【太宰治】恋愛とは何か。(太宰治 チャンスより)

太宰治の「恋愛論」

今回紹介するのは、太宰治が「恋愛」について書いた文章です。様々な女性と関係を持ち、魅了してきた太宰治。彼は「恋愛」について、どのようなことを書いているのでしょうか?


少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。
(チャンス 太宰治より)


太宰は「チャンス」という作品の中で「恋愛とは、チャンスから始まるというわけではない」と説明していきます。「ふとした事」「妙な縁」「きっかけ」などで恋愛が始まり、発展したことは太宰自身の経験から一度もない。どんなに「チャンス」があったとしても、まず最初に「意思」がなければ恋愛は始まらない。

「いや、自分はふとした事から恋愛が始まった」と主張する人も、それ以前に虎視眈々と「きっかけ」を作ろうともがいている「意思」があったからこそ関係が始まったのだ、という内容が語られていきます。そして、


恋愛とは何か。曰く、「それは非常に恥かしいものである」と。(同)


このように結論していきます。この「恋愛論」の背後には、恋愛を高尚なものと考える人たちを批判する太宰の思想があります。「恋愛至上主義」という言葉は「色慾至上主義」と言い換えたらどうだ、などと嘯いてもみせます。恋愛は、もっと欲に満ちたものなのだ。ゆえに「恋愛とは、恥ずかしいものである」と主張していくのです。

この作品を読んでいると、妙に納得させられる部分と同時に、うまく言葉にできないような反発心(のようなもの)も生まれてきます。この矛盾した感覚を与えてくれるのが、太宰作品の魅力のひとつだと、私は個人的に考えています。色々な意味で、いかにも「太宰らしい恋愛論」だな、と私は感じたのですがみなさんはどうでしょうか? 

人生をチャンスだけに、頼ってはいけない

そして、この作品は「どんなにチャンスがあったとしても、そこに意思がなければ恋愛には進まない」という具体例として、高等学校時代の太宰の体験談が語られたあと、このような一文で締めくくられます。


恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。(同)


この一文には、私個人の体験からもおおいに共感します。チャンスは意思を持ち行動した人のところにやってくる。いや「意思」を持たない人のところには、それがチャンスであることさえ気がつかないのが実際のところでしょう。最初は偏った「意思」であったとしても、行動し、恥をかいて反省し、それでも湧き上がっていくる意思を抱えてまた行動し、恥をかいて反省する。

そんな風にして「恥ずかしいもの」を「恥ずかしいものだ」と自覚して進めるようになった時、目の前のチャンスに気がつくのでしょう。いや「あの時、行動を始めたことそのものが『チャンス』の始まりだったのだ」と、あとになってから気がつくのかもしれない。

ぼんやりと「チャンスがあればなあ」と待っていても、何も始まらない。絶対に成し遂げてやる、というような「意志 =覚悟」がすべての出発点である。

おそらく、太宰本人にこのような私の考えを説明したとしても、ふふん、と笑って相手にしてもらえないと思いますが、こちらには視線を向けずに壁の方を見ながら、わかってないねえ、とつぶやかれてしまうような気がしますが、とりあえず私は太宰治の「チャンス」を読みながら、そんなことを考えました。


【佐藤ゼミ】恋愛とは何か。(太宰治 チャンスより)

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