【文学】太宰治「女生徒」を読む


女生徒 太宰治 を読む

今回は、太宰治の「女生徒」を紹介したいと思います。「女生徒」は、タイトル通り「10代の女子生徒」が主人公です。父親は亡くなってしまい、姉も嫁いでしまったため、母親と二人暮らし。主人公が朝、目を覚ます場面から作品が始まります。


朝は、いつでも自信がない。寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。(女生徒より)


主人公は、目の前の様子やできごとに対して、色々と思いを巡らせていく。それを目の前の人に語りかけていくような、一人語りのスタイルで物語は進んでいきます。

今「物語が進んでいく」という書き方をしましたが、何か特別な物語が展開されるわけではありません。主人公が「朝起きて、学校へ行き、帰宅して、夜寝る」までの1日が、淡々と静かに語られていきます。たとえば、電車の中ですれ違った人たちを見て、


みんな、いやだ。眼が、どろんと濁っている。覇気が無い。(同)

周囲の人間に対する不快感で、頭の中を一杯にしたかと思うと、


ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。(同)

授業中に窓から見える花を眺めながら、人間のよいところを考えてみる。そして、


私は、たしかに、いけなくなった。くだらなくなった。いけない、いけない。弱い、弱い。だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。(同)

自分自身を批評して落ち込んだかと思うと、帰宅の途中に夕焼けを眺めながら、


「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。(中略)それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。 美しく生きたいと思います。(同)

風景の美しさを全身に感じ取り「美しく生きたい」と考えてみる。実に忙しく、そして右から左へと感情のスイッチが切り替わっていく。その様子が、主人公の言葉を通して、流れるように読者に語りかけてきます。まるで目の前で、ほんとうに「女生徒」が語りかけてくるような文体で言葉が紡がれていきます。 

「女生徒」は、ある女性の日記が土台になっている

この「女生徒」を書いた時の太宰治は、30歳。なぜ30歳の男が「女生徒」の心情を、まるで体験したかのように表現できたのか? いくら文豪といえども、30歳の男が10代の女性の心情をここまでとらえることができるものか?

実は、この作品は、ある「女生徒(S子さん)の日記」が土台になっています。太宰のファンだったS子さんが、自分の日記を太宰に送り、それを元に作品として仕上げたのが「女生徒」というわけなのです。つまり全くのゼロから想像し、書き上げたのではなく「日記」を土台にしたことで、この作品が生まれたというわけなのですね。 

太宰治の「凄さ」を感じる作品

私は太宰治の「凄さ」のひとつとして「他者の人生を自分の中に取り込む力」があったのではないかと考えています。日記などの情報から、まるで自分がそれを体験したかのように感じることができる。そしてそこから「作品」として編集し仕上げていく。 

女生徒の執筆にあたり、日記を手にした太宰は「太宰は一読のもとに(中略)魂をさっとつかみとって八十枚の中篇小説に仕立て(回想の太宰治 津島美智子より)」と、一気に作品として仕上げていったそうです。この「さっとつかみとり」「小説に仕立てて」いく太宰の能力を感じ取れるのが、女生徒という作品であると私は考えています。

女生徒の「終わり」の部分

書き出しと終りの部分は全くS子さんの日記には無い。(回想の太宰治 津島美智子)」とのこと。この部分は、太宰の完全な創作であるといえます。それでは、女生徒の「終わり」は、どのような一文で締めくくられるのでしょう。

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。(同)

私たちは、彼女がどこにいるのか知りません。あとにも先にも知ることはないでしょう。そしてもうふたたび、会うこともないのです。


【Youtube版 佐藤ゼミ】太宰治「女生徒」あらすじ解説

【参考】回想の太宰治(津島美智子)

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