科の講師となります。つまり夏

【夏目漱石の手紙】世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが・・・。

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今回は、これから新しいことに挑戦してみたいと考えている人、何かを表現したいと考えている人に向けて、 夏目漱石が芥川龍之介と久米正雄に向けて書いた手紙 の一節を紹介してみたいと思います。   世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。 夏目漱石が、芥川龍之介 久米正雄に宛てた手紙より(一部抜粋) 暗闇の中に火花が見えた時、私たちはそちらに目を向けますよね。そして「明るいな」とか「綺麗だな」と感想を持つ。 感想は持つけれど「記憶」に残ることはない。 何かを表現していこう、ものづくりをしていこうと試みるのであれば、大切なことは「根気」なのだと。うんうん押して、地道に積み重ねていくことが大切なのだと、漱石は芥川と久米に伝えているのですね。 確かに、この考え方は現代を生きる私たちにも必要な言葉だと思います。実際に私は、今までに様々な経営者の皆さんと一緒に仕事をさせていただいてきたのですが、10年20年と事業を継続させている人たちは、 地道な作業をコツコツと継続していることが共通点のひとつ であったと私は感じています。 10年以上一緒に仕事をさせていただいた職人さんがいたのですが、 いつ連絡をしても作業場でコツコツと仕事をされていて、時間をかけて丁寧に作業を続けている姿がとても印象的な方 でした。残念ながら、その職人さんは亡くなってしまったのですが、本当に亡くなる直前まで、これからも仕事を続けていく、まだまだ頑張らなくてはいけない、という気持ちでいっぱいの方でした。今でも、その職人さんのことを考えると「佐藤さん、この前このような仕事をさせてもらいましてね」と熱っぽく話してくださったことを思い出します。そして、自分ももっと頑張らなくてはいけない、と背筋が伸びるような気持ちになります。 もちろん、起業して仕事を続けていくには、表舞台に立って人目を集めるような仕事も必要です。見てもらえなければ存在しないので、 まずは知ってもらうことが大切です。 しかしそれと同時並行で、根気よく地道に推し進めていく仕事も必要です。せっかくチャンスがやってきても、 実力不足ですぐに息切れしてしまっては 意味がありません。そして、そのような人には次のチャンスが与えられないかもしれないからです。 実

【文章力を磨け】学校の成績だけで、才能を決めてはいけない。

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「文章を書くのが苦手です。国語の成績も悪かったし、才能がないんですよね……」 という相談を受けることがあります。この質問に対しまして、私自身の経験を踏まえて少しお話ししてみたいと思います。 まず最初にお話ししておきたい事は、 私(佐藤)は 国語の成績が5教科の中で1番悪かった ということです。5段階評価で、一番よくて4だったと思います。小学校語5・6年生の時の担任の先生に添削してもらった時には「佐藤、お前の文章はよくないよ。面白くない」と厳しめに指導された経験もあります。 クラスメイトに作文が得意なT君という生徒がいたのですが「Tの作文を読んでみろ。こういう文章がいいんだ」などと言われました。そこで私も書き直してみるんですけど、自分では「なかなかよく書けたな」という部分があっても「ここが全然ダメだ」と、 赤ペンで全部削除されてしまう んですね。そんな体験があったので「自分は文章を書くのが苦手なんだ」と子供の頃から思っていました。 今でこそ、クリエイターと呼ばれる仕事をしていますが、当時はそんな感じで「自分にはクリエイター方面の才能はない」と思っていたので、 就職する時も全く別の方向 へ進みました。 そもそもそちらの方向へ進もうとさえ思わなかったのです。 ところが私の場合は、私が書いたキャッチフレーズがちょっとした賞をいただいて 「自分にも少し、何かを書く力があるのかな」 と思うきっかけがあったんですね。そして、雑誌の取材を受けた時に、ライターさんから 「佐藤さんは、広告とかキャッチフレーズを書く才能がありますね。コピーライターとしてやっていけると思いますよ」 などと盛り上げていただいて「自分にもできるのかな」と。そんな感じで、少しずつ仕事として文章を書くようになったのが、30歳過ぎてからなのです。決して早くないし、若手のころからバリバリに評価を受けていたというわけではないのです。 私と同じように、学校の成績が良くなかったから、とか「お前の文書は良くない」と言われてなってトラウマのようになっている人もいると思います。しかしそれはあくまでも 学校の先生の視点からの指導であり、教科書の範囲での評価 なので「表現する力」を正しく評価してるわけではないと思います。あくまでも「あるカテゴリーの中」での評価です。 これから文章力を磨いていきたいとか、何かを表現していく力を磨いてい