iPad miniを見て、思い出したこと。

私の初めてのMacは「perfoma 5270」という機種だった。今からもう20年ほど前の話だ。クラリスワークスで資料を作り、キッドピクススタジオで絵を描いて遊んだのも、今となってはいい思い出だ。それから数台のMacを買い替えてきた。雨の日も風の日も「仕事で使うなら、Windowsにしないと損をする」と言われてもMacを選んできた。新製品が出ると、とりあえず見に行った。そしてそれには「おっ!」と感じるような何かがあった。それは「電化製品を買う」という気分ではなく「未来のワクワクを手にする」というような感覚だったと思う。

その中で「ああ、これはいらないな。たぶん流行らないんじゃないかな・・・」と感じたのが、iPadだった。「なんとなく中途半端な位置づけ」で、どちらかというと「ご高齢の方でパソコンを使うのが苦手な人向けのデバイス」と(個人的に勝手に)思い込んでいたのである。

iPadが発売されてから数年後、実家の両親が購入することになった。両親はiPadで、ネットで検索することを覚え、ニュースや天気を確認し、ネットショップで買い物をし、孫とFaceTimeで会話をするようになった。もはやiPadなしの生活はイメージできないのではないか、と思うほどに浸透していた。そしてそれはあっという間に、年齢問わず様々なところで活用されているのを目にするようになった。iPad(つまり、タブレット)は、私の狭い頭の中で考えているよりも、ずっとずっと世の中に必要とされていたのだ。

何か新しいものに直面した時、私はここに書いたことを思い出す。自分が「必要ないだろう」と感じたことに大きな可能性があるかもしれない。自分の経験と生活の範囲だけで、すべてを理解したと勘違いしないように。今、自分の判断基準になっているものが、数年先もスタンダードである保証など何もないのだと。

先日、連れが新しいiPad mini4を購入した。借りて触らせてもらっている時に、今回のことを思い出した。そして、あと数年もしたならば、Macを使わずにiPadだけで仕事をしているのかもしれないと思った。いや、数年もあれば全く別の新しいデバイスが開発されているかもしれない。願わくば、今度は「それ」を受け取る側ではなく、提供する側に回ってみたいものだ。と、そんなことを考えました。

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