「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」銀河鉄道の夜(宮沢賢治)より

銀河鉄道の夜「宮沢賢治」


今回は「銀河鉄道の夜」の一場面を紹介してみたいと思います。列車の中でジョバンニとカンパネルラが2人で会話をしている場面です。


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」(九、ジョバンニの切符より)



ジョバンニは、みんなの幸せのためになら、なんだってやる、とカンパネルラに話します。それを聞いてうなずくカンパネルラ。でもジョバンニにはほんとうのさいわい」とは、何なんだろう、と疑問が浮かんでくるんですね。

「ほんとうのさいわい」について考えを巡らせていく、ジョバンニとカンパネルラ。そしてこれからも一緒に進んでいこう、と約束をする2人。2人の気持ちがつながっている様子が表現されている、静かで美しい場面の1つだと思います。

「ほんとうのさいわい」とは何だろう?

ジョバンニは「ほんとうのさいわい」と問いかけ、カンパネルラは「わからない」と答える。確かに私たちも「ほんとうのさいわい」と質問されると、答えられない自分に気がつきます。

私たちは「幸せになりたい」と思って生活していますよね。もっと自分らしく生きたいとか、恋人が欲しいとか、働きやすい仕事を探したいとか、様々なことを思い浮かべながら「これが実現すれば、幸せになれる」と考え、そこに向かって進んでいこうとします。

ところが実際に「それ」が実現したとしても、今度は別の新しい悩みが生まれてくるものです。たとえば恋人ができたとしても、一緒に時間を過ごしてみると価値観の異なる部分が目についてイライラする。自分の考えは理解してもらえているのか? 別のことを考えているのではないか? もしかして浮気をしているのではないか? などと相手が理解できなくて悩む。口論になる時もある。

私にとっては幸せでも、相手にとっては幸せではない時もある。すべての人にとって「ほんとうのさいわい」とは何なのだろう? それは存在するのだろうか? 考えてみても答えは見つかりそうにない。それでも答えを求めて問い続けいく。そのような信仰の世界が表現されている場面ですね。

孤独を、通り抜けた先に

「宮沢賢治は、全ての人が幸せになる方法を生涯をかけて探していた人」だと、私は考えています。賢治自身も、信仰の点で父親と対立をしていました。同じ「信仰」の道を進んでいるにもかかわらず、それぞれに別の神様がいる。対立を深めてしまう。互いに理解できないという孤独感が深まってしまう。

しかし、別の神様を信仰していたとしても、みんなが幸せになる方法はないのだろうか。その先には、何が待っているのだろうか。「ほんとうのさいわい」とは何なのだろうかと、必ずどこかに「それ」は存在するはずだと、あきらめずに何度も何度も問いかけ探していく。そのような作者の思いと姿が、ジョバンニのセリフに込められているのではないか、と私は考えています。

美しい場面が広がる「銀河鉄道の夜」の背景には、作者の深く静かな思考が流れていることを感じます。その気配をとらえつつ「ほんとうのさいわい」について、考えてみたい。銀河鉄道の夜を読みながら、そんなことを考えました。
【動画で解説】銀河鉄道の夜(あらすじ)


佐藤ゼミでは、文学作品を通して「考えるヒント」を提供していきます。夏目漱石・芥川龍之介・太宰治・宮沢賢治など、日本を代表する文豪の作品から海外文学まで、私(佐藤)が読んできた作品を取り上げて解説します。ぜひご視聴ください。そして何か気になる作品がありましたら、チャンネル登録(無料)&高評価で応援お願いします。

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