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【名文に触れる】自信が持てず、悩んでいる人へ(夏目漱石 門下生への手紙より)

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他人は決して己以上遥かに卓絶したものではない又決して己以下に遥かに劣つたものではない。特別の理由がない人には僕は此心で対して居る。夫で一向差支はあるまいと思ふ。 (夏目漱石 森田草平宛書簡より一部抜粋) こちらは、夏目漱石が門下生の森田草平へ宛てた手紙の一節です。森田は「自分の生い立ち」に関する悩みを抱えていて、漱石にそれを告白する手紙を書きます。今回紹介した一節は、その手紙に対して漱石が返信したものです。 「他人は自分よりもはるかに優れているわけではなく、また劣っているわけでもない。特別な理由がない人には、そのような考えで向き合っている」 漱石は悩みを抱え、自分に自信が持てないでいる森田に対して、そう伝えていきます。この考え方は、私たちにも大切な視点だと思うのです。私たちは誰かと接する時に、その人に対してまっすぐに向き合うのではなく 「自分(または他者)と比較しながら観察」 してしまいます。 ここは負けた。でもこの部分は私の勝ちだ。無意識ですばやく評価をして上下をはっきりさせたくなるものだと思うのです。そして、 自分の負けを認めることでコンプレックスを強めて しまったり、 相手よりも優れていると考えている部分を必要以上にアピール してしまったりもします。 比較することで「消耗戦」を繰り返さないために しかしそれは結局、 自分自身を消耗させてしまいます。 物事は視点を変えると立場が変化しますし、今までの価値観で判断していると来月にはそれが覆ることもある時代です。 消耗戦ほど不毛な戦いはありません。 そこから何かが生まれることは少なく、ただ時間を浪費してしまったという後悔が残ってしまうものだからです。 誰かと接する時は、狭く偏った自分の評価軸だけで判断するのではなく「相手は自分よりも優れているわけではなく、また劣っているわけでもない」と考えていくことが、様々な視点からも大切になってくるのではないでしょうか。 夏目漱石の「すごさ」とは? 実際に漱石が書いた手紙を読んでいると、相手によって態度を変えることがありません。相手が 子供の読者でも、大人でも門下生でも、相手の自我を尊重して接している ことが伝わってきます。漱石について勉強していくほどに「すごさ」が見えてくる。ぜひ一度、漱石先生に手紙を書いてみたかった。私のような一般人にでも、もしかしたら返信をしてもらえたかもし

【夏目漱石 こころを読む】急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。【文豪の名文に触れる】

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今回は、夏目漱石「こころ(上 先生と私)」から、先生と私が会話をしている場面を紹介します。 「君の兄弟は何人でしたかね」と先生が聞いた。  先生はその上に私の家族の人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。 「みんな善い人ですか」 「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者ですから」 「田舎者はなぜ悪くないんですか」  私はこの追窮に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。 「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」  先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。 【夏目漱石 こころより】 「私」の父親は、体調を崩しあまり良くない状態です。それを知った先生は「父親が元気なうちに、財産を整理してもらった方がいい」と提案をします。 主人公は、なぜ先生がそのような話をするのかわかりません。いつものような雑談だと考えつつも、その背後に 「どこか普段とは違った気配」 を感じますが人生経験の少ない主人公にはそれを理解することができません。 後半の「下 先生と遺書」で、なぜ先生がこのような話をした理由があかされるのですが、そこには先生自身の辛い過去の体験が存在していたことを「私」は把握します。先生は雑談などではなく、 自らの人生で学んだ教訓として語りかけていた のでした。そして、主人公が「それ」を理解するのは、先生が亡くなってしまってからなのです。 「こころ」=「恋愛小説」ではない? 「こころ」という作品は「先生= K = お嬢さん」の三角関係の恋愛小説 だと考えている方も、少なくないかと思います。もちろん「三角関係」というモチーフが「こころ」という作品が読み手の心を捉える重要な役

【仕事】失敗しても、人格は否定されていない。

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失敗しても、人格は否定されていない。 何かを表現するということは、自分自身を表現するということでもあります。それがアート作品のような表現を目的としたものではなく、仕事の企画に関することであったとしても、それは同じだと思うのです。 何日も、時には何ヶ月もかけて準備した企画は、そこには「自分(達)」の意思が込められています。いわば 自分の分身でもあり、家族のような思いを感じる人 も少なくないでしょう。 そのような企画を世の中に発表し、残念ながら失敗してしまった。全く反応が得られなかった。見てもらえない、無視されてしまった。そのような体験をした時は 「企画が失敗した」と感じる以上に「自分自身の人格を否定された = 私はダメな人間だ」と感じて落ち込んで しまうものだと思います。 私が「起業」した時の話 その気持ちは、本当によくわかります。あまり思い出したくない記憶なのですが(笑)具体例として私が「独立起業」した時の話をしてみたいと思います。 当時私は「学習塾」を経営していました。それまでも学習塾に正社員として勤務していたので、一通りのノウハウと体験はあるつもりでした。しかし、生徒募集の企画(広告)などを実行して失敗したとしても 「みんなで取り組んで失敗した = 責任が分散されるのでさほど深刻にならない」 で済んでいたように思います。何かしら自分以外の部分に理由をみつけて言い訳を考えることができたのです。 ところが 起業すると「すべてが自分一人の責任」 になります。すべてを自分で考え、チェックし実践するわけですから、失敗を自分一人で受け止められなくてはいけません。まるで 自分の考えや存在を、世の中から痛烈に批判されているような感覚。自分はここまでダメな人間だったのか、と「ほんとうの自分」と正面から強制的に向き合う時間 。それは、当時の私にとって(なによりも、若かったし)プライドそのものを打ち砕かれるような、痛烈な体験でした。 世の中の人たちは「人格を否定」している訳ではない しかし、世の中の人たちは 「プライド」を傷つけようとしているわけではありません 。ただ単に「あなたの商品(企画)は、未熟ですよ。もっと改良し工夫してください」と言っているだけのことです。 私たちは改善し、学び、世の中から注目されるような工夫を繰り返していけばいいのです。 失敗しても、人格は否定されて

【夏目漱石】あの手紙を見たものは 手紙の宛名に書いてある夏目金之助丈である。(文豪の手紙を読む)

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今回は、夏目漱石が門下生の森田草平に宛てた手紙の一節を紹介します。 余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ満腔の同情を以てサキ棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名に書いてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて目的以外の事は決して起る気遣いはない。安心して余の同情を受けられんことを希望する。 (夏目漱石 森田草平宛書簡より一部抜粋) 森田草平は、漱石に宛てた手紙の中で「自分の生い立ち」に関する告白をします。それは森田が誰にも話せず秘密にしていたことであり、ずっと悩んでいたことでした。それを読んだ漱石は「読み終わって、すぐに手紙を裂いて捨てた。あの手紙を読んだのは夏目金之助(注 夏目漱石の本名は金之助です)だけである。他の人に知られることは決してないから安心しなさい」と返信します。 漱石と森田の間に存在する信頼関係。それは師匠である漱石が「上から意見する」というものではないように感じます。相手の自我を尊重し、あくまでも自分の個人的な意見として伝える。そして、 約束は絶対に守る。 この短いの文章の背後には、そのような言葉と信念のやりとりが感じられるように思います。 秘密を守らないことで、失っていくもの 昨今は「秘密」だったはずの内容が、瞬く間に拡散される世の中です。本来ならば、秘密を公開した人は非難され信頼を失うわけですが、逆に周囲から評価を受け注目を集めるような気配もあります。それは、著名人だけでなく、私たちのような一般人のレベルでも同様で「ちょっと調べれば、大抵の秘密は明らかになる」ような状況です。 私たちは、この状況に麻痺してしまい、いやもう少し正確に表現すると、 秘密を守らないことで失うものの大きさを理解できず に、ただなんとなく手元のスマホで情報を検索しています。そして発信していきます。もはや、私たちが失われたものを把握し理解できることは困難かもしれません。失っていることを気がつかないまま、または、わかっているつもりで生涯を終えてしまうのかもしれない。 言葉のやりとりの背後には「信頼」が存在する。信頼が存在するからこそ、言葉を通した交流が生まれていく。言葉のやりとりとが、簡単にできるようになってしまった、大量生産が可能になった現代では「言葉」も消耗品になってしまった。「軽く」考えられるようになってしまったのではないか。。 漱石の 「あの手紙を見たも

【仕事】若手起業家が、はまりやすい「失敗」とは?

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自分の「アイデア」に酔っていないか? これから起業を目指している20代の方や大学生と話をしていると 「自分のアイデアに酔ってしまっている」 と感じることが少なくありません。「オレのアイデアは凄い!」と 「自分に対する自己評価」が高くなりすぎて、見落としてしまう部分が多くなってしまう のです。 もちろん、自己評価を高くして突っ走れるのも「若さ」の特権であります。私自身も20代で起業しましたが、自分の能力を過大評価しすぎていたため力不足に苦しみ、 ボコボコに叩きのめされました。 そこから「次こそは!」と這い上がれたのも、ありあまる「若さゆえの突進力」のおかげであることは事実です。 しかし、もしも私が起業した20代の頃に戻れるのならば「 自分のアイデア(能力)を過信するな。それだけに頼るな!」 と100回ほど繰り返すでしょう。「わかったよ。しつこいな!」と言われたとしても、さらに300回ほど繰り返すでしょう。 まずは「基礎」が8割 著名な成功者の自伝などを読むと、みな10代の頃から独自のアイデアを企画し、自由奔放なスタイルでそれを実現してきたことが書かれています。彼らの思考を学び自分に吸収しようとすることは、とても大切ですし積極的に取り込んでいきたいもの。しかし、彼らのように 「独自のアイデア」で成功できる人は、全体の数% でしょう。天才的な才能と実践量と運を味方にすることで成し遂げられる世界は、 簡単ではないからこそ注目され評価を受け書籍にもなる のです。 私も含め「普通の人間」がゼロから起業し伸ばしていくならば、まずは 「基礎」を徹底的に実践していく方が近道 です。 仕事は「お客様から、支払いをいただいて」はじめて結果 になります。どうすれば、お金をいただけるものを提供できるのか。何を扱い、学び、実践していけば、それを手に入れられるのかという「基礎」の部分に8割ほどの時間と労力を、スピードをつけて実践していくことが近道です。 基礎が8割 アイデアが2割 しっかりとした 「商売の基本」を実践を通して学び、お客様からの信頼を受けることができるようになってから、少しずつあたためていたアイデアを提供していく と(ほんとうに信頼関係ができているならば)ようやく耳を傾けてもらえるようになります。そこからが、腕の見せ所です。今まで磨いてきた「基礎」に「アイデア」を加えて、自分らしい

【うつくしい日本語】今日からつくつく法師が鳴き出しました。(夏目漱石の手紙より)

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今回は、夏目漱石が、久米正雄と芥川龍之介に宛てた手紙の一節を紹介します。 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでしょう。私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時までもつづいてどうしても日が暮れないという証拠に書くのです。 夏目漱石(久米正雄  芥川龍之介 宛の手紙より一部抜粋) 手紙を書くのは時間がかかります。長い手紙を書くとなれば、それなりに長い時間が必要になります。漱石は「時間がゆっくりと過ぎていく。こんなに長い手紙を書いているのに、まだ日が暮れない」と、久米・芥川の両氏に語りかけるように言葉を紡いでいきます。 この手紙が書かれたのは、8月21日。夏が過ぎ去ろうとしている先には、秋の気配がある。蝉の声に囲まれながら、そのような情景の中に座っている漱石先生の様子が浮かび上がってくる「うつくしい日本語」だと私は思います。 「うつくしい日本語」とは? 先日「うつくしい日本語」という言葉を目にしました。その時私は「うつくしい日本語とは、どのようなものなのだろう」と考えを巡らせました。それはもちろん、その人によっても異なるだろうし、状況や時代によっても変化します。考察する視点によっても異なるでしょう。 そんな時に「では、私(佐藤)にとっての『うつくしい日本語』とは、どのようなものだろう」と考えた時、今回紹介した夏目漱石の一文が思い浮かんだのでした。あらためて読み返してみても、やはり「うつくしい」と感じる。それは、表面的な技巧ではなく、 漱石が存在していた景色と、心情、そして読み手への深くやさしい思い。そのようなものが広がっているこの手紙は、私には「うつくしい日本語」と感じられた のでした。 晩年の漱石先生が、見ていた世界 漱石は、この手紙を書いた年の12月に亡くなってしまいます。漱石にとって最後の夏は、蝉の声に包まれた、すべてがゆっくりと過ぎる時間だったのでしょう。そのようなことを考えながら読み返してみる度に、うつくしさが心に沁みてくるような気がするのです。 【参考文献】 漱石書簡集(岩波文庫) 【佐藤ゼミ】私の「美しい日本語」夏目漱石編 〰関連 「読書」に関する記事 「夏目漱石」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【名言】恋愛とは何か。(太宰治 チャンスより)

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太宰治の「恋愛論」 今回紹介するのは、 太宰治が「恋愛」について書いた文章 です。様々な女性と関係を持ち、魅了してきた太宰治。彼は「恋愛」について、どのようなことを書いているのでしょうか? 少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。 (チャンス 太宰治より) 太宰は「チャンス」という作品の中で「恋愛とは、チャンスから始まるというわけではない」と説明していきます。「ふとした事」「妙な縁」「きっかけ」などで恋愛が始まり、発展したことは太宰自身の経験から一度もない。 どんなに「チャンス」があったとしても、まず最初に 「意思」がなければ恋愛は始まらない。 「いや、自分はふとした事から恋愛が始まった」と主張する人も、それ以前に虎視眈々と 「きっかけ」を作ろうともがいている「意思」があった からこそ関係が始まったのだ、という内容が語られていきます。そして、 恋愛とは何か。曰く、「それは非常に恥かしいものである」と。 (同) このように結論していきます。この「恋愛論」の背後には、恋愛を高尚なものと考える人たちを批判する太宰の思想があります。「恋愛至上主義」という言葉は「色慾至上主義」と言い換えたらどうだ、などと嘯いてもみせます。恋愛は、もっと欲に満ちたものなのだ。ゆえに 「恋愛とは、恥ずかしいものである」 と主張していくのです。 この作品を読んでいると、 妙に納得させられる部分と同時に、うまく言葉にできないような反発心(のようなもの)も生まれてきます。 この矛盾した感覚を与えてくれるのが、太宰作品の魅力のひとつだと、私は個人的に考えています。色々な意味で、いかにも「太宰らしい恋愛論」だな、と私は感じたのですがみなさんはどうでしょうか?  人生をチャンスだけに、頼ってはいけない そして、この作品は「どんなにチャンスがあったとしても、そこに意思がなければ恋愛には進まない」という具体例として、高等学校時代の太宰の体験談が語られたあと、このような一文で締めくくられます。 恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。 (同) この一文には、私個人の体験からもおおいに共感します。チャンスは意思を持ち行動した人のところにやってくる。いや 「意思」を持たない人のところには、それがチャンスであるこ

【人生哲学】速度を上げるばかりが人生ではない(マハトマ・ガンディー)

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確定申告をしながら、考えたこと。 3月である。そして年に一度の「確定申告」の時期である。もう何年も、この作業を繰り返してきたけれど、数字を扱うのが苦手な私は「これで計算合っているよな?」と、緊張しながら書類を作成している。最近では、ネットで書類の作成ができるのでだいぶ楽になった。どうやらスマホでも作成できるらしいので、次回はスマホでの確定申告に挑戦してみようと考えている。 それにしても、1年というのは「あっというま」だ。 学生のころは「1年あれば、なんでもできる」などと息巻いていた し、実際に様々な体験ができたけれど、社会人になると「あれ?」という感じで時間がすぎてしまう。 とくに昨年のように自粛生活が続き、行動範囲が狭まっていると季節の移り変わりも曖昧だし、なんだかよくわからないうちに一年が過ぎてしまったような感覚になる。しかし、確定申告の書類などを整理していると、 忘れているだけでそれなりに様々なできごとがあった ことを思い出す。春先はこんなことをして、夏にはこれに取り組んで、などと移動距離は減ったがそれなりに作業をして「生きてきた」ことを実感する。 「未来が読めない」から「過去を振り返る」 とりわけ 昨年は「過去の自分」を振り返る時間が多かった。 独立起業してからは「次はこれに挑戦して。もっとここを改良して」などと未来に向けて進んできた。次こそは! と次の目標に向けて試行錯誤を続けてきた。 しかし年々情報の流れる速度は飛躍的に加速していくし、それを追いかけていくだけでも膨大な労力を必要とする。そして、そうやって手に入れた情報はあっというまに劣化していく。 「昨日の情報は、古過ぎて使えない」 と感じるほどに、時間は早くなり、ひとつひとつを吟味する余裕さえない。 しかし、私のような一般人にとって「待つ」ことが最善だった昨年は 「過去を振り返る」には最適の時間だった と個人的に感じている。ほとんど目を向けなかった 「自分が積み重ねてきた」ものを整理し「自分にできること。ほんとうにやってみたいこと」 を考える時間を取れたのは、よかったこと、と考えたい。 速度を上げて走り抜ける時期も必要、だが・・・。 ライバルよりも少しでも早く。ほんの少しでも先に。そう考えながら進んでいくことは大切なことだ。その「ちいさな差」が大きな可能性を生むし、私自身もその恩恵を手にしたことが

天災は忘れた頃にやってくる(東日本大震災から10年目に、考えたこと)

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「天才は忘れた頃にやってくる」!? 「天災は忘れた頃にやってくる」 という言葉がある。私は子供のころ、この言葉を 「天才は忘れた頃にやってくる」 だと思っていた。天才というものは、最初から表舞台に登場するわけではない。様々な混沌が起きて「これはもうどうすることもできない」と一般人が嘆いていると、華々しく天才が登場して解決する。そのような歴史上のできごとを「ことわざ」として表現したのだと、思い込んでいたのである。 しかし「天才」」は「天災」であり、全く内容が異なっていた。それを知った時 「天災より、天才の方がかっこいいのに!」 と、妙に落胆した記憶がある。そして「天才は忘れた頃にやってくる」という言葉も、きっとどこかに存在するに違いない、と頑なに考えている子供だったのである。 「天災と国防」寺田寅彦より そんな私も大人になり、文学作品などを読むようになった。そして夏目漱石の資料を調べていた時に 「天災は忘れた頃にやってくる、は 寺田寅彦の言葉である」 という文章を目にした。「これは寺田寅彦の言葉だったのか。さすが漱石先生の一番弟子!」と、妙に感動したことを覚えている。 ところが、確認するために出典を調べてみたところ「寺田寅彦の言葉らしいが、定かではない」ということを知った。講演会で口にしたことはあったが、文章としては残っていない、などと曖昧な状況で「寺田寅彦の言葉」として伝わってきたらしい。 確かに、寺田の随筆を読んでみても、この言葉が記載されている文を見つけることはできなかった(浅学の私が見つけられないだけで、存在する可能性は否めない。もしご存知の方はぜひお知らせください)。しかし「 天災と国防 」という作品の中で、同様の趣旨を解説している部分があるので、ここで紹介してみたいと思う。 悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。「天災と国防」より 数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然

【人生哲学】世間が必要としているものと、 あなたの才能が交わっているところに天職がある(アリストテレス)

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今日は「仕事」について考えてみたいと思います。 誰しも「自分に合った仕事がしたい。自分の力を生かした仕事がしたい」と考えると思います。1日の大半を仕事に費やすわけですから、これは当然のことです。もちろん私もそう考えています。 哲学者のアリストテレスは「仕事」に対して、 世間が必要としているものと、 あなたの才能が交わっているところに天職がある (アリストテレス) と表現しています。自分ができることと、世の中が求めるものが合わさったところに天職がある。確かに、どんなに「オレは、これを仕事にしたい!」と思ったとしても、お金を払って頼みたい人がいなければ、 仕事として成立しません 。 そして「仕事」について考える時、 この部分が的外れになっている人が少なくない ように感じます。ポイントをはずしたままで思考を繰り返しても、本質から離れていくばかりです。アリストテレスの言葉を噛みしめつつ、考えてみたいものです。 「自分には向いていない」場所に、ヒントあり? また、逆の視点から考えてみるならば「自分には向いていない。才能がない」と思えることであったとしても、 世間から要望がある場合は、それが「天職」になる場合 もあると思うのです。 実際に私の場合は「自分には向いていない」と感じている仕事が、天職であったと体験から感じています。私が大学を卒業して最初に就職したのは学習塾でした。正直なところ、私は人前で話したりするというのは「そこまで得意」なわけではありません。苦手ではないけれど、向いているとも思えない。とりあえずがんばれるだけ、がんばってみよう。そのような気持ちで始めたのです。 実際の授業は大変でした。大きな声で説明していると、すぐに声が枯れてしまうし、授業のあとに生徒と「雑談」をするのも苦手だったので、授業が終わったらすぐに職員室に逃げ込むようなタイプの先生で、授業をすればするほど「この仕事は、自分に向いていないのでは」という気持ちが強まっていきました。 ところが、私の授業を休まずに受けてがんばっている生徒と過ごしているうちに「みんなの力になりたい」と思うようになりました。こちらが全力で向き合うと、生徒からも全力の気持ちが返ってくる。受験生を相手にした授業では、そのような熱量が限界点にまで高まっていく瞬間があります。 そんな環境に身を置きながら、がむしゃらに5年

【哲学】常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである。(アインシュタイン)

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最近 「自分の人生に、影響を与えたこと」 について考える機会があった。私の場合「中学・高校の頃に出会ったこと」に影響を受けていることに気がついた。結局のところ、その当時に興味を持ったことを(自分の中で、流行り廃りはあったものの)ずっと続けてきたのだった。 アインシュタインの言葉に、 常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである。 (アルベルト・アインシュタイン) というものがあるけれど、まさにこの感じ。意識的(または無意識的)に10代の頃に出会った情報や経験が「偏見」となって、 私の「ものの見方」を決めていた 。私が今までに行ってきた選択の多くは、この当時に身につけてきた「偏見」によって決定し実行してきたことは、疑いようのない事実であると思う。さらに経験を重ねることによって、それを強めてきたように感じる。 また、アインシュタインは、 原子を割るよりも、偏見を割るほうが難しい。 (アルベルト・アインシュタイン) と言っているけれども、このようにして身につけた偏見を変えることは極めて難しい。原子を割るより難しい。つまり「ほぼ不可能」ということである。 私もあなたもあの人も「偏見」というフィルターを通して世界を見続けていく。 しかし逆に考えるならば、自分の思考が「どのような偏見で構成されているのか?」を観察することができたのならば、多少は偏見の幅を広げられるかもしれない。割ることはできなくても、光を当てる角度は変えられるかもしれない。 そしてこのように考えることも、私の偏見が生み出すものなのだろう。そんなことを考えていくと、何が何だか分からなくなってしまうが「私の偏見コレクション」を眺めつつ、何かを表現していくことを試みていこうと思います……。 【佐藤ゼミ Youtube版】 【佐藤ゼミ ラジオ版】 〰関連 「人生哲学」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

【独学のすすめ】社会人になったら、勉強しよう

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すべり止めしか、合格できなかった・・・。 「今年で、独立起業して19年になります」というような話をすると「この人は、優秀な人なのだな。何か才能があったのだろう」と思われるかもしれません。しかし残念ながら、いろいろな所で話したり書いたりしていますけれども、私は決して エリートでも学歴があったわけでもなく、特別な才能に恵まれたわけでもありません。 集団行動も苦手なので、一番最後に登校して誰よりも早く下校するような、学校の先生からすれば扱いにくい生徒だったと思います。 そんな不真面目な生徒ですから、 高校受験も大学入試もことごとく失敗し両方とも滑り止めしか合格しませんでした。 学歴に関してはコンプレックスの塊のような学生時代だったのです。就職活動をする時も「こんな自分が、倍率の高い会社に就職できるわけがない」と考えていたので、挑戦するわけでもなく、適当に就職活動して採用されたところに勤めることにしたくらいです。おそらく、 この記事を読んでいる皆さんの方が、学校の勉強や成績は良かったと思います し、周りや先生からも期待を受けるような生徒だったのではないでしょうか。 社会人になってから「勉強の方法」が、わかるようになった。 そんな私が、ある程度仕事ができるようになったきっかけは 「社会人になってから勉強の方法が、わかるようになった」 からだと思います。そして「学ぶことのおもしろさ」を、ようやく体感できるように、なったからだと思うのです。 学校教育は、複数の科目を勉強しなければいけません。大量の情報を覚え、テスト会場で発揮できる人が評価されます。 地道なまじめさと、長時間の積み重ね学習が要求 されますから、自分のように気分にムラがあり、バイクを乗り回したり大音量でギターをかき鳴らすことが楽しかったような人間には、到底向いていません。 しかし社会人になってからは、自分の得意分野を徹底的に勉強することで、評価を得ることができます。「売り上げ」のように、明確なデータで自分が積み重なっていることを客観的に判断することができます。 一度失敗しても、もう一度勉強し直して挑戦することもできます。 「10回失敗」でも「1回成功」すれば「あの人は、できる!」と注目されます。20回失敗しても、2回成功すれば「あの人は、また成功した!」と言われたりもします。入試は一発勝負ですが、 人

「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」銀河鉄道の夜(宮沢賢治)より

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今回は「銀河鉄道の夜」の一場面を紹介してみたいと思います。列車の中でジョバンニとカンパネルラが2人で会話をしている場面です。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。 「僕たちしっかりやろうねえ。」(九、ジョバンニの切符より) ジョバンニは、みんなの幸せのためになら、なんだってやる、とカンパネルラに話します。それを聞いてうなずくカンパネルラ。でもジョバンニには 「 ほんとうのさいわい」とは、何なんだろう、と疑問が浮かんでくる んですね。 「ほんとうのさいわい」について考えを巡らせていく、ジョバンニとカンパネルラ。そしてこれからも一緒に進んでいこう、と約束をする2人。 2人の気持ちがつながっている様子 が表現されている、静かで美しい場面の1つだと思います。 「ほんとうのさいわい」とは何だろう? ジョバンニは「ほんとうのさいわい」と問いかけ、カンパネルラは「わからない」と答える。確かに私たちも 「ほんとうのさいわい」と質問されると、答えられない自分 に気がつきます。 私たちは「幸せになりたい」と思って生活していますよね。もっと自分らしく生きたいとか、恋人が欲しいとか、働きやすい仕事を探したいとか、様々なことを思い浮かべながら「これが実現すれば、幸せになれる」と考え、そこに向かって進んでいこうとします。 ところが実際に「それ」が実現したとしても、 今度は別の新しい悩みが生まれてくる ものです。たとえば恋人ができたとしても、一緒に時間を過ごしてみると価値観の異なる部分が目についてイライラする。自分の考えは理解してもらえているのか? 別のことを考えているのではないか? もしかして浮気をしているのではないか? などと相手が理解できなくて悩む。口論になる時もある。 私にとっては幸せでも、相手にとっては幸せではない時もある。 すべての人にとって「ほんとうのさいわい」とは何なのだろう? それは存在するのだろう

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」風姿花伝より

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「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず(風姿花伝)」 こちらは風姿花伝の中にある一文です。 「秘密にするならば花となり人を魅了する。秘密にせずに公開してしまうと、花ではなくなる」 このような解釈になるかと思います。 私が初めてこの一文を目にしたのは、高校生の時だったと思います。古文の資料の中にあったと思うのですが、初めてこの一文を見た時は「なるほどそうか」と。秘密は公開してしまうと力が失われていくものなのだ。一子相伝というけれど、やすやすと公開してはいけないのだな、と考えたことを覚えています。 先日、風姿花伝を読み返したところ、この一文のあとに、このような文章が続いていることに気がつきました。 しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。 (風姿花伝) 「秘事」と聞くと、とんでもなく 貴重な秘訣であり期待してしま けれども、実際には「たいしたことない」ものなのである。だからこそ 「秘密にしておく」ことそのものに意味があるのだ。 そのように解釈できると思います。 成功者しか知らない『秘密』があるのでは? 確かに、これは私自身にも 思い当たる体験 があります。私は「独立起業」した時、成功している経営者の人に会うたびに「うまくいく秘訣を教えてください」というようなことを質問したものです。この質問の背後に 「成功するには、その人たちしか知らない『秘密』があるのではないか」 という考えがあったからです。 ところが、私の質問に返ってくる言葉は「真面目にやること」というような 「普通のこと」 ばかりだったのですね。まさに「させることにてもなきものなり。」という感じです。当時に私は、そのような返事を耳にする度に 「たしかに、真面目が大切なことはわかる、でも本当の秘密は別にあるに違いないし、簡単に教えてはもらえないのだろう」 と感じていたものです。 しかし、実際のところ「真面目にやること」こそが「秘訣」であり本質なのです。経営者のみなさんは「秘訣を隠していた」わけではないのです。なので「 たいしたことないな」と思われるくらいならば、秘密にしておいた方がいい。そして、本当に理解できる人や、ここぞというタイミングに伝えた方がいい。 まさに、風姿花伝に書かれていたことを、実感したのでした。 そじて実際に、これから私が起業する若手のみなさんに質問されたとしても「真面目

「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」【夏目漱石 門 より】

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自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、 「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。 (門 夏目漱石) こちらは、夏目漱石の「門」の一場面です。主人公(宗助)は「親友の妻を奪って結婚してしまった」という過去を持っています。その罪の意識を抱えながら、逃れるようにして生活をしてきたのですが、その「罪」は過去からずっと追いかけてくる。どうあがいても逃げることができない。そのような状況で苦しんでいるわけです。そこで宗助は、その解決のきっかけを宗教に求めます。寺に参禅して、悟りを得ようとするんですね。 今回紹介したのは、宗助10日ほど寺で過ごしたあと、現在の自分の状況を考察している場面です。この 「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」を私なりに解釈 してみますと、目の前の問題を乗り越えようとする時には、 最初の「門」は自分自身の力でこじ開けなければいけない。最初から他者にすがるのではなく「自力」で精進することが肝要 なのだ。また同時に、 精進するならば「やがて、自力で開けられるものなのだ」 と。そのような意味なのではないかと私は解釈しています。  伸びる生徒 伸びにくい生徒 私は教育の仕事に20年以上取り組んできました。そして、実際に多くの生徒を指導してきて感じることなのですが、目の前の壁を越えて「伸びていく生徒」と「伸びにくい生徒」には、共通点があるのですね。 伸びていく生徒は「壁」があったとすると「まずは自力で一生懸命努力をする」のです。先生から与えられた課題を、自分なりに試行錯誤して地道な時間を積み重ね、なんとか乗り越えようとする。その後 「自分なりに頑張ったのですが、なかなかうまくいかないので教えてください」 と相談にくるのです。 私たちは生徒の状況を見ながら「この部分を見落としているから、ここをこのように修正した方いいですよ」「ここを演習すれば、もっとスムーズに進みますよ」と新しい課題を与えます。生徒はわかりました、と素直に取り組んで試行錯誤して、また質問にやってきます。その地道な繰り返しの中で、本当に活用できる実力を磨いていくのですね。 伸びにくい生徒は、課題に少し手をつけた段階で質問にきます。そして 「他の方法はないですか?」 と質問してきます。しかし別のアドバイスをもらったと

鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり【夏目漱石 愚見数則より】

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「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」 これは夏目漱石の「愚見数則」の一文です。この作品は 漱石28歳の時に、当時の学生に向けて書いたもの で、20代の若き漱石先生が、人生哲学といいますか処世術といいますか、そのようなものを学生に向けて激を飛ばしている。頭の中に浮かんでくる言葉を叩きつけてくるかのような勢いと熱意を感じる作品です。 私が「愚見数則」を初めて読んだのは、今から15年以上前のことだと思います。 当時の私は、独立起業して試行錯誤の時間が続いていました。なかなかうまくいかない、そして先が見えない作業の連続の中に、ごちゃまぜになりながら生きていた時期でした。 「鶴にはなれない」かも、しれないが。 そのような時に、何かの資料だったか、書籍だったかに添付されていた「愚見数則」を見つけ流し読みをしているうちに、当時の私の目の中に飛び込んできたのが、この 「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」 の一文でした。 その当時の私は、実力不足や得手不得手など「自分ができること」を直視する時間が続いていたので「オレはやっぱり豚だ。どんなに鶴に憧れても、鶴にはなれないのだ」と感じていたので、この一文が突き刺さってきたのだと思います。 「オレは鶴にはなれないかもしれないが、そうだとしても豚は豚なりに生きていこう。空を見上げる気持ちは忘れないでいこう」 と。 そして「漱石は28歳で、このような教養と思考力と文章を書いた。すでに自分は28歳を過ぎている。 天才と凡才の違いというものは、これほどまでに大きいのか 」などと考えながら、目の前の作業を繰り返していたことを覚えています。 人生を100年と考えるのなら。 もしも皆さんが10代の学生であるならば「愚見数則」を読んで、皆さんの 頭の中に漱石の言葉を取り込んでおく ことをおすすめします。漱石先生は「こんなのは読まなくてもいい」とうそぶくかもしれませんが、読んでおくことに越したことありません。すこし難しいと感じる部分もあるかもしれませんが、分かる部分から目を通しておくだけでも意味があります。 10代以外のみなさんも 「自分の中にある10代」の頃を思い出して 、読んでみることも楽しいと思います。 漱石先生は49歳で亡くなってしまいましたが、現代を生きる私たちは100歳まで生きるかもしれません。これから第2第3

【名言】「日本より頭の中のほうが広いでしょう」夏目漱石 三四郎【名作文学を読む】

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「日本より頭の中のほうが広いでしょう」夏目漱石【三四郎】 今回紹介するのは、夏目漱石の三四郎の一場面です。三四郎には、広田先生という登場人物が出てくるのですが、この広田先生と主人公の三四郎が電車の中で会話をしている場面です。  「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(夏目漱石 三四郎より) 「日本より頭の中の方が広いでしょう」この一文が、とても印象的な場面ですね。私たちは日々の生活をしていると、自覚しているよりも速い速度で思考が狭くなっていきます。 考えるのが面倒になり、今自分が理解できる範囲で世界を切り取ってしまいます。 そのような時に、広田先生の「日本より頭の中の方が広いでしょう」という言葉を読んでみると、確かにそうだなと。精神世界といいますか、発想や想像力などは、現実的な制約がないわけですから、どこまでも広げていくことができる。そのようなことを、ぼんやりと空を見上げるようにして考えてみると、 少し視点が高くなるといいますか、背中を押してもらえる ようなそんな気分になってきます。   三四郎の「時代背景」から では、もう少し、 三四郎が書かれた時代背景などを考察しながら、もう少しこの場面を掘り下げて 考えてみたいと思います。三四郎は、1908年に朝日新聞に連載されました。日露戦争が1904年ですから、戦後の変動期であり西洋の文化や情報が怒涛のごとく押し寄せてきていた時代ですね。 世の中が、意識的無意識的に、 一つの方向に向かって進んでいこうとしている。 強烈な勢いで日本が変容している。そのような時代の中で、夏目漱石は「とらわれちゃだめだ。」と広田先生に言わせています。つまり作品を通して、 日本の現状と社会が進んでいる方向性に批評を行っている わけです。 作品の中でも、 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。(夏目漱石「三四郎」より) と、 痛烈な批評を行っています。「滅びるね」これはおそらく、漱石自身の考

【読書】「あなたは本当に真面目なんですか」夏目漱石「こころ」より

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「あなたは本当に真面目なんですか」 今回は、夏目漱石の「こころ」という作品の中から、ある場面を抜き出して皆さんに紹介してみたいと思います。 この 「こころ」という作品には「私と先生」という人物が登場します。 「私」は、「先生」に対して「先生は、何かを隠しているのではないか?」と、感じています。そして、その隠していること教えてほしい、教えてもらうことによって人生の教訓にしていきたいと考えています。そして「先生に、ぜひ教えて欲しい」と頼むのですね。 しかし、先生は「あなたに教えることではない」と教えてくれません。それでも「私」は諦めることはできなくて、なんとか教えてもらえませんか、と懇願していきます。今回紹介するのは「私」が「先生」に「隠していることを、教えてほしい」と、頼んでいる部分を抜き出して紹介してみたいと思います。 「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」 「私の過去を訐いてもですか」 訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。 「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」(夏目漱石「こころ」三十一より抜粋) 「先生」が「私」に向かって「これから私はあなたに自分の過去を話そうとしている。私の秘密を話そうとしている。それを受け取るあなたは、本当に真面目なんですか」と話しかけています。 「真面目」という言葉が読んでいる私達にもまっすぐに響いてくる。「先生」が何かを真剣に伝えようと決断した雰囲気が伝わってくる 素晴らしい場面だと思います。 小さな好奇心が「過去も現在も未来」も脅かしてしまう 私達には 「誰かの秘密や、過去」を知りたいという欲求 がありますよね。好奇心といいますか、そのような感情があると思います。そして実際に、皆さんが今まさに手にとっている、小さなスマートフォンが一台あるだけで、調べたいと思っ

【人生哲学】自分の「思い込み」に気がつける人はほとんどいない、からこそ。

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あなたの「本当の問題点」は、そこではない 多くの人は、 自分の「本当の問題点」に気がついていません。 全く見当違いだったり、すでにある一定の完成度に達している部分などを「ここをクリアすればなんとかなる」と、時間を費やしてしまっています。 たとえば、長期間売り上げが低迷しているホームページを改善しようと考えたとします。本人(達)は「自分たちに不足しているのは、デザイン力だ。デザインをリニューアルしよう」「まずは、注目されるデザインにしなければダメだ!」と考えて、デザイナーを探して発注しリニューアルを試みます。 しかし、 本当の問題点は「デザイン」だけではない 場合が多いのです。文章かもしれない。ツールかもしれない。担当者の感性かもしれない。そもそも商品企画が時代に合っていないかもしれない。 長期間にわたって低迷している場合は「原因がひとつ」である場合は、まずありません。 複数の要素を見直し、速度を上げて改善していく必要があるものです。しかし、本人(達)は「デザインが最大の問題点」と考えているので、そこにしか視点が集まりません。使える時間と費用をフル活用して「このデザインなら大丈夫だろう!」というサイトへリニューアルします。 その結果、見栄えがよいので「見てもらえる」デザインになるかもしれません。しかし「時本当の問題点」を改善せずに、デザインのみを工夫したとしても、結果にはつながりにくいものです。 「改善するべきは、そこではない」 からです。 私たちは「自分の思い込みを、信じたい」 私たちは 「自分が見たいもの。聞きたいもの」だけを優先します。つまり「自分が問題点だと考えている部分」が、正解だと信じたいのです 。その他の部分を指摘されても「それは大丈夫だと思う」「まずは、これをがんばりたい」と耳を貸さずにやり過ごしてしまいます。そのくらい「本当の問題に気がつく = 自分の思い込みを認識する」のは難しいのです。一部の「成長できる人たち」をのぞき、ほぼ全員が「それに気がつけない」ままに、時間を過ごしてしまうのです。 思い込みを捨てる、ということは、 自分自身の性格を変える、ことと同じ なのかもしれません。 それを変えることは難しい。しかし、変えることができれば、一気に世界が広がっていく。 「オレのこの性格は、もう変えられない」 と、うそぶいたまま100歳まで生きていくのか。

【文章】相手にあわせて、言葉を選ぶ(夏目漱石の手紙より)

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夏目漱石、小学6年生への質問に答える 「こころ」の読者から、漱石のところに質問の手紙が届きました。その質問に対して、漱石が書いた手紙が、こちら。 あの「心」という小説のなかにある先生という人はもう死んでしまひました 名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね あれは小供がよんでためになるものじやありませんからおよしなさい あなたは私の住所を誰に聞きましたか ( 夏目漱石から、松尾寛一への手紙) 質問したのは、小学6年生の少年。その質問に対して漱石先生は、小学生でもわかるような言葉で丁寧に語りかけています。そして、私の住所は誰に聞きましたか、などと、やさしいですよね。とても優しく、 相手に合わせて言葉を選び文章書いている ことが伝わってきます。 私はこの手紙を、漱石の特別展だったか何かで目にしたのですが、読んでいると心が温かくなって「言葉を通した、心のやりとり」を見せてもらったような気がして、嬉しくなったことを覚えています。 自分が理解している言葉 = 相手が理解できる言葉 ではない 私たちは文章を書く時に 「自分が理解している言葉は、相手も理解しているだろう」 と無意識に考えてしまいがちです。また、カタカナ言葉や難しい言葉を使ったりして、すこし 格好よく見せよう 、とも考えてしまいがちです。 その結果、読み手は「言葉を理解する」ことに意識が向いてしまい、肝心の内容理解が浅くなってしまったりします。「この人の文章は、難しいから・・・」と、流されてしまうことも少なくないと思うのです。 言葉を選ぶ時は 「読み手に合わせ、わかりやすく納得してもらえるような。そして、リズムよく読んでもらえる言葉を選ぶ気配り」 といいますか、思考が必要だと思うのです。漱石先生の手紙を読むと、ほんとうにそう思います。 言葉だけで「コミニュケーション」する時間が増えているからこそ 夏目漱石は、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業して、ロンドンに留学。帰国してからは東大の先生をする、という、 最高に頭が良い先生ですから、難解な言葉や専門用語で文章を組み立てることもできるわけです。 しかし、この手紙のように、小学6年生の質問には、相手に合わせた文章を書く。短い手紙の背後にある「やさしさ」のようなものを感じますよね。 最近は「リモートワーク」などと