ぼくが、涙もろくなった理由。

昨日は、誕生日だった。
と、いっても、目が覚めた瞬間に「ああ、そうか。今日からオレは世界平和のために生きよう」と、劇的に人生観が変わるわけでもなく、盛大な催しがあるわけでもなく、仙台の街で、ひとりの男(←独身)が、静かに年齢をカウントしただけのことなのだが、やはりそれでも、何かと考えることがある一日だった。


就寝まぎわに、ある女性からメールが届いた。
誕生日のお祝いのメールだ。いわゆるデコメールと、いうのだろうか?色々なアイコンが貼付けてあって、いかにも女性らしいメールだな、と思った。

わすれないうちに、とりいそぎ、お礼の返信をしようと思った瞬間に、ふと気がついた。「あれ? この人は、どうやって自分の誕生日を知ったのだろう?」教えた記憶はないんだけどな。

正確に言うならば「7月の末が誕生日なんだ」と、いうような話はした。でも具体的な日時は言わなかったし、聞かれなかったので、そこで話は終了となった。別に教える必要もないし、知ってもらうこともないし、ただ社交辞令というか「今年は真夏日が続くから、たいへんだよね」とか「じゃあ、今度食事でもしようよ」のように、話のつなぎとして話題になっただけのこと。よくあることだ。
でも、彼女は、どこかで調べて、メールを送ってくれたのだろう。もちろん、調べようと思えば、いくらだって調べることができる世の中だ。ちょっと検索すれば、かなりの個人情報を入手することだって、できる。知人に聞けば、数秒でわかる。

でも。と、思った。わざわざ、こうやって調べてくれて、誕生日に間に合わせて、メールを送ってくれたんだな、と思った時に、案外無頓着な感じの人に見えたけど、実は気が利く人だったんだな、とか、彼女の誕生日の時にも、忘れないでメールを送らないといけないな、でも女性に誕生日を聞くのは、なかなか大変だよな、などと一瞬にして様々なことを考えながら、メールを返信した。


メールを送信したあとで、また気がついた。よくよく考えてみれば、以前の自分なら、このようなことは考えなかっただろう、と思った。誕生日のメールが届いて、ありがとう、と返信して、それで終わり。今回のように、送ってくれた相手のことや、手間などに意識を向けることは、まずなかっただろう。

たぶんこれは、自分自身が年齢を重ねて、それなりの経験をしてきて「何かをするには、それなりの手間と時間と、労力がかかるものなんだ」と、いうことを実際に体験してきたことで、相手に気を回すことが、(すこしだけ)できるようになったからだろう。ひどい失恋をしたことがある人が「もう、誰も信じられない」と、落ち込んでいる友人の気持ちに同調して「あんなヤツ、こんど会ったらぶん殴ってやる!」と本気で思えるように、体験をすることで、相手の気持ちや行動を理解できる幅が、広くなってくるということなのだろう。

「歳を取ると、涙もろくなる」と、いうような言葉を耳にするけれど、これは年齢そのものではなく、経験が増えたことで、自分の中の体験と重ねて実感できるようになり、深く心が動くから、と、いえるのではないかな、と思った。脳のしくみとか、いろいろあるかもしれないけれど、そのように考えた方が、経験することの意味にもつながるし、豊かになるし、歳を重ねることに希望のようなものも見つけられそうなので、そう考えることにする。


でも、実際のところは、彼女にしても「とりあえず、メールでも送っておくか」と、気軽な気持ちで送っているだけかもしれないけれど、たぶんそうだと思うけど(過去の体験と重ねることで、過度の期待を抱かなくなる、ということも年齢を重ねる効用のひとつである)まあ、それはそれ。このようなことを、考えてみることができて、よかったことだと思いました。

そんな風にして、年齢を重ねて、体験をして、今は全く泣かないけど、そのうち、ささいなことで涙を流してしまうように、なるのだろうか。でもうちの父親は、ほとんど泣かないから、自分も同じような感じになるのだろうか、などと考えてみた誕生日でした。

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