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【文学】6月19日は、何の日ですか?【太宰治 桜桃忌】

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さて突然ですが、問題です。 本日「6月19日」は何の日でしょうか? すぐに答えられた人は、かなり文学に興味がある人かと思います。 6月19日は桜桃忌。作家・太宰治の遺体が発見された日 です。 太宰は6月13日に入水自殺します。しかし遺体が発見されたのは6日後の6月19日で、その日は奇しくも太宰の誕生日でした。これにちなんで6月19日を「桜桃忌」として、故人を偲ぶ日になったそうです。 最初は内輪だけの集まりだったそうですが、しだいに若い読者が集まるようになり桜桃忌が始まって10年後には200名以上の参列者がいたとのこと。そして、それほど多くの若者が集まれば、 口論や喧嘩も始まってしまい 会場は雑然とした雰囲気になったようです。 故人を偲ぶために集まったのに、喧嘩が始まってしまう。本来の目的で参列した人たちにはとんでもない迷惑ですが、太宰らしいといいますか昭和の気配を感じるエピソードではないか、と個人的に感じたりもします。 この「桜桃忌」という名称は、太宰治の「桜桃」という作品にちなんで名付けられたのですが、作品の中に主人公が桜桃をまずそうに食べる場面があります。おそらく太宰自身も、口論を始める若者たちに無関心を装いつつ、つまらなそうに桜桃を口に運んでいるのではないか、そんなことを想像してみました。 ちなみに私(佐藤)は桜桃忌に参列したことはありません。太宰の生家である青森県の 斜陽館 や 疎開の家 、弘前市の 太宰治まなびの家 には行ったことがあるのですが、桜桃忌には足が向きませんでした。学生のころに行っておけばよかったかな、とも思うのですが・・・今後の縁に期待してみたいと思います。 【関連】 太宰治疎開の家へ行く 太宰治まなびの家 (旧藤田家住宅)へ行く。 太宰治 斜陽館へ行く 「6月19日は何の日ですか?」 〰関連 「読書」に関する記事 「太宰治」に関する記事 ☝筆者: 佐藤隆弘のプロフィール ⧬筆者: 佐藤のtwitter 【参考】 Amazonで太宰治の本を探す 【佐藤ゼミ】6月19日は何の日ですか? ☈ 佐藤のYoutubeチャンネル「佐藤ゼミ」

文豪のラブレター(太宰治)編

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【4回目】文豪のラブレター「太宰治 」編   【文豪のラブレター】シリーズも4回目。今回は、太宰治が、ある女性に宛てた手紙を紹介します。あの太宰治は、いったいどのようなラブレターを書いていたのか? ファンならずとも気になりますよね・・・。 拝復 いつも思つてゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思つてゐました。正直に言はうと思ひます。(太田静子宛ての手紙より) こちらは、 太宰治が太田静子に宛てた手紙の冒頭です 。この時太宰は結婚していたので、いわゆる「愛人(正確には、この段階では男女の関係にはなっていませんが)」へ宛てたラブレターということになります。 太宰の作品を読んでいると「直接、自分に語りかけている」かのような「他の人には言えないけど、あなたにだけは話しておきたい」と、いうような気分になる時がありますが、この手紙も「目の前で、静かに語りかけてくれているような」気持ちになる、太宰らしい文章だと思います。 「いつも思っています」「いつも思っていました」「正直に言おうと思います」 冒頭で「思う」という言葉が、三度連続で続きます。太宰は意図的にこのような書き方をしたのではない、と「思い」ますが、読んでいると本当に自分のことを「思って」くれているのだな、と感じる文章だと思うのですが、みなさんはどう感じましたか? 一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい  コヒシイ この手紙は、太宰の周辺の出来事が綴られたあと「コヒシイ」という言葉で結ばれます。最後に「コヒシイ」と気持ちを伝える。色々な意味で「太宰らしい」魅力が詰まった手紙だと思います。興味がある方は、ぜひ研究(?)してみてください。 太宰治疎開の家 この手紙を書いていた時の太宰は、戦時中のために実家の青森へ疎開していました。現在でも太宰が疎開していた家が 「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」 として、青森県の五所川原市に保存されています。 私も数年前に「太宰治疎開の家」を訪問したことがあるのですが、実際に太宰が執筆していた書斎で「あの作品は、ここで書かれたのか」と当時の様子を想像する時間は、ほんとうに楽しいひとときでした。 「太宰治疎開の家」を訪問した時の記事はこちら 「太宰治疎開の家」は、 斜陽館 からでも徒歩で移動できる場所にあるので、興味がある方は足

【文学散歩】太宰治「まなびの家」へ行った時の話

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「太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)」へ行った時の話 前回のコサエルラジオでは、太宰治の 斜陽館 と 疎開の家 へ旅をした時の話をしましたが、もう一つお勧めのスポットがあるので今回追加で紹介してみたいと思います。 青森県弘前市に、太宰治が旧制弘前高等学校に通っていた時に下宿していた家が「 太宰治まなびの家(旧藤田家住宅) 」として保存されています。そこでは、太宰治の勉強部屋が当時のままに保存管理されているので、その当時の雰囲気に触れることができるのですね。 太宰のファンの皆さんならご存知だと思うんですけれども、この時期の太宰治は、 作家の芥川龍之介に傾倒 していました。当時のノートには、太宰本人が書いた芥川龍之介らしい似顔絵や「芥川龍之介 芥川龍之介 芥川龍之介」と、何度も芥川の名前が落書きされているページも見つかっていて、学生時代の太宰にとって芥川龍之介は憧れの存在だったことがわかります。 芥川龍之介には、顎の下に手を当てている有名な「芥川ポーズ」があるのですが、太宰もその格好を真似て写真を撮っています。その写真を撮ったのが、この家だというエピソードもあるので、カメラの前でポーズを決める太宰の様子を想像しながら見学するのも楽しいのではないかと思います。  あこがれた「芥川龍之介」の影響は遠く深く 芥川龍之介は、太宰治が高校1年生の時に自殺をしてしまうのですが、学生時代の若い太宰にとって 「憧れの人が自殺する」という出来事は、相当な衝撃 を与えたという事は想像するに難くありません。ちょうどそのあたりから、太宰は色街に通うなど放蕩生活を送るようになったのも、芥川龍之介の影響があるのかもしれません。 これは個人的な感想なのですけれども、後に太宰治も女性と心中自殺をすることになりますが「自殺」という選択肢が、彼の中に存在するようになったきっかけは、芥川龍之介の影響が少なくないのではないか、と思います。高校生の多感で情熱が溢れていた太宰の学生時代を想像しながら、斜陽館から足を伸ばして訪問してみることをおすすめします。 それにしても、歴史に名を残す文豪ともなると、ノートの落書きなんかも公開され研究対象として様々な人にじっくりと見られてしまうわけです。個人情報保護どころの騒ぎではないですよね。太宰もあの世で赤面しつつ・・・いや、知らないふりをしてやり過ごしているのかもしれま

青森土産に「太宰弁当」を、いただいた話。

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おみやげに「太宰弁当」を 先日、連れが仕事で青森に出張へ行ってきた。帰り際に「おみやげに 太宰弁当 があるよ!」とメッセージが届いた。「太宰弁当?」そのメッセージを見て、私の頭に浮かんだのは「 桜桃 」だった。しかし桜桃と弁当の組み合わせはメインになりにくいだろう。 他には・・・そういえば、以前 斜陽館へ向かう 途中に 「太宰は根曲り竹が好きだった」 という文章を、どこかで見た記憶がある。根曲り竹なら弁当の具材に最適な気がする。などと、弁当の名前から想像を膨らませつつ連れの帰りを待った。そして、渡されたのが、こちら。 ネーミングは「 太宰弁当 」キャッチコピーは 「 太宰治の好物がたくさん詰まっている 」。パッケージは、コートを着用し、物憂げな表情を浮かべて木の前に立つ太宰の写真。なるほど、と、何がなるほどなのかわからないのだが、蓋を開けて中を見てみる。 「 太宰治の好物がたくさん詰まっている 」 若おいおにぎり、貝焼きみそ、けの汁、馬肉のみそ煮、紫蘇巻き梅干し、紅鮭他と、太宰の好物がしっかりと詰め込まれている。美味しそうである。もちろん「 根曲り竹」も入っていた。 「けの汁」も入っていたのだが、汁がないので煮物になってしまっていた。「やはり『けの汁』は外せませんよね?」「そうだね。でも汁ものだから、どうしようかねえ」「汁を抜いて中身だけにするのはどうでしょう?」「それだと『けの汁』じゃなくて『け』になるねえ」などと、失笑しながら企画会議を進めている様子を想像してみる。 「では、 ひきわり納豆はどうします?」「うーん。『ひきわり納豆』は津軽発祥だから、そういう意味でも入れたいけどね」「でも、弁当に納豆が入ると気になる人は気になるでしょうし」「よし、今回は『けの汁』採用『ひきわり納豆』は却下でいくか」などと、 議論が交わされたりしたのだろうか? そんな舞台裏を勝手に想像しながら食べた。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 ちなみに、数年前に弘前へ旅に行った時、個人的に気に入ったのが「けの汁」だった。帰宅後、青森出身の知人に話したところ「今度作ってみますよ。ちょっと待っていてください!」と言われたまま、数年が過ぎてしまった。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 とりあえず気長に待っているの

太宰治まなびの家 (旧藤田家住宅)へ行く。

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私の人生は、運が60%。才能が5%。 10月の連休に、旅に出ることにした。 初日、まず最初に向かったのは「 太宰治まなびの家 (旧藤田家住宅)」だ。昨年訪問した「 斜陽館 」と「 太宰治疎開の家 」にひきつづき、一度行ってみたいと思っていた場所である。斜陽館も、疎開の家も、そして、学びの家も、高校生の時に太宰の作品を読んでから「行ってみたいものだ」と思いつつ、なかなか行けなかったのだが、一度タイミングが合えば、このようにとんとん拍子で訪問できるわけである。まさに、人生とはタイミングと運である。 ちなみに私の人生は、60%が「運」であると思う。のこりの20%が「偶然」で、さいごの20%が「才能」だと思う。いや才能なんて「5%」くらいかもしれない。ほとんど運と偶然に支えられてきた。年齢を重ねるごとに、そう実感するようになってきた。 太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)へ さて。 太宰治まなびの家は、太宰が官立弘前高等学校に在学していた三年間、下宿していた場所である。カーナビを頼りに指示された方向へと進んでいくと、静かな住宅街のなかに「それ」はあった。 斜陽館の時には、案内の看板などが増えていくにしたがって「おお、いよいよ斜陽館が・・・。あの角を曲がったあたりに・・・」と、気分が高揚したものだったが、まなびの家の場合は周辺が住宅街だったこともあり「あれ、ここかな?」というような感じだった。もしかして、あまり見るところはないのかな、というのが第一印象だった。 「学生の頃の太宰」を感じる部屋 しかし、安心していただきたい。当時のままに保存されているという太宰の部屋は、大正時代の面影がそのままに残っている「ああ、まさに、ここだ」というような空間だった。当日は小雨が降っていたのだが、その淡い光量もよかったのかもしれない。いかにも静かで、落ち着いてして、そしてどこか湿っぽい雰囲気が「学生の頃の太宰」を、連想させるような印象を醸し出していた。 太宰は、この部屋で何を見て、何を考え、そして何をしようと思っていたのだろう。芥川に憧れた青年は、自分が文豪と呼ばれる人物になることを想像していただろうか。もちろん、そんなことも考えてはいただろうけれど、それよりは恋愛のことが思考の中心になっていたのではないだろうか

iPhoneに革製ストラップ(亀屋革具店)

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iPhoneに革製 ストラップ 先日弘前市へ旅をした。その時に立ち寄った「亀屋革具店」にて注文した、ストラップが届いていた。 手にすると、しっくりとくる手触りで、とてもいい感じだった。色味は、使用していくにつれて深みを増していくわけだが、個人的にはこの段階の、やわらかくて透明感のあるトーンも気に入っている。そのうち一儲け(?)したならば、この色で大きめのトートバックを作ろうかと考えているくらいだ。と、そのくらいこの色味が気に入っているということを、無駄に主張してみた。 ちなみに、連れも同じ物を注文したので、同じ物が2つ届いた(当然である)。その時は特に気にしなかったのだが、よくよく考えると「お揃い」である。別にストラップくらいお揃いでもいいかと思うのだが、なんとなく照れくさく感じてしまう。連れは、特に気にしていないようだし、まあひとつくらいはお揃いになってもいいかな、とも思ったりしている。 1年後のストラップ(2017年12月更新) 購入してから一年後、このストラップがどのように「育った」のかを、記録しておきたい。あの肌色の透明感のある色味はどのように変化したのか? ご覧いただきたい。 しっかりと「飴色」に育ちました。 艶も良く、大人の風格を漂わせた色合いへと成長してくれました。特に何か特別なメンテナンスをしたわけではなく、毎日普通に使っていただけなのですが、いい感じに育ってもらえたのでよかったです。 裏も同様の色合いに変化している。 亀屋革具店のロゴマークも、しっかり残っていていい風合いになっている。全体的に丈夫で、擦り切れたり弱ったりしている部分はないので、このまましばらく愛用していきたいと思います。さてさらに1年後には、どのような風合いに変化しているのか? 2年後のストラップ(2018年10月更新) 連れが仕事で弘前に出張に行くというので「時間があれば、 亀屋革具店に寄れたらいいね」という話になった。そこでふと、ここにストラップについての記事を書いたことを思い出した。せっかくなので、現在の様子をアップしてみようと思う。 こちらが、二年二ヶ月経過した 亀屋革具店のストラップである。写真ではわかりにくいのだが、よく接触すると思われる部分の色味が濃くなり、

太宰治疎開の家「旧津島家新座敷」へ 太宰をめぐる青森への旅(2)

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太宰治疎開の家「旧津島家新座敷」へ 太宰治疎開の家 (旧津島家新座敷)は、斜陽館の混雑ぶりとは対照的に静かで落ち着いた場所だった。ここには40分ほど滞在したのだけど、僕達の前に一組。後に一組。わずか、それだけしか訪問する人がいなかった。 ところが、そう、ところが太宰が好きな人にとっては、この場所は 絶対に外せない場所 である。パンフレットによると「新座敷は、文壇登場後の太宰の居宅として唯一現存する邸宅である。」とあるように、ここは実際に太宰が滞在して執筆した場所に触れることができる、数少ない貴重な場所なのだ。 ここは「パンドラの箱」が執筆された家 太宰はここに、昭和20年7月末から昭和21年11月まで滞在した。この間に、仙台出身の自分には思い入れのある「パンドラの匣」も執筆されたとのこと。あの、 「やっとるか。」 「やっとるぞ。」   「がんばれよ。」 「ようし来た。」 (パンドラの匣より) が執筆されたのが、まさにこの場所だと考えると頬がゆるんでくるような気がする。この天井を見上げて「ふうむ」とペンを走らせていた様子を想像していると、 太宰が実際にこの世界に存在していたのだ ということを体感できたような気がする。 と、いかにも色々なことを知っているような素振りで書いているけれども、実は僕自身ここに来るまで、この事実を知らなかった。 現地でいただいたパンフレットを見て知った のである。 いやはや、ここに立ち寄って良かった。「ちょっと疲れたし、斜陽館は見たし宿へ行ってゆっくりするか」と、くだらないことを考えなくて良かった。やはり旅先では「よし、時間があるからここにも行ってみよう」と、足を伸ばすことが大切である。意外とそんな風にして立ち寄った場所で出会ったできごとが、目的地よりも大きな収穫を得る事ができるのも少なくないものである。 さらに幸運なことに、僕達が訪問した時には他に訪問客がいなかったため、店長さん(と、いう表現でよいのだろうか?)から解説をしていただくことができた。 「作品のこの部分に書かれているのが、この部屋です」 「え? あれって、この部屋だったのですか?」と、作品世界と現実の世界とがリンクしていく。それは、実際に現地を訪問したから体感できる素

太宰治の生家「斜陽館」へ行く 太宰治をめぐる青森への旅(1)

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「斜陽館」へは、行くことができなかった。 今年の5月の連休は、4日間ほどかけて青森方面に旅してきた。色々な場所へ行って色々なものを見てきたのだけれども、僕にとって今回の旅のハイライトは「 斜陽館 」を訪問できたことだった。 今までにも青森へは何回か旅をしてきたけれど、 なぜか斜陽館へは行くことができなかった 。時間的に厳しくなって予定を変更したり、吹雪と大雪で道路が通行できなくなってしまったりなど、など。とにかく様々な理由で訪問することができなかったのである。 ここまで縁がないということは、もしかすると、このまま永遠に訪問できないのではないか? なにかしら見えない力が働いて拒絶されているのではないか。とまあ、そのようなことを冗談まじりに考えつつも、意外と本気で「今度こそ! いやもしかすると今回もまた何かトラブルが起きて…」などと考えつつ、仙台から出発したのであった。 そして「斜陽館」へ向かう 斜陽館へは旅の二日目に向かう予定だった。弘前から岩木山神社へ向かい参拝後、白神の森を歩いてから、最後に金木町へ向かう計画だった。少々タイトなスケジュールではあったけれどもトラブルや渋滞などがなければ、スムーズに到着する予定だったのだが… … 。 と、さも何かトラブルがあったかのような書き方をしてしまったのですが、実際はほぼ予定通りに金木町に到着することができた。順調に進む時というのは、まあこんなものである。駄目な時は、どうあがいても駄目なのだが、うまくいく時はさらさらと流れていくのである。 写真で何度も見た、あの「斜陽館」と対面。 カーナビと看板の案内を確認しながら、斜陽館に車で近づいていく。(直進。次の交差点を右です。まもなく目的地付近です) 進行方向の右手に、写真で見た「あの建物」があった。おう、やったぜ。とりあえず、ここにこうやって到着できたというだけでも、今回の旅は成功だったと思えるほど嬉しかった。 仙台市から斜陽館まで、車で約370km。さほど遠くはないが、近くもない。とにもかくにもとうとう来たぜ。おそらくこの時の僕の顔には、かなりの達成感が漂っていたに違いない。 駐車場の前に立っていた係員が近づいてくる。「駐車場が満車だから、そこの銀行の前に止めてくれ。大丈夫だから」と

初夏の青森を巡る旅 番外編 おいしかったものたち。

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青森で出会った、おいしかったもの「十和田バラ焼き」 旅の合間の楽しみといえば、地元ならではの「おいしいもの」を食べること。今回の青森旅行でも、おりおりで美味しいものに出会うことができた。 その中でも印象に残っているのが「 十和田バラ焼き 」。十和田市現代美術館周辺で、何か食べる物はないか、と探していたところ偶然に「バラ焼き大衆食堂」というアンテナショップを見つけて飛び込んでみたのだけど、なかなか趣があって面白かったし美味しかった。 食事をしている間、親切な女性の店員さんが話してくれる、バラ焼きの歴史などを聞いているのも楽しかったし、地元のアクセントの言葉に触れられるのも「今、自分は旅をしているのだ」という感じがして、とても味わい深かった。店の雰囲気も工夫がされていて、見ているだけでも面白いので、着になった方は、探して立ち寄ってみてください。 アイスクリーム& カフェ飯 他にも、十和田市現代美術館の前で食べたアイスクリーム(写真を撮影したのだけど、紛失してしまった)や、夜にホテルの近くで食べたカフェ飯(いわゆる、ロハスのイメージの店で、シンプルだけど素材の味を生かした料理で、旅でちょっと疲れている身体にはぴったりの味だった。こちらも店の名前は忘れてしまいました)も美味しかった。やはり、野菜や水が美味しいところの料理は、何を食べても飽きのこない豊かな味わいになるような気がする。もしも、地元にこのような店があったのならば、最低でも月に一度は通ってしまうだろうな、と思う店だった。 ちなみに自分は旅に出る時、事前に「食事の場所」を決めないで出発することが多い。宿の人に聞いたり、なんとなく目にとまったところへ入ることが多いからだ。なので店の名前や場所などを覚えていることがほとんどない。もしもここで紹介している店が気になった方は、そのような理由なのでご了承ください。 子供の頃の方が胃袋は小さいと思うのだけど、大人の今の方がもっと食べられると思うのだけど、なぜそんな風に感じるのか、よくよく考えてみると不思議な気もする。体格から言っても、3本くらいは食べられるような気がする。大人の場合だと、風景なども眺めて楽しんだりするから、それと合わせて「おなか一杯」と感じるのだろうか。「これ以上食べると太るから」などと無意識のうちにブ

岩木山から弘前城へ 初夏の青森を巡る旅(6)

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岩木山神社へ参拝 翌朝、7月だというのに、半袖では肌寒い(でも、心地よい)空気の中、向かったのは 岩木山 。空には、かなり厚めの雲がかぶさっていたので、岩木山を見るのは無理かな、と思っていた。 それでも、もしかしたら、と期待をしつつ、弘前市内を通り抜けて走り続けること数十分。目の前の雲が、一瞬だけ切れた。目をこらすと・・・あれだ! 間違いない。岩木山の頂上部分が、見える。あわてて車を路肩に駐車して、写真を撮る。ゾクゾクしてくる(ここに掲載している写真が、その時撮影したものです)。 僕は自称「晴れ男」で、わりと天気に恵まれることが多いのだけど、さすがに今回のような厚い雲の場合には、と諦めていたので、かなり気持ちがたかぶってしまった。仙台から、数百キロの道のりを運転してきた努力(?)に対して、山の神様が顔を見せて下さったのかもしれない。この後、数分で山は雲に隠れてしまい、そこをする。立ち去るまで、二度と見ることはできなかった。本当に、一瞬のチャンスだったし、それに気が付くことができて、本当によかったと思った。 弘前市内へもどり、弘前城へ 岩木山神社 に参拝をして、弘前市内へと戻る。目指すは、 弘前城 だ。最初は「ちらっと見て、帰ろう」と考えていたのだけど、想像していた以上の広さと旅先での睡眠不足による疲労も加わって、残っていた体力を根こそぎ持っていかれてしまった(笑)後から、レンタサイクルがあることを知り「借りれば良かった」と、少し後悔したので、これから行かれる方はレンタサイクルを検討されるのも、いいかもしれません。 ふらふらになりつつ、弘前城の近くにあった食堂で、そばを食べる。うまい!粥の汁を、一口いただく。食べた瞬間に、体の疲れがとれていくような気がする。旅に出た時には、なるべくその土地の郷土料理を食べるようにしているのだけど、今回は旅行全体を通して、美味しいものに恵まれて、とてもうれしかった。特に、野菜がおいしくて毎日食べたいと、本気で思った。あまりに美味しかったので、食堂と隣接している土産物屋で「リンゴドレッシング」を買ってしまったくらいだ。 2泊3日の青森旅 終了 店員さんも親切な人が多かったように感じるし、仙台市からでもちょっと頑張れば日帰りできない距離では・・・いや、日帰りは厳しいかもしれないけど、一泊す

ランプの宿青荷温泉 初夏の青森を巡る旅(5) 

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ランプの宿 青荷温泉へ 2日目の宿は、秘湯「ランプの宿青荷温泉」だ。この宿を選んだ理由は、偶然に予約サイトで見つけたからなのだけど、予約が完了した後に様々な雑誌で紹介されていることを知り評判が良いことを知り、期待感が高まっていた。 ここの宿の特徴は、その名前の通り照明関係が、すべて「ランプ」であるということ。部屋にコンセントもないからテレビなどもない。昔ながらの秘湯の風情が楽しめる宿ということだ。いわゆる現代の文明の利器が存在しない場所なわけで、そのようなところでどのような時間を過ごせるのか、とても楽しみにしていた。 宿への道は、高速道路の黒石ICから102号線へ向かい、そこから山の中へと入っていく。登山をする時に通るような、細い道を想像していたのだけど、きちんと舗装されていて(急勾配のところはありましたが)回りの風景を楽しみながら走ることができた。 宿に到着したのは午後6時ころ。すでに駐車場は満車状態で、あと2台ほどしかスペースがない。人気がある宿なのだな、と思いながら受付に向かうと「すでに食事が始まっているので、お早めに」と言われる。もう食事? お早めに? と、食事の場所になっている大広間をのぞくと、すごい人の数。100人以上は、いるかもしれない。すでに、ほとんどの方が食事を始めていらっしゃった。ランプのぼんやりとした明かりしかなくて周囲が良く見えないから熱気を強く感じる。修学旅行の時に、大勢で食事をした時のことを思い出す。なんとなく懐かしい気分になる。 ホタルが飛ぶ池へ 食事を済ませた後、宿の人に「午後の8時くらいになると、ホタルが飛ぶ池がある」と教えてもらっていたので、風呂にはいる前に行ってみることにする。少しの間、じっと立っていると、蛍がスーッと横切るのが見えた。そういえば、と思う。自分が住んでいる仙台も、20年以上前には、車で郊外に移動をすれば、蛍を見ることができた。道路に座って静かにしていると、やがてあちらこちらに小さいけれど強いエネルギーがこもった明かりが灯り始める。空中を横切るもの、草の上にとどまるもの、そして、自分達の服の上で輝くもの。目の前で、たくさんの蛍を見ることができたものだ。 もちろん、ここ10年くらいの間に、蛍の姿を見る事はできなくなった。そして先の地震で