鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり【夏目漱石 愚見数則より】

夏目漱石「愚見数則」より

「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」

これは夏目漱石の「愚見数則」の一文です。この作品は漱石28歳の時に、当時の学生に向けて書いたもので、20代の若き漱石先生が、人生哲学といいますか処世術といいますか、そのようなものを学生に向けて激を飛ばしている。頭の中に浮かんでくる言葉を叩きつけてくるかのような勢いと熱意を感じる作品です。

私が「愚見数則」を初めて読んだのは、今から15年以上前のことだと思います。当時の私は、独立起業して試行錯誤の時間が続いていました。なかなかうまくいかない、そして先が見えない作業の連続の中に、ごちゃまぜになりながら生きていた時期でした。

「鶴にはなれない」かも、しれないが。

そのような時に、何かの資料だったか、書籍だったかに添付されていた「愚見数則」を見つけ流し読みをしているうちに、当時の私の目の中に飛び込んできたのが、この「鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり」の一文でした。

その当時の私は、実力不足や得手不得手など「自分ができること」を直視する時間が続いていたので「オレはやっぱり豚だ。どんなに鶴に憧れても、鶴にはなれないのだ」と感じていたので、この一文が突き刺さってきたのだと思います。 「オレは鶴にはなれないかもしれないが、そうだとしても豚は豚なりに生きていこう。空を見上げる気持ちは忘れないでいこう」と。

そして「漱石は28歳で、このような教養と思考力と文章を書いた。すでに自分は28歳を過ぎている。天才と凡才の違いというものは、これほどまでに大きいのか」などと考えながら、目の前の作業を繰り返していたことを覚えています。

人生を100年と考えるのなら。

もしも皆さんが10代の学生であるならば「愚見数則」を読んで、皆さんの頭の中に漱石の言葉を取り込んでおくことをおすすめします。漱石先生は「こんなのは読まなくてもいい」とうそぶくかもしれませんが、読んでおくことに越したことありません。すこし難しいと感じる部分もあるかもしれませんが、分かる部分から目を通しておくだけでも意味があります。

10代以外のみなさんも「自分の中にある10代」の頃を思い出して、読んでみることも楽しいと思います。 漱石先生は49歳で亡くなってしまいましたが、現代を生きる私たちは100歳まで生きるかもしれません。これから第2第3第4の人生が待ってるのですから、学ばない理由はありません。さいごにもう一つ。「愚見数則」の中には、

文章は飴細工の如きものなり、延ばせばいくらでも延る、其代りに正味は減るものと知るべし。

と、このような一文があります。年齢を重ねていくと、どうも話が長くなってしまって良くありません。この記事も3分の1位で良いのかもしれません。5分の1かもしれません。それではこの辺で終わりたいと思います。 


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