湯殿山 注連寺へ

「即身仏」という修行 小学生の頃、何かの本で「即身仏」について読んだことがあった。 書名は忘れてしまったが、 即身仏になる過程をイラスト付きで詳しく解説してある本だった。 その本を読んだ子供の頃の私には、生きながら仏の道に入る修行とは、 あまりにも過酷で現実離れしているように感じられたので「 本当に行われていたこと」というよりは「 架空の世界の話」だと思っていた。 大人になり、実際に即身仏の苦行は実践されていて、複数の即身仏が寺院に現存しているという話を聞いた時(庄内では6体の即身仏が 安置されているとの事)は「一度、拝ませていただこう」 というよりは「あまりにも厳格で尊く、近寄りがたい」という気持ちの方が強かった。 自分のような俗人は、 おいそれと近づいてはいけないのではないか。 厳しい修行をされた即身仏 に対して、観光気分で気軽に訪れるのは失礼なのではないか、 と尻込みしてしまうような感情があったのだった。 ところが今回、 偶然に行くことになった湯殿山神社 で、偶然に立ち寄った店の方から注連寺で即身仏を拝むことを勧められた。 ここまで偶然が重なったのならば、やはりこれはいくべきだろう。 そして 即身仏 の前に座った時、 自分はどのようなことを感じるのだろう。 そのようなことを考えながら向かうことにした。 注連寺で「恵眼院 鉄門海上人」の即身仏を拝む 結論から書いてしまう。 注連寺で 対面させていただいた、 即身仏「 恵眼院 鉄門海上人 」のお姿から受けたものは、 私が事前に想像していたものとは大きく異なっていた。 そこには、前に跪くものを優しく包み込み受け入れるような、 温かい雰囲気が漂っている気がした。 私のような凡人には計り知れない、大きく高い志と 深く広い優しさのようなものが、 その姿に現れている印象を受けたのだった。 即身仏という難行苦行の苦しさは、私には想像することすらできない。そして一生、その状況を体験することはないだろう。しかし、その修行を実践し成し遂げた上人が存在する。そして、こんなにも間近で拝むことができる。貴重な体験、というと浅い表現になってしまうけれども、このようなことを考える時間が得られることができてよかった。 そう心から感じるひとときでした。 湯殿