間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。【走れメロス 太宰治より】
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。(走れメロス 太宰治より)」
太宰治「走れメロス」の一場面。 主人公メロスは、王様とセリヌンティウスとの約束を守るために町に帰ろうとしています。しかし残り時間がわずかで、間に合わないかもしれない。そこで「もう間に合わないから、走るのを止めてほしい。せめて自分の命だけでも大切にしてほしい」と訴えかけてきた、セリヌンティウスの弟子に向かってメロスが口にした言葉です。
次々に襲いかかってくる困難を乗り越え「私は信頼されている。」と自分に言い聞かせながら走り続けるメロス。本作品の見どころのひとつだと想います。
「信じるもののために」走る!?
走れメロスは、中学生の国語の教科書に収録されているので、そこで目にした方も多いかと思います。おそらく学校の授業では「友情」「約束」「弱さを乗り越える」というようなキーワードで、解説を受けたのではないかと思います。定期テストで「メロスの性格を表している部分を書き抜きなさい」というような問題を解いた人もいるかもしれません。
しかしながら、大人になり小賢しい知識を手に入れてしまうと「走れメロス」を、素直に読めなくなっている自分にも気がついたりします。
以前、別の記事で解説しましたが「走れメロス」は、太宰治と檀一雄とのエピソードがモデルになっているのではないか、とされています。現実のエピソードに重ねて「メロス= 太宰」とするならば、太宰は人質になっていた友人「セリヌンティウス =檀一雄」のところへ戻ってきませんでした。太宰は「走らず」に将棋を指し、檀一雄も、友情を信じて待っていることはなく、太宰のところ怒って乗り込んで行きます。 実際には物語とは真逆のことが起きていたわけですね。
「現実」と「理想」の世界
おそらく「走れメロス」は、太宰治の理想の世界なのでしょう。それは現実とは正反対の世界であり「現実の自分にはできなかったこと」を表現しているのでしょう。そのようなことを考えながら読んでみると「私は信頼されている。(理想)」は「私は信頼されたい(現実)」の裏返しであり「信じられている(理想)」は「信じられたい(現実)」なのでしょう。
そのような理想と願望が表現されているのが「走れメロス」であり、それを綺麗に裏返して作品にしているのが「太宰治の凄さのひとつ」なのかもしれません。
私は信頼されている。私は信頼されている。(走れメロス)
「信頼されている」と2回繰り返したメロス。これはそのまま、太宰治の「信頼されたい」という気持ちの訴えであり、それでも実際には友人を迎えにいかずに将棋を打ち続ける現実の自分。そこに「自分の弱さを認め、向き合い表現した作家」としての魅力を感じるのか、「好きになれない」と感じるかで、太宰治という作家に対するそれぞれの評価が決まるのかもしれない。今回「走れメロス」を読み返しながら、そのようなことを考えました。